"昔の祭り"の背景に郷土史あり。
とりわけ亀山神社の祭りは、時が経つにつれ埋もれがちな「呉の記憶」の多くを教えてくれます。
英連邦軍の十年に及ぶ呉駐留
写真1
呉市提供 <C. N. Govett氏所蔵>
写真1は昭和22年の亀山神社の祭り。
四ツ道路交差点から清水通りの方角を臨んでいます。
中央手前に後姿が写っているのは、英連邦占領軍(British Commonwealth Occupation Force, 以下BCOFと表記)の兵士です。
呉では、戦後間もなくアメリカ軍が占領軍として進駐していましたが、昭和21年2月以降はアメリカ軍に代わって英連邦軍が進駐するようになりました。
オーストラリア、ニュージーランド、イギリス、インドの4ヵ国から成るBCOFは、旧呉鎮守府司令長官官舎(現・入船山記念館)に司令部を設け、中・四国地方全域に兵力を展開。
ピークとなった昭和21年には約3万7千人の兵士が呉港に上陸しています。
その後、兵員は縮小され続け、昭和25年には全面撤退となる運びでしたが、同年6月、朝鮮戦争が勃発したため、撤退は延期。
新たに国連軍の一部として英連邦朝鮮派遣軍(British Commonwealth Force in Korea、以下BCFKと表記)が形成され、その後も英連邦軍の呉駐留は続きました。
最終的に英連邦軍が全て撤退したのは、昭和31年11月。
サンフランシスコ講和条約の発効によって日本が独立を果たしてから4年後のことです。
かれこれ10年余りに亘って呉に駐留していたことになります。
さて、その英連邦軍の兵士ですが、彼らが撮影した貴重な写真が呉市文化振興課市史編纂グループに所蔵されています。
もちろん祭りの写真もあります。
中でも多いのが、亀山神社の祭り。
この度、許可を得て、それらを閲覧させていただきました。
以下、その一部をご紹介します。
(掲載についても許可を得ており*1、無断転載は厳禁となっています)
写真2
呉市提供 <C. N. Govett氏所蔵>
戦時中に途絶えていた亀山神社の祭りが再開されたのは、終戦翌年の昭和21年*2。
写真2は、その翌年、昭和22年に撮られたものです。
立体的な面と濃い横縞模様の衣装が特徴的ですが、このやぶに関する目撃証言は得られておらず、詳細は不明です。
写真3
呉市提供 <D. Mathers氏所蔵>
写真3は、昭和30年の亀山神社の祭りの日に本通で撮影されたもの。
写っているのは、昔の和庄上*3、この写真の当時だと和庄通4丁目自治会*4から出ていた高日神社のやぶです。
今はもう見られることがなくなった高日の古い面のやぶがBCFKの兵士とともに写真に収まっています。
向かって左が二番やぶ、右は不明です。
写真4
呉市提供 <D. Mathers氏所蔵>
写真4も昭和30年の亀山神社の祭りで、場所は中通商店街(現・中通3丁目)。
写っているのは、高日神社のやぶと太鼓です。
写真5
呉市提供 <D. Mathers氏所蔵>
写真5も同じく昭和30年の亀山神社の祭り。
高日のやぶが中通で俵を揉んでいる様子です。
写真6
呉市提供 <D. Mathers氏所蔵>
写真6も昭和30年の亀山の祭りで、場所は四ツ道路付近。
「寺西町青年部」と書かれた幟が写っています。
この当時、寺西町自治会も亀山の祭りに参加していたことが伺えます。
写真7
呉市提供 <D. R. Burls氏所蔵>
写真8
呉市提供 <D. R. Burls氏所蔵>
写真7と写真8は、カラー写真ですが、撮影年月日は写真3~6と同じく昭和30年の亀山神社の祭りの日。
黄と黒の横縞模様の衣装と言えば、龍王神社のやぶが真っ先に浮かびます。
現在、龍王神社の祭りでは、龍王会をはじめ、東辰川町、畝原町、西辰川町、惣付町の4町1団体がそれぞれ俵神輿の奉納を行っています。
(郷町については、現在は町回りのみで、奉納は行っていません)
また、昔は荒神町や草里町なども祭りに参加していたと聞きます。
そのため、上記の地区のいずれかのやぶである可能性が考えられますが、現時点では具体的な特定までには至っていません。
なお、亀山の祭りに龍王神社のやぶが出ていたことを示す写真がもう一枚あります。
撮影したのは中国新聞社。
時期は昭和20年代と思われますが、詳細は不明。
但し、これについては写真単独での掲載許可が得られないため*5、ここでは当該写真を参考にイラストにして描いたものを紹介します。
描いてくださったのはイラストレーターの小宮貴一郎さん。
とりわけ面については、特徴が分かるよう忠実に描写してもらいました。
横縞の衣装は当地区にお馴染みのスタイル。
龍については、神社名*7の由来にもなった『近くの二河川の滝から龍神が水を飲み、 竜巻を起こして慈雨を降らせた』という伝承があることから*8、それを表現したものと思われます。
今でも西辰川町から龍が出されていますが、このイラストに描かれたものとは様相が異なっています。
ちなみに写真9は、昭和29年11月3日、いわゆる小祭りの日に辰川地区から出たやぶです*9。
撮影者は、当時、西辰川町に在住していた浅沼秀行さん。
ご本人から提供いただきました。
写真9
浅沼秀行氏提供
イラストのやぶと同様、昭和20年代のやぶですが、見比べてみると、目や眉のあたりが異なっていることから、少なくとも同一のやぶでないようです。
そのため、現時点ではイラストのやぶについて、詳細が判明するには至っていません。
さて、ここまで紹介した亀山の祭りの写真は、いずれも英連邦軍の兵士によって撮られたものでしたが、日本人によって撮られた写真もあります。
写真10
呉市提供
写真10は、昭和35年もしくは昭和36年に撮られた亀山神社の祭りです*10。
「第一青年団」と書かれた幟と幟の隙間に小さく写っているのは、八咫烏神社のやぶです*11。
写真11
浅沼秀行氏提供
また写真11は、前掲の写真9と同様、浅沼秀行さんに提供いただいたものです。
昭和26年の亀山神社の祭りの前日、いわゆる宵宮祭(よごろ)の日に英連邦軍の兵士を自宅に招いて「スキヤキパーティー」を催したときの一枚。
今年88歳になる浅沼さんが23歳だった頃の写真です。
(中央列の右から二番目の男性が浅沼さん)
亀山神社の祭りにひっかけて、普段、仕事で付き合いのあったBCFKの兵士とお酒を酌み交わしながら交流を図ったそうです。
戦後6年というとまだ日本が独立を果たしていない占領下の時代ですが、英連邦軍兵士との意外なまでに親しい間柄の様子がこの写真から伝わってきます。
亀山の祭りが一役買ったのでしょう。
呉浦3村による奉納
ここで素朴な疑問が湧きます。
そもそも亀山神社の祭りになぜ他の神社のやぶが出ているのでしょうか。
今では見られない光景です。
その疑問を解く鍵は、亀山の歴史にあります。
写真12-1
写真12-2
亀山神社提供
写真12は、文字通り「亀山の歴史」が綴られたもの。
亀山神社は、昭和3年、浮浪者の失火により社殿が焼失し、江戸時代中期以降の古文書を全て失っています。
そうした中、第31代宮司を務めた太刀掛親白氏が、郷土史研究家の久保田利數氏の助言・監修のもと、大正、昭和と二度の「懸社昇格」の願いの書類に添付された 「由来伝」、「縁起」の写しと、いくつかの参考文献などをもとに著したのが、上掲の文書です*12。
これによると、『現在地に移轉(移転)される迄の亀山神社の御祭禮(御祭礼)』について、次のように記されています。
「とんぼ」や「はやし」は室瀬・中川・坪内(以上宮原村)・呉町、鹿田・和庄(以上和庄村)、郷・山田・庄(以上荘山田村)の九ヶ迫から、特色あるものが出、華やかさを競った。
御神輿渡御の神事も傳統が厳しくまもられた。荘山田村の若衆が御神輿の前を、和庄村若衆が御神輿後部をかつぎ、神社所在地といふ事で宮原村若衆は「輿つき」と言ひ、中央部に頑張ってかつぎ廻ったといふ。
少し解説しましょう。
下記の地図は、江戸時代の呉浦における村々の位置関係を現代の地図上に示したものです。
呉市入船山記念館編(1993)「『呉浦』の絵図:『村絵図』のなりたち」『館報 入船山 第5号』を参考に作成
「呉浦」とは、宮原村(呉町を含む)、和庄村、荘山田村*13の3村を総称する、この地方の呼び名です。
宮原村と和庄村の境界は、眼鏡橋の下を流れる桧垣川。
和庄村と荘山田村の境界は、境川(現・堺川)となっています*14。
また、各村の中にはいくつかの集落があり、その付近には神社があります。
例えば、宮原村の坪内には八咫烏神社が、和庄村の和庄には高日神社が、荘山田村の庄には龍王神社があります。
当然、村の人々は、各々の集落に鎮座する神社を奉っていたと思われますが、その一方で、亀山神社の祭りには迫単位で「とんぼ」や「はやし」を出していたことを上記の文書は示しています。
さらに、『御神輿渡御』については、荘山田村が神輿の前部を、宮原村が中央部を、和庄村が後部を担ぐ形で共同で行っていたことも記されています。
なぜ、亀山神社の祭りに限ってこのようなことが行われていたかというと、それは亀山神社が、これら3村の総氏神(惣鎮守社)と位置づけられていたからです。
そのため、毎年の祭りはもちろんのこと、和庄村への遷座に際しては、宮原・和庄・荘山田の3村が申し合わせて大祭典を行ったという記録も残っています*15。
また、前掲の「亀山の歴史」(写真12)には、
明治二十三年現在地移轉後は十月十七日が例祭日で、各地區の若者達が神輿に供奉して賑はひを見せた。
とあることから、3村共同による奉納は、現在地へ移転して以降も続いていたことが分かります。
こうした歴史を鑑みると、戦後、英連邦軍の兵士らが撮った「亀山神社の祭り」の写真に、高日や龍王、八咫烏のやぶが写っていたのも頷けます。
紛れもなく、呉浦3村の時代の延長線上に、戦後の混乱・復興期における亀山神社の祭りの「形」があったと言えます。
前掲の「辰川地区から出たやぶ」(写真9)やBCFK兵士との「スキヤキパーティー」(写真11)の写真を提供してくださった浅沼さんによると、昭和20年代から30年代にかけて辰川地区は「第五青年団」という呼称で亀山神社の祭りに参加していたそうです*16。
こうした呼び方をするのは、亀山の祭りに参加するときだけで、地元の龍王神社の祭りではそうした名称は使っていなかったと言います。
また、辰川地区と接する郷町などは「第六青年団」と呼ばれていたことも浅沼さんは記憶しています。
だとすると、写真10に八咫烏神社のやぶとともに写っていた「第一青年団」と書かれた幟は、旧宮原村の地区を表していたと考えられます。
写真13
呉市提供
実際、写真13を見ると、「第一青年団」の幟とともに「宮原小供会」と小さく添え書きされた木製の奉納札が俵みこし上に写っています。
おそらく、旧和庄村の和庄地区や鹿田地区、旧荘山田村の山田地区も「第二青年団」、「第三青年団」、「第四青年団」のいずれかに該当していたと思われます。
但し、こうした六地区青年団による奉納の「形」は、時代の進展とともに見られなくなりました。
その一方で亀山の祭りを賑わす中心的存在になっていったのが、現在の亀山神社氏子奉賛会です。
その歴史を語る前に、前掲の「亀山の歴史」(写真12)に書かれてあった、明治時代に亀山神社が『現在地に移轉(移転)』することになった背景と、その後、終戦に至るまでの呉の変遷について、紹介しておきます。
亀山のお膝元、呉町の消滅
明治19年、それまで平穏な歩みを続けていた呉浦3村の未来を一変させるような大きな出来事がありました。
同年5月、呉浦に第二海軍鎮守府が置かれることが決まったのです。
これによって、当時3村合わせて1万2千人余りでしかなかった人口が、約半世紀後に40万人を超えるまで増大するなど、呉の町は急速に形を変えていくになりました。
写真14
呉市提供(澤原梧郎氏所蔵)
写真14は、そんな運命の年となった明治19年の呉浦を亀山神社の付近から撮影したものです。
現在、呉の中心地となっている平地の大半は、江戸時代に干潟を埋め立ててできた「新開」と呼ばれる土地で、明治になってもこの頃は集落が全く見当たらなかったことが分かります。
そして、この写真の撮影地点となった亀山神社は、現在の入船山記念館の場所に鎮座していました。
写真15
呉市提供(澤原喜久氏所蔵)
写真15は、その当時の亀山神社です。
写真の左寄りの部分に社殿の一部が写っているのが見えます。
この亀山神社が鎮座していた地に、明治22年、呉鎮守府軍政会議所兼水交舎が建てられ、その3年後、呉鎮守府長官官舎となりました。
こうした国家的施策によって移転を余儀なくされた亀山神社は、明治22年、隣村の和庄村に遷座されることとなりました*17。
一方、移転を迫られたのは亀山神社だけではありません。
明治19年5月、呉浦に鎮守府が設立されることが決まると、宮原村の呉町にあたる部分を中心に約77万㎡が海軍用地として買収されることとなり、1,023戸の住民がおよそ3ヶ月以内に立ち退くことを命ぜられたと言います*18。
呉町というのは、元々は宮原村にあって地域経済の中核を担っていましたが、江戸時代に藩の許可のもと、町庄屋が任命され、町方「呉町」として独立。
それが明治4年に再び宮原村に編入され、以降も変わらず流通の拠点となっていました。
写真16
呉市入船山記念館編(1997)「青盛敬篤の見た呉の変遷」『館報 入船山 第9号』, p.6に掲載の航空写真②の一部を、建設省国土地理院、並びに呉市産業部海事歴史科学館学芸課の許可を得て転載
この空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍撮影の空中写真を複製したものです(承認番号 平28情複、第448号)。第三者がこれをさらに複製する場合は、国土地理院の長の承認を得る必要があります。
写真16は、昭和23年にアメリカ軍が撮影した航空写真上に呉町の位置を示したものです。
赤色の斜線部分が呉町の概略の範囲です。
現在の海上自衛隊呉地方総監部や同呉警備隊、呉労働基準監督署、入船山公園などにかかる位置です。
明治19年、この呉町が海軍用地として接収されることになり、その全てが姿を消すこととなりました。
同じ宮原村でも室瀬、中川、坪内の各迫には、近隣にそれぞれ赤崎神社、伊勢名神社、八咫烏神社があったのに対し、呉町は、文字通り、亀山神社のお膝元でした。
それが丸ごと消滅してしまったわけです。
その結果、宮原村の人口は僅か3ヵ月の間に半減。
立ち退きを命ぜられた住民の約6割は、補償として得た土地代金と移転料をもとに宮原村の高地部や吉浦村の川原石・両城地区などへと移り住みましたが、海軍用地の買収が進むにつれ、土地が高騰、借家の家賃も急騰し、やむを得ず海辺に帆柱を立て、そこに帆を張り、雨露を凌ぐのがやっとというような生活を強いられた住民も多かったと言います。
そうした中、当時の安芸郡長、澤原為綱*19が海軍省へ掛け合った結果、現在の呉駅前に広がる平地部*20へ割安な条件で移住する道筋が付き、困窮状態にあった住民の移動問題がようやく解決することとなりました*21。
呉の発展と戦災
一方、亀山神社は明治22年に和庄村へ遷座された後、明治24年12月23日に新社殿落成。
写真17
出所:呉乃枝折(明治37年発行)
写真17は、明治36年に撮られた亀山神社です。
この年、呉海軍工廠も設立され、工員を中心に人口も急増。
明治末期には、10万人を超えました。
写真18
呉市提供(山中利彦氏所蔵)
写真18は、明治末期から大正初期の本通。
また、本通に路面電車が開通したことで、中通も本通と並ぶ繁華街として賑わい始めました。
なお、この本通と中通こそが現在地に移転後の亀山神社の新たな「お膝元」となり、戦後の混乱、復興期を経た後、亀山の祭りを担う新たな主役として躍り出ることになるのですが、この点については次節で詳説します。
写真19
呉市提供(出典:『最新撮影呉名勝』加藤恭夫氏所蔵)
写真19は明治末期の中通です。
僅か20年余りで村落から都市へと変貌を遂げたことがこれらの写真からも伺えます。
その後も軍都として目覚しい発展を遂げた呉は、昭和18年には人口も40万人を超え、当時の10大都市の一つにまでなりました。
ところがそんな呉も昭和20年の3月から7月にかけて計6回に亘って行われたアメリカ軍による空襲によって壊滅的被害を受けました。
中でも7月1日夜半から2日の未明にかけての焼夷弾攻撃は、最も大きな被害をもたらし、死者1,949名、負傷者2,138名、全焼全壊住宅22,954戸、半焼半壊住宅735戸と記録されています。
元々、内海の奥深くに位置し、攻撃を受けにくく、防御面で有利という理由で呉に鎮守府が置かれたのですが、海防と違って空からの攻撃にはあまりにも無力であったと言わざるを得ません。
亀山神社もこの空襲で甚大な被害を受けました。
今でも亀山神社内の狛犬には焼夷弾で焼かれてできた亀裂が戦災の爪痕として残っています*23。
写真20
呉市提供(Australian War Memorial 所蔵)
写真20は、昭和21年4月に眼鏡橋付近から撮影された呉市街です。
終戦から8ヶ月が経過していますが、まだ一面焼け野原のままです。
明治の末期以降、呉一の繁華街として栄えた本通、中通の面影もありません。
戦後の祭りは、まさにこのような状態から再開を目指し、行われたのでした。
写真21
亀山神社提供
写真21は、戦後しばらくしてからの亀山神社です。
空襲で社殿が焼失したため、掘っ立て小屋を建て、これを拝殿、幣殿として使用。
さらに、入船山に旧海軍によって建立された水交神社の本殿を借り、これを仮本殿として祀っていました。
写真22
亀山神社提供
写真22は、その仮本殿。
昭和29年に社殿の再建が決まり、運び出しているところです*24。
写真23
亀山神社提供
写真23は、再建を間近に控えた新社殿。
上棟祭の祝い餅がまかれようとしているところです。
写真24
亀山神社提供
写真24は、餅を受け取ろうと、新社殿の屋根を見上げている人たち。
この日を迎えるまで、戦後およそ10年のときを要しました。
亀山神社の再建は、呉の人にとって戦災からの「復興」の象徴でもあったのかもしれません。
集まった人々の希望に満ちた表情にそれが表れています。
亀山の新たな祭りの「形」
さて、これまで見てきたように、呉浦3村の時代から戦後の混乱、復興期に至るまで、亀山の祭りを主として担ってきたのは、旧9ヶ迫に代表される呉の伝統的な地域に暮らす人たちでした。
そうした旧来からの祭りが大きく変容し、新たな「形」が確立されることとなったのは、昭和40年代の後半期以降のことです。
その過程で重要な役割を果たしたのが、写真25の後列左端に写っている少年です。
写真25
加登岡明夫氏提供
少年の名は加登岡明夫。
この写真は、昭和38年、加登岡少年が8歳時に亀山の祭りに初参加したときのものです。
少年が加わったのは、当時の本通1丁目・2丁目、中通1丁目・2丁目*25の人たちが中心となって運営していた亀山神社祭礼協賛会でした。
写真26
呉市提供
この会がいつ誕生したのかは定かではありませんが、写真26に同会の名前が書かれた幟が写っています。
そこに「昭和三十四年」の文字を確認できることから、少なくともこの時点ではれっきとして存在していたことは確かです。
また、同会については、戦後、「四ツ道路会」の人たちが立ち上げたのではないかという証言もあります。
実際、「昭和参拾参年(33年) 四ツ道路會」と彫られた太鼓が残っており、今でも一番太鼓として使われています。
さらに太鼓については、「昭和五年 中通一二三丁目 堺川通一二三丁目 青年團」と刻まれたものも二番太鼓として使用されています*26。
旧本通1丁目・2丁目を核とする四ツ道路会*27とは、エリアが異なるため、厳密な意味での連続性は定かではありませんが、およそのルーツとしては昭和初期まで遡ることができるのかもしれません。
写真27
加登岡明夫氏提供
加登岡少年が初めてやぶの面を被ったのは、昭和41年。
小学5年、11歳のときでした。
写真27はそのときのもの。
口元に舌先が見える、緑色の特徴的な面です。
通称青面。
当時の二番やぶでした。
写真28
加登岡明夫氏提供
写真28も写真27と同様、昭和41年に撮られたものです。
真ん中が、加登岡少年が被った青面。
左端は、それと対になっていた通称赤面で、こちらが一番やぶでした。
一方、右端の面は、紙製の簡素な作りで、実質的にはこの赤面、青面の二枚だけが、当時の祭礼協賛会が保有する唯一の面でした。
しかもこの頃は、これらを被るのは子どもだけで、大人のやぶは全く出ていなかったと言います。
これには経緯があって、加登岡少年が祭りに参加する以前は、この二枚の面を大人が被っていた時代もあったそうです。
ところが、当時の本通や中通の人たちには、「威勢のいい大人のやぶ」よりも「可愛らしい子やぶ」を望む人が多く、そうした地元の声を受けていつしか子やぶ用の面へと変わっていったとのこと。
写真29
加登岡明夫氏提供
写真29は、写真27、28と同じ昭和41年に撮られた集合写真。
今も行われているフジパール前での記念撮影は、この当時からの恒例だったようです。
写真30
加登岡明夫氏提供
翌年も加登岡少年は祭礼協賛会の青面を被り、亀山の祭りに参加しました。
写真30はそのときのもの。
小学6年、12歳のときです。
この頃、少年の心に芽生えたのが、「大人のやぶを出したい」という思いでした。
その思いは、自らが大人になることによって初めて遂げられることになりました。
当時は子ども中心の祭りという形態が貫かれていたので、そこを突破口とするしか方法がなかったと言います。
少年が青年へと変わろうとしていた昭和46年、16歳のとき、一つの転機が訪れます。
既に立派な大人の体格へと成長していた加登岡さんは、この年、祭礼協賛会の手配で他所から借りることになったやぶの面を被り、亀山の祭りに参加しました。
写真31
加登岡明夫氏提供
写真31はそのときのものです。
既に堂々たる立ち姿です。
写真32
加登岡明夫氏提供
同じ年に撮られた写真32には、俵みこし(とんぼ)も写っています。
この前年の昭和45年に俵みこしを出すことが認められたとのこと。
子どもが中心だった祭りの現場に大人が本格的に加わってくるきっかけになった年でもあります。
加登岡さんが他所の面を被って祭りに出たこの年、実は鯛乃宮神社のやぶも亀山の祭りに参加しています。
写真33
呉本通商店街振興組合提供
写真33はそのときのもの。
呉本通商店街振興組合に当時の写真が残っていました。
写真34
加登岡明夫氏提供
写真34には、なお鮮明に写っています。
写真の中央は紛れもなく、鯛乃宮の一番。
左が五番、右が六番です。
鯛乃宮神社が鎮座する西三津田も元々は旧荘山田村でしたが、この地区から亀山の祭りに参加したという記録や証言はこの年を除いて見当たらず、おそらくこの昭和46年が唯一の年だったと思われます。
なお、この写真を鯛乃宮神社の祭り関係者の方に見てもらったところ、当時の記念写真が残っていることが判明しました。
写真35
大森栄作氏提供
写真35がそれです。
場所は現在の本通1丁目交差点。
亀山の祭礼協賛会と鯛乃宮祭礼一行が一緒に写った、貴重な一枚です。
なお、このときの「交流」が縁となり、その数週間後に行われた鯛乃宮の祭りでは、亀山の赤面を鯛乃宮が借り受け、中学生が被って出るということもありました。
そのときの中学生が写真35を提供してくださった、現在の鯛乃宮祭礼長というのも不思議な縁です。
こうしたエピソードの生まれた翌年、昭和47年も加登岡さんは前年と同様、他所から借りることになった面を被り、亀山の祭りに参加しています。
しかし、こうした面の貸し借りが行われたのもこの2年だけで、昭和49年には、加登岡さん自身の強い意向を受け、大人用の新面が新たに一枚作られることになりました。
もちろん被り手は加登岡さん。
当時19歳*30。
写真36
加登岡明夫氏提供
写真36のやぶがそれです。
写真37
加登岡明夫氏提供
写真37に見られるように、この新面の製作によって、亀山神社祭礼協賛会が所有する面は、旧来の赤面、青面に加えて計3枚となりました。
一番やぶは、左端の加登岡さんが被った新面で、現在、この面は三番やぶとして使用されています。
なお、この写真を見て明らかなように、赤面、青面の2匹はまだ少年の域を出ない年頃のやぶです。
小学生の頃に抱いた「大人のやぶを出したい」という思いは、加登岡さん自身が青年期を迎えたことである面では遂げられたものの、亀山のやぶ自体を大人のやぶで揃えるというところにまでは、まだこのときは至っていませんでした。
翌昭和50年、祭礼協賛会のやぶにまた新たな変化が生まれました。
この年、2枚の新面が加わったのです。
写真38
加登岡明夫氏提供
写真38の中央の2匹がそれで、一枚は黒色、もう一枚は茶色の面でした。
既存の3枚が祭礼協賛会の保有する面だったのに対し、新たに作られたこの2枚は個人が所有するという形態をとりました。
以降、今日に至るまで新たに作られる面の全てが個人所有で、祭礼協賛会(現・氏子奉賛会)が保有する面は旧来からの赤面、青面と昭和49年に作られた新面の計3枚に限られています。
写真39
加登岡明夫氏提供
写真39も写真38と同じく、昭和50年に撮影されたもの。
5匹のやぶが全て揃っています。
まだこの時代は衣装の柄に統一感がなく、亀甲柄や和柄が入り混じっています。
左端の黒面が当時20歳だった加登岡さんで、やはりこの年の一番やぶでした。
その右隣の茶色の新面が二番、1年前に作られた中央の面が三番です。
これら3面については、以降40年間、不動の一番、二番、三番となっています。
また、昭和49年の時点では、「大人のやぶ」と呼べるのは加登岡さん一人でしたが、昭和50年になると明らかに少年と思しきやぶは見当たらず、ここにようやく加登岡少年の抱いた念願が叶ったと言えます。
そして、あたかもこの思いが遂げられる瞬間をタイミングとして見計らっていたかのように、この年をもって加登岡さんはやぶを引退しました。
20歳というとやぶとしてまだまだこれからが「華」という歳ですが、11歳のときから10年に亘って面を被り続けていた加登岡さんは、これを機に祭りの現場全体を仕切る役割に専念するようになります。
写真40
加登岡明夫氏提供
写真40は昭和56年に撮られた、恒例のフジパール前での記念写真です。
写真の下に「亀山神社祭礼奉賛会」と書かれています。
この前年の昭和55年に祭礼協賛会から祭礼奉賛会に名称が改まったのです。
そして、このおよそ15年後に現在の「亀山神社氏子奉賛会」へと再度改称されることになりました。
一方、やぶの衣装に目を向けてみると、この頃は和柄に統一されているのが分かります。
しかし、現在では亀山のやぶと言えば亀甲柄。
和柄が亀甲柄へと変わったのが、この翌年、昭和57年でした。
写真41
加登岡明夫氏提供
写真41はそのときの記念写真です。
ここにようやく今の亀山の祭りの「形」がほぼ完成したことが確認できます。
今から遡ること、34年前のことです。
最後に
明治19年、呉浦に第二海軍鎮守府が設置されることが決まり、亀山神社は移転を余儀なくされ、さらに「呉町」という呉浦3村時代からのお膝元を失うことになりました。
そして、町ごと消滅した呉町に代わって新たなお膝元として明治、大正、昭和の時代に発展していったのが本通と中通の繁華街でした。
その本通と中通の人たちが、昭和40年代の後半期から亀山の祭りを「主役」として盛り上げるようになったのです。
ここに呉浦3村の時代と異なる新しい亀山の祭りの「形」が出来上がったと言えます。
いつしかこれも呉の郷土史の一つとして刻まれる日が来るでしょう。
その歴史の舞台の最前線に立ち続けていた加登岡さんも祭りに出るようになって早53年。
この約半世紀の間に祭りに参加しなかったのは、学校の修学旅行と重なった昭和48年の一度だけと言います*31。
もうすぐ秋。
加登岡さんにとって52回目の熱い季節がやってきます。
祭りの歴史は今なお作られています。
謝辞
本稿を作成するにあたり、加登岡明夫氏、亀山神社の太刀掛裕之氏(宮司)には、大変ご多忙の中、長時間に亘るインタビューにご協力いただきました。呉市文化振興課市史編纂グループのスタッフの方には、足繁く通う筆者に対しいつも丁寧かつ細やかな応対をしていただきました。WEB PLANING MIKANの渡邉聡氏には、本稿における重要な資料の一つ、地図制作に際して多大なお力添えをいただきました。ここに記して感謝の意を表します。
この他にも20名の方々に、取材のご協力をいただいています。匿名を希望されている方も一部含んでいるため、ここで具体的なお名前を挙げることは控えますが、特段の見返りがないにもかかわらず、筆者の煩雑な質問に対し、丁寧に答えてくださった全ての方、また紹介の労をとってくださった方々に、この場を借りて心から感謝を申し上げます。
なお、本稿の記述における誤謬の責は筆者にあります。
参考文献
金指正三編(1978)『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 呉』国書刊行会.
呉市入船山記念館編(1993)「『呉浦』の絵図:『村絵図』のなりたち」『館報 入船山 第5号』, pp.1-16.
呉市入船山記念館編(1997)「青盛敬篤の見た呉の変遷」『館報 入船山 第9号』, pp.1-21.
呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所.
呉市史編さん室編(1997)『呉・戦災と復興:旧軍港市転換法から平和産業港湾都市へ』呉市役所.
呉市史編さん室編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歩み』呉市役所.
呉市総務部市史文書課編(2006)『増補改訂版 呉の歩みⅡ:英連邦軍の見た呉』呉市役所.
千田武志監修(2013)『ふるさと呉』郷土出版社.
徳田重雄編(1979)『呉本通の歩み』呉本通商店街振興組合.
文化財建造物保存技術協会編(2004)『呉市指定重要文化財 旧澤原家住宅 調査報告書』呉市.
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*1:呉文文第1225号。
*2:千田武志監修(2013)『ふるさと呉』郷土出版社。
*3:少なくとも昭和20年代前半は、和庄上、和庄下と2地区に分かれて祭りに参加していたとの証言あり。
*5:Web上で使用する場合は、記事とセットであることが掲載要件。
*8:下記を参考に記述。
http://www.kameyama-jinja.com/menukenmu.htm#貴船
*9:計2匹のうちの1匹。
*10:年代の特定は、下記による。
千田武志監修(2013)『ふるさと呉』郷土出版社。
*11:八咫烏神社の祭り関係者(坪之内青年団)の方によって特定。衣装の柄と着方が判断の決め手。
*12:下記を参考に記述。
http://www.kameyama-jinja.com/menurekisi.htm
*13:17世紀後半から18世紀初頭に庄村と山田村が合併。吉浦村とは鯛乃宮神社の南西「両城火打崎」を境に隣接。
*14:但し、上流の境界は、境川(現・堺川)ではなく、支流の茆地川(ぼうじがわ)。
*15:金指正三編(1978)『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 呉』国書刊行会。
*16:この他、畝原町や、惣付町、荒神町、草里町なども第五青年団に含む。
*17:亀山神社の由緒書きには、明治23年に遷座された旨が記載されているものの、これとは別に『明治22年1月28日をもって転出願いを出願。同年3月17日、(移転先が未定だったため、明治21年の例大祭を前に仮遷座を行っていた)貴船神社から遷宮。同年5月23日、許可が下りる』と記された記録も残っていることから、ここでは明治22年を現在地への遷座年として記述。
*18:呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所。
*19:澤原家5代目当主。江戸時代末期に荘山田村庄屋、吉浦村庄屋、安芸郡浦組割庄屋、明治維新後に第三区区長、安芸郡長などを経て、明治23年より貴族員議員を務める。
*21:呉鎮守府の設立に伴う住民の移動については、下記を参考に記述。
呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所。
*22:明治35年10月、和庄町(明治25年に町制施行)・荘山田村・宮原村と、吉浦村から川原石・両城地区が分離し誕生していた二川町が合併し、呉市が誕生。
*23:焼夷弾によって絵馬殿が火災炎上。その熱によって石がもろくなり、絵馬殿側だけ亀裂が発生。平成13年3月の芸予地震により、もろくなった狛犬は半壊し、その後、組み直して修復。
*24:社殿が建立される間、引き続き、仮本殿として使用。
*26:太鼓は全部で5台あり、残る3台は昭和46年に作られたものが1台、平成以降に作られたものが2台。
*27:当該地区は、昭和38年に呉本通商栄会に加入。翌年、呉本通会と改称され、昭和40年には、同会の役員が亀山神社祭礼協賛会の主体となる。
*28:昭和42年、呉本通会を解散すると同時に、法人格を持った呉本通商店街振興組合を設立。
*29:昭和43年設立。
*30:昭和48年は、祭礼協賛会は祭りに不参加。
*31:但し、この年は祭例協賛会自体も祭りへの参加を見送っている。