11月3日は小祭りの日。
「小祭り」と言うと、市外、県外の人には「小さな祭り」と誤解されるかもしれませんが、そういう意味ではありません。
宮原村、和庄村、荘山田村のいわゆる呉浦3村の総氏神であった亀山神社には、兼務社が8社、飛地境内社が1社あります。
兼務社8社については、文字通り、亀山神社の宮司が神職を兼務しています。
具体的には、八咫烏神社、高日神社、平原神社、龍王神社*1、鯛乃宮神社、大歳神社、照日神社、恵美須神社の8社です。
また、飛地境内社1社については、地理的には亀山神社の境内外にあるものの、境内社として区画されている赤碕神社を指します。
当該9社は、亀山神社の「小宮」と呼ばれており、いずれも11月3日が例大祭の日となっています。
そして、これら小宮の祭りのことを呉の人々は昔から親しみを込めて「小祭り」と呼んでいます。
この日は他にも伊勢名神社、伏原神社、出穂金神社の祭りが行われています。
下の地図は、上記各神社の位置関係を昔の村々の境界線とともに示したもの*2。
これからも明らかなように、まさに旧呉市*3の町全体が祭り一色に染まります。
それこそ「小さな祭り」と思い込んで呉入りすると、どこへ行ってもやぶであふれ返っている光景に言葉を失うに違いありません。
さて、その小祭り。
以降は、厳密な定義は置いておいて、今年は八咫烏神社、高日神社、平原神社、龍王神社、鯛乃宮神社、恵美須神社の小宮6社と、伊勢名神社、伏原神社、出穂金神社の3社の祭りに足を運びました。
以下、時系列に沿って、その足取りを記します。
恵美須神社の祭り
まずはじめに訪ねたのが、11月2日、よごろの日の恵美須神社。
過去3年はいずれも、同日の14時台に川原石商店街を歩き、祭礼一行が町回りをしている様子を撮り続けてきましたが、今年はこれまでとは違った背景の写真を撮るべく、午前10時20分頃に神社を訪ねました。
10時30分前後にやぶがお祓いを受けに神社へ来たことがあると事前の情報を得ていたからです。
もちろん、これは過去情報なので、今年も必ずそうなるとは限りません。
実際、予想は空振り。
20分ほど待ちましたが、あいにくやぶが来る気配はなく、断念して引き上げました。
ただ、国道31号線から神社へ登る小道がやぶを撮る上で魅力的な背景であることが、その場に行ってよく分かったので、来年以降、期待が持てます。
もちろん、今年の恵美須神社のやぶをここで諦めるわけにはいきません。
町回りを終えたやぶが夕方遅くに再度出るとの情報を掴んでいたため、16時45分に再び、川原石入り。
すると、国道31号線沿いでやぶの姿を発見。
望遠レンズで覗くと、五番やぶを先頭に数匹のやぶが並んでいるのが見えました。
残念ながら一番から四番の姿をとらえることはできませんでしたが、この五番やぶの面は見た目にも明らかに古く、個人的には最もお気に入りの一枚です。
お陰でじっくりと拝見することができました。
ちなみにこの日の呉の日没時刻は17時15分。
私の腕では、日没後の撮影は困難なので、同時刻を迎えると同時に当地を後にしました。
鯛乃宮神社の祭り
その後、所用を済ませ、次に訪ねたのが鯛乃宮神社。
18時30分に四番から九番のやぶが神社に集まると聞いていたからです*4。
こちらは確定情報だったので、満を持して訪問。
境内は既に地元の人たちで賑わっていました。
中でも目を引いたのが、長蛇の列の先にあったこちら。
見たところ土でできた玉のようで、大勢の人がこれを買い求めていました。
なぜ、土の玉を買うのか、にわかには理解できませんでしたが、聞くとこれは「玉替え」と呼ばれる祭りの伝統行事とのこと。
昔は、玉を買って互いにじゃんけんをし、自分の玉数を増やして遊んでいたそうです*5。
今はそうした「遊び」はせず、玉の中に入っているくじのみを取り出しているとのこと。
初めて知りましたが、行列ができるということは地元の人たちは祭りの日ならではのそうした楽しみをよく知っているのでしょう。
そのせいか、境内はよごろを楽しんでいる一体感で満ちていました。
もちろん、ここに集まる人たちのお目当ては玉替えだけではありません。
よごろのやぶを一目見ようと足を運んだ人も大勢いることでしょう。
私もその一人。
但し、愛用のカメラでは夜間の撮影は難しいので、ここは潔くiPhoneで代用。
夜の写真としては、まずまずの出来栄えです。
しかし、この一枚で満足するわけにはいきません。
翌朝6時40分に鯛乃宮神社を再訪。
例大祭の日の早朝7時、やぶがお祓いを受けに来るという予定を聞いていたからです。
祭りというと「賑わい」は付き物ですが、さすがにこの時間帯は静寂に包まれています。
待つこと20分。
定刻通り、祭礼一行が到着し、一番やぶを先頭に116段の石段を登ってきました。
鯛乃宮の面は、一部、戦時中の空襲で消失してしまったものもありますが、一番から六番までの伝統的な6面は、文字通りここの祭りの「顔」。
年季の入った面がずらりと並び、それだけで荘厳な空気が漂います。
六番やぶ
闇夜のやぶも見ものですが、朝日を浴びるやぶは一層絵になります。
一番やぶ
ちなみに鯛乃宮のやぶと言うと、衣装は亀甲柄。
なぜ、ゼブラ柄なのか尋ねてみると、よごろと例大祭の日の午前はこの衣装を使っているとのこと。
合点がいきました。
お祓いが終わったのが7時20分。
すかさず、石段を降り、下でカメラを構えます。
一番やぶ
二番やぶ
三番やぶ
その後、一行は呉三津田高校の裏門入口下へと移動。
その背中を見送ってから、次の目的地、平原神社へと向かいました。
平原神社の祭り(1)
神社に着いたのは、7時30分過ぎ。
お目当ては同じく、お祓いを受けに集まるやぶ。
朝8時に畑祭礼委員会のやぶが来ると聞いていたのです。
祭りシーズンの間、やぶばかりに目を奪われていましたが、ふと気が付くと木々もすっかり秋色に染まっていました。
「無音の美」というものがあるとしたら、それはまさしくこの場に存在していたのかもしれません。
ただ、肝心のやぶはと言うと、正しくは「7時集合」の誤りだったようで、前日の恵美須神社に続いて二度目の空振り。
しかし、こうしたことはよくあること。
代わりに興味深いものを目にすることができました。
それは、社殿の中に掲げてあった一枚の写真。
そこに写っていたのは、驚くことに馬喰(ばくろう)です。
言うまでもなく、馬喰は吉浦八幡神社や城神社の祭りで見られる、かつての吉浦村の文化。
よく見ると、日付は昭和10年11月3日と書かれています。
まさに81年前の小祭りの日。
まさか、当時、この地に馬喰がいたのでしょうか。
他所の祭りの写真をわざわざ奉納する理由も見当たらず、かと言って旧呉市内の祭りに馬喰が出ていたなどという話はこれまで一度も聞いたことがなく、謎は深まるばかりです。
ただ、「發起人」として記された名前に畑に所縁のある方が多く含まれていることから、昔の畑の祭礼一行ではないかという一説もあります。
仮にそうだとして、背景の建物は、神社の社殿とは異なっていることから、道中の某所だったのかもしれません。
社殿
いずれにせよ、馬喰の不気味さ、牛の異様な大きさが目に焼き付いて離れません。
伊勢名神社の祭り
続いて向かった先は、伊勢名神社。
宮原6丁目に鎮座する小さな社です。
訪問するのは今回が初めて。
子やぶのみの祭りながら、古い面が出されていると聞き、それを確かめたく、足を運びました。
神社に着いたのは、8時50分。
ちょうど、神事を行っている最中でした。
厳かな雰囲気のもと、「巫女の舞い」が奉納されるなど、しばしその様子を傍らから見物。
それが終わって、石段を降りてきたのが9時15分頃。
いよいよ正面から見ることできます。
見たところ、やぶは4匹。
内、2匹の面が格別、古そうに見えました。
下記の写真がそれです。
面の作りはよく似ており、上は口が開いたもの、下は閉じたものとなっています。
同時期に彫られた番(つがい)なのかもしれません。
その古さ故か子ヤブとは思えないオーラが漂っていました。
この面がいつ頃から使われているのか、法被を着た年配の方数名に尋ねてみましたが、あいにく詳しいことが分かる人がおらず、その歴史については今後の取材で明らかにしたいと思います。
高日神社の祭り
宮原での約30分間の滞在を終えて、次に向かったのが高日神社の祭りが行われている和庄地区。
町回り途中の寺迫・登・古江祭礼保存会のやぶを見るためです。
時刻は9時30分過ぎ。
ちょうどエディオン和庄店の前で迫割りを行っているところで、祭礼一行に追いつくことができました。
最初に視界に入ったのがこちらのやぶ。
祭り関係者の方に伺うと、この日は午前中は二番やぶとして、午後の途中からは五番やぶとして出る予定とのこと。
躍動感あふれる動きにしばし目を奪われ、シャッターを切り続けました。
そんな「二番やぶ」と別れ、続いて向かったのが本通5丁目。
平原神社の祭り(2)
事前の情報では、平原神社、鹿田迫奉賛会のやぶが10時過ぎにこの界隈を回るはず。
そこで本通5丁目を休山新道の方面に向かって歩いていたところ、早速、遭遇。
いつ見ても鹿田の古面には惚れ惚れします。
中でも三番は個人的に一番のお気に入り。
その後、しばらく付いて歩き、石谷衣装店に着いたところで一行は休憩に入りました。
下記の写真はその寸前に撮った一番やぶ。
毎年のことながら、見事な胸筋です。
出穂金神社の祭り
ここで、午前の撮影を終え、所用のため、一旦、呉を離れました。
再び、呉に戻ったのは13時ちょうど。
早朝の冷え込みと打って変わって、汗ばむほどの陽気です。
ここから先はまずは、出穂金神社の祭りが行われている山手地区を目指し、三津田橋から二河川沿いを北上。
上山手橋に着くと、タイミングよく、祭礼一行が午後の出発を控えているところでした。
関係者の方が記念撮影を行っている中、私もその輪に入れてもらい、山手の一番と三番をアップで撮影。
その後、一行に付いて、二河川沿いの道を南下。
山手橋上でも一番やぶに的を絞ってカメラを構え続けました。
途中、目に留まったのがこちらの橋。
大平橋と呼ばれる木造の橋で、何とも風情があります。
この橋をやぶが渡ったらさぞかし絵になるだろうと思ったものの、あいにく今は人が渡れないよう封鎖されていました。
その昔はここを山手のやぶが渡っていた時代があったのかもしれません。
約30分ほどの南下の末、行き着いたのが、恒例の三津田橋。
毎年、ここで鯛乃宮神社のやぶと対峙するのですが、今年はここで一行と離れ、次の目的地に向かいました。
平原神社の祭り(3)
向かった先は朝日町の胡町公園。
この公園は、伏原神社の祭りの「浜の宮」となっていることから、14時頃にやぶも集まり、神事が行われると聞いていたからです。
ところが、行っていると人っ子一人いない状況。
早過ぎたのか、遅過ぎたのか、分からず、どうしたものかと思案していたところ、法被を着た男性を一人、見つけることができました。
尋ねてみると、集まるのは14時ではなく、15時頃、と。
その声を聞くや否や、当初、頭に描いていたスケジュールを組み直し、すぐさま平原神社へと向かいました。
早朝、空振りに終わった畑のやぶの撮影をするためです。
例年の予定に従えば、今年は畑祭礼委員会を先頭に西畑の山崎屋前から平原神社に向かって緩やかな坂道を登っている最中のはず。
そこで、最短ルートの吾妻の急な坂道を這うようにして登り、まずは平原神社に到着。
こんなときでないと絶対に生まれてこない気力が非力な脚力をカバーします。
そこから、一行とは逆に山崎屋方面に向かって坂を下り始めると、ほどなく畑のやぶが視界に入りました。
畑の一番です。
関係者によると、昭和45年に彫られ、以来ずっと、畑の一番を務めているとのこと。
(それ以前の一番の面については、「昔の祭り」(平原神社・畑編)で紹介予定)
さらに逆走を続け、坂を下り続けると、今度は畑の三番とも遭遇。
こちらは比較的新しく、平成になって制作された面。
しかし、実は畑の緑面というと、その歴史は古く、初代緑面は今の一番面、二番面が作られた昭和45年以前に二番面として長く使われていたそうです。
また、同年以降も四番面として出され、平成になってからもしばらくは使用されていたことがこの度の取材で分かりました。
それを示す貴重な写真がこちら。
祭り関係者OBのご家族の方から提供いただきました。
撮影年は不明ですが、いずれにせよ昭和と思われます。
この時点で既に年季の入りようが伝わってきます。
緑の面というと、旧呉市内各地ではあまり目にすることがありませんが、そんな中、今の畑の三番は決して唐突に生まれたのではなく、初代緑面という「歴史」の延長線上に制作されたのでしょう。
一度でいいから、そのルーツとなった古面を拝んでみたいものです。
伏原神社の祭り
畑のやぶの撮影を終えて、続いて向かったのは、先ほど先走って訪ねた朝日町の胡町公園。
時刻はあれから一時間弱が経過した14時50分過ぎ。
今度は、幸いにもこれ以上はないタイミングで、まさに伏原神社奉賛会と朝日町廣鈴会のやぶが両一番を先頭に、揃って公園に到着するところでした。
中でも、私自身としては伏原の二番、三番の古面を目の当たりにするのは4年ぶりだったので、レンズ越しに食い入るように見入っていました。
伏原の二番
伏原の三番
いずれも一番同様、色は赤黒く、所々、剥げ落ちており、積年の歴史から醸し出される貫禄を感じさせます。
このままここに留まって、神事の様子も観たいところでしたが、その誘惑を振り払って、秋色に染まった胡町公園を後にしました。
八咫烏神社の祭り
続いて向かったのは八咫烏神社。
時刻は15時15分。
本来であれば、14時30分以降、やぶが石段を登っていく様子を撮りたかったのですが、各地を回る予定が当初の計画よりも大幅にずれ込んだため、到着時にはもう既に境内に上がっていました。
こうなると、一刻を争う気持ちで上に上がっていくしかありません。
長い石段を登るのは、どこの神社でもしんどいものですが、中でもこの八咫烏神社は最もきついのではないかと感じています。
今年もふらふらになりながら気力だけで駆け上がりました。
階上に着いて最初に視界に飛び込んできたのがこちらのやぶ。
カメラを構えた瞬間、疲れも足の張りも感じなくなるので、不思議なものです。
辺りを見回すと、悠然と立ち構える一番やぶがすぐに視界に入りました。
昭和28年から八咫烏の祭りに出されている面です。
鬱蒼とした竹林がやぶを一層引き立てます。
しばらくすると、とんぼ(俵みこし)が社殿の周りを走り、続いてやぶが全速力で社殿を周回。
その勢いたるやカーブを回りきれないのではないかと思うほどで、それでも一切スピードを緩めることなく、抜群のバランス感覚で体勢を保ちます。
社殿の周りを走りきったやぶは、立ち止まることなく、その勢いのまま青竹を力いっぱい地面に叩きつけ、先を割ります。
さすが地元の人はその一連の流れを見慣れているようで、やぶが竹を割る瞬間、声援の掛け声がかかります。
思わず私も写真を撮るのを忘れて、一緒に声を上げていました。
渾身の力で竹先を割ると、今度はすぐさま踵を返し、本殿の前で高々と青竹を構える一番やぶに向かって、二番以下のやぶが各々、竹を振り下ろしに飛び込んでいきます。
この場面での見物客の掛け声も実に絶妙。
楽しみ方や盛り上げ方を熟知している様子に、地元の祭りならではの一体感を感じました。
僅か15分程度の短い滞在ながら、この想像もしていなかった中身の濃い時間帯に遭遇できたのは、幸運の一言に尽きます。
しばし余韻に浸りながら、この日、最後の目的地に向かうべく、境内を後にし、石段を下りました。
途中、見える呉らしい眺めは、急ぎ足を止めるほど、見る者を惹きつけます。
龍王神社の祭り
さて、小祭りの楽しみも残すはあと一箇所のみ。
最後に訪れたのは、辰川地区に鎮座する龍王神社です。
時刻は15時50分。
昼間の陽気が嘘のようにいつの間にか冷え込んでいます。
しばらくすると、石段を上がってきたやぶの姿が見えました。
固唾を呑んで見守っていると、ほどなく俵もみが開始。
これからとんぼとの激しい衝突が長時間に亘って繰り広げられます。
その全てが見せ場と言っても過言ではありませんが、中でも一番、二番の「揃い踏み」の場面は、シャッターを押す指に最も力が入る瞬間です。
右が一番、左が二番
また、ここで改めて述べるまでもなく、龍王神社の祭りと言えば、呉の祭り史を彩る古面をいくつも拝むことができます。
以下はその代表例。
澤原家の面
勝田家の面
日留田家の面
澤原家の面
鈴木家の面
詳しくは、「昔の祭り(龍王神社編)」で述べますが、戦前、並びに昭和20年代*6、30年代にかけて、龍王神社の祭りは、以下の3地区からそれぞれやぶと太鼓が出されていました。
- 荒草地区(荒神町・草里町)
- 惣付・畝原地区
- 辰川地区(東辰川・西辰川)
このうち、荒草地区のやぶは、澤原家(2面)と鈴木家が所蔵する3面、惣付・畝原地区は、勝田家と日留田家の2面、辰川地区は、横見瀬家と城戸家の2面で、これらは当時の「不動の7面」であったと言います*7。
浅沼秀行氏提供(昭和29年撮影/手前中央が横見瀬家の面、左奥が城戸家の面)
今でも横見瀬家と城戸家の面を除く5面は、龍王神社に祭りに出されており、地元の人たちを楽しませています。
いずれも、呉の宝であり、地域の財産と言っても過言ないでしょう。
そうした祭りを今、当たり前のように見物できるのも、その時代時代において祭りを愛する人たちの並々ならぬ努力が今日に至るまで払われてきた賜物だと思います。
その歴史に関わった全ての人に敬意を払いつつ、今年最後の訪問地を後にしました。
最後に
9月22日に幕が明けた2016年の祭りシーズンもあっと言う間に終了しました。
今年は、6月から「昔の祭り」シリーズの連載を始めたこともあって、これまでにも増して、「歴史」という視点を織り交ぜながら「今の祭り」を取り上げてきました。
改めて紹介すると、「昔の祭り」は、主に戦前から昭和20年代、30年代にかけての祭りを取材対象としています。
この時代に光を当てるのは、個人的な好奇心によるだけでなく、当時の様子を語ることができる80代、90代の方が年々減っていることから、事実関係を整理し、100年先の未来まで記録として残しておくには、今しかないという切迫感があるからです。
幸いにもこれまで執筆してきた、八咫烏神社、鯛乃宮神社、亀山神社については、昔の写真と証言者に恵まれ、分かる範囲で記録化することができました。
他にも、現在、龍王神社、高日神社、高尾神社については、古写真が集まりつつあり、中でも龍王、高尾の両神社は、往時を知る80代、90代の方への取材も行えていることから、その一部を今シーズンの記事の中で紹介させていただきました。
また、「昔の祭り」という時間的な切り口だけでなく、地理的な観点も交え、「養隈の祭り」という分析的な記事を「試論」として書いたのも、今シーズンの成果の一つに数えてよいかもしれません。
これら一連の取材に協力してくださった方へこの場をお借りして心より感謝申し上げます。
最後になりますが、「昔の祭り(鯛乃宮神社編)」で取材をさせてもらった山本武義さんが、去る10月23日に他界されました。
その訃報を知ったのは、奇しくも11月3日の小祭りの日です。
謹んでご冥福をお祈りし、本記事を故・山本さんに捧げたいと思います。
若かりし日の山本さん
Copyright(c)2016, kureyabu All Rights Reserved
*2:大歳神社については、元々は和庄地区に鎮座していたものの、明治42年9月に現在地に移転。
http://www.kameyama-jinja.com/menukenmu.htm
*3:明治期の宮原村・和庄村・荘山田村の呉浦3村、及び吉浦村から川原石・両城地区が分離し誕生した二川町が合併してできた地区。
*4:鯛乃宮神社の祭りでよごろに出るやぶは、四番から九番のみとなっている。
*5:下記に昭和50年までは亀山神社の祭りでも「玉替え行事」が行われていたとの記述あり。
http://www.kameyama-jinja.com/menumaturi.htm
*6:戦後はしばらく祭りが開催できず、再開したのは昭和20年代半ば。
*7:2016年9月12日、西平信夫氏への取材による。