呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

「昭和のやぶ」展を終えて

はじめに

 

かれこれ二年半にも及ぶコロナ禍で、祭りの中止や神事のみへの縮小が相次ぐ中、祭礼文化の伝承が途絶えることを危惧する声が全国各地で広がっています。

そうした中、ここ呉においてもこれ以上の見送りは文化の継承に深刻な影響を及ぼしかねないとの判断から、今年は様々な工夫と対策を施した上で、あちらこちらで祭礼行事が再開されました。

 

今年の祭り

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しかし、祭りの継続的な開催は地域の民俗文化を守るために必要不可欠な取り組みではあっても、それだけで十分とは限りません。

先人たちが何を築き、何を守ろうとしてきたのか、その史実と背景をよく知り、理解した上で、それらをどう受け継ぐべきかを考えることも文化を守る常道の一つです。

ところが、その肝心の歴史がよく分からないのです。

大著「大呉市民史」を開いてみてもそこに詳細なやぶ史が綴られているわけではありません。

これほど「うちのやぶ」、「うちの祭り」と各所の民俗が大事にされている呉にありながら、伝えられているのは断片的かつ真偽の曖昧な口伝が大半で、それらさえも十分に広く共有されているとは言い難いのが実態です。

そんな漠たる問題意識のもと、古写真の収集と証言集めを約十年前から始め、気がつくと積み上がった大正、昭和の写真は1,071枚、聞き取りを行った相手は164人に及び(表1参照)、まだまだ不十分ながらも時代を昭和以降に限ればやぶ史の輪郭程度は分かってきました。

 

表1 神社別古写真・聞き取り一覧

 

そこで、そうした成果を可能な限り紹介し、変遷しながらも伝承が行われてきた呉の分厚い民俗史を少しでも豊かに知っていただこうと、9月14日から10月24日の6週間に亘って「昭和のやぶ」展を開催しました。

 

案内状

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"やぶ展"シリーズの第三弾となった今回の企画展では、呉市内25箇所の神社を対象とした昭和期の祭りの写真155枚*1と、昭和の祭りを彩りながらも近年、もしくは久しく祭りに出されていない古面22枚を仔細な解説を添えて展示しました。

 

ギャラリー内

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開催期間中、特に土日祝日はできるだけ在廊を心掛け、前回、前々回のやぶ展に勝るとも劣らず、たくさんの方と出会い、お話しすることができました。

本稿では、そこでの出来事やそこで得た新たな手がかりなどを本展の裏話、雑記として紹介します。

 

今は亡き親族との対面・再会

 

本展では、延べ2,284人もの方にご来場いただきましたが、その中には、自分の生きた時代と重ね合わせながら往時を懐かしむ人たちだけでなく、古写真に写る今は亡き身内との静かな対面や思いがけない再会を果たす方も少なからずいました。

以下、そのいくつかを紹介します。

 

写真1 昭和14(1939)年高尾神社の祭り

提供:脇屋昭三氏

 

写真1に写る右の稚児はのちに志願兵として出征し、戦死しています。

一緒に稚児をした左の少年(現在95歳)が教えてくれました。

戦後生まれの平和な時代に育った私には想像も及ばない悲劇ですが、こうした事実を一人でも多くの方に知っていただき、写真の少年に思いを馳せていただくことも供養の一つになるかと思い、展示のキャプションにも記載しました。

そんな中、その写真をしみじみと見入っていた男性がいたので、お声かけしたところ、「この子は母の弟(叔父)です」と話してくれました。

享年19歳だったそうです。

年端も行かない身内を失ったご遺族の心中を思うと言葉もありません。

 

写真2 昭和22(1947)年赤崎神社の祭り

提供:稲田勲氏

 

本展の案内状でも使用した写真2に写る3匹のやぶ。

いずれも衣装の着方、構え方、頭の角度などどこを取っても「これぞやぶ」と惚れ惚れするような立ち姿です。

その写真を前に「ここに40歳と若くして亡くなった父が写っています」と教えてくれた女性がいました。

左端の一番やぶが女性のお父さんでした。

一緒にギャラリーに来ていた我が息子と同じくらいの歳でこの世を去った亡き父を慮り、長くこの写真の前にたたずんでいました。

 

写真3 昭和30(1955)年亀山神社の祭り

提供:D. R. Burls(呉市

 

写真3に写っているのは、郷町のやぶで、西原家の面です。

6年前に初めて目にしたときはこの写真を読み解く情報が一切なく、手がかりを求めてやぶの傍らに立つ男性を探し回りました。

あいにく捜索は難航し、この男性が誰なのか、今もご健在なのか不明のまま時間だけが過ぎ、その後、別のアプローチによって上記の事実が判明したのです。

そんな中、本展に来られたある男性から「親父が写っていました」と声をかけられ、参考までにどの方がお父さまなのか伺ってみたところ、6年前から探し続けていた男性であることが分かりました。

既に亡くなってから22年が経っているそうで、「いつもこんな風に煙草を持っていました」と懐かしそうに語っていました。

他にも親族や友人、知人が古写真に写っていないかと探して回り、「写真の中の人に会えて良かったです」と再会を喜ぶ方が何人もいました。

時代と神社の組み合わせごとに市井の人々が主役の歴史があったのでしょう。

やぶ史の編纂というのは、そうした人々によって紡がれた日常の歴史を掘り起こし、記録化することに他なりません。

 

こうの史代さん

 

龍王神社の祭りには澤原家の面が古くから出されていますが、下記の写真4のキャプションではその澤原家について概説し、映画「この世界の片隅に」でも描かれた、いわゆる「三ツ蔵」で有名な旧澤原家住宅にも言及しました(写真5参照)。

 

写真4 昭和15(1940)年亀山神社の祭り

提供:横見瀬幸雄氏

 

写真5 キャプション

 

「だから」というわけではもちろんないのですが、映画の原作者であるこうの史代さんが本展に来てくださっていました。

そのあらましは、こうのさんがご自身のブログに綴られており、それをギャラリーのスタッフが見つけ、私に教えてくれたのです。

ブログのタイトルは、ありがたいことに「『昭和のやぶ』展」です。

 

ameblo.jp

 

こうのさんは広島市西区のご出身ですが、呉の畝原町には主人公のすずさんが暮らす家のモデルとなった祖父母宅があった*2せいか、二度ほど龍王神社のやぶを目にしたことがあったそうです。

ブログにはそのときの記憶をもとに描かれたイラストもありました。

そこに書き添えられた『みなぎる殺気』は、まさに「昭和のやぶ」の一面を端的に表しており、笑いを誘いました。

ところで、映画「この世界の片隅に」は、すずさんが生きた時代、具体的には昭和8(1933)年から昭和21(1946)年の広島・呉を徹底した考証によって忠実に再現したことで有名ですが、2019年12月に公開された長尺版「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た上でなおどうしてもいくばくかの引っかかりを覚えずにいられなかったことがありました。

 

ikutsumono-katasumini.jp

 

それは、なぜそこに龍王神社の祭りが盛り込まれていなかったのかという点です。

映画の中では、澤原家本家の三ツ蔵(写真6参照)や辰川小学校(写真7参照)が描かれており*3、呉のやぶ好き、祭り好きであれば「澤原家」、「辰川小学校」の二語で龍王の祭りが条件反射的に想起されます(写真8参照)。

 

写真6 三ツ蔵

 

写真7 辰川小学校の跡地

 

写真8 昭和17(1942)年頃龍王神社の祭り

提供:二十歩幸雄氏

(右から1番目と3番目が澤原家の面で、場所は辰川小学校)

 

実際、呉の中でも一、二を争うといっても過言ないほど祭りと日常が古くから密接不可分な地域です。

しかし、そうした引っかかりはその後の自らの調査で解消されました。

龍王の祭りは戦時中の昭和19(1944)年と終戦直後の昭和20(1945)年の両年は行われていないことが分かったのです。

すずさんが呉の北條家に嫁いだのは昭和19(1944)年2月で、物語は終戦翌年の昭和21(1946)年1月までが描かれています。

つまり、この間はちょうど龍王の祭りが行われていなかった期間に当たるので、作品にやぶが登場しなかったのは、事実に整合しているのです。

もし昭和18(1943)年以前の北條家や昭和21(1946)年以降のすずさんを描いた続編が制作されることになれば、当時の祭りが綿密な考証を経てリアルに描かれることもあるかもしれません。

(ないかもしれません)

その折には(もし求められれば)全面協力したいと思います。

 

中央地区の祭り

 

本展では、下記の写真9を展示しましたが、ここに写っている2匹のやぶのうち右側のガッソー*4系の面は、下中町(当時)の三宅家の面であることが分かりました。

 

写真9 昭和18(1943)年亀山神社の祭り

提供:内神靖治氏

 

ギャラリーに来られた方からたまたま見せてもらったやぶの面の写真が上記のガッソー系によく似ていたことから「もしや」と思い、所有家の方をご紹介いただき、現物を見せてもらったのです(写真10参照)*5

 

写真10 比較写真

 

面の裏には、「三宅淺次郎」と書かれていました(写真11参照)。

 

写真11 面の裏

 

淺次郎という人物は、面を見せてくださった方の曽祖父にあたり、幕末の元治元(1864)年の生まれです。

元治元年というのは、蛤御門の変禁門の変)が起きた年で、幕末動乱の真っ只中です。

淺次郎は、その後、明治、大正、昭和の時代を生き、昭和13(1938)年に74歳で亡くなりました。

上記の面がいつ製作されたのかは不明ですが、少なくとも昭和13(1938)年以前であることは間違いありません。

戦前・戦時中は祭りに出されていましたが、いつも面を借りに来ていた青年団が戦後、面を新作したのを機に使われなくなったそうです。

下記の写真12は、昭和22(1947)年頃の亀山神社の祭りで、6年前の初見のとき以来、横縞模様の衣装からし龍王のやぶと思われるものの一体どこの家の面なのか謎でした。

 

写真12 昭和22(1947)年頃亀山神社の祭り

提供:C. N. Govett氏(呉市

 

しかし、これも今見ると三宅家の面のように見えなくもありません(写真13参照)。

 

写真13 比較写真

 

間違いなくそうであるとは言えませんが、もしこれも三宅家の面だとすれば、この頃が祭りに使われた最後の年だったのかもしれません。

戦時中、建物疎開が行われるまで三宅家の隣家に住み、同家の息女と「実の姉妹のように仲が良かった」という吉井幸子さん(94歳)の証言によれば*6、三宅家の面は普段は蔵に飾られており、祭りでは二番やぶの面として使われていたそうです。

面の裏には、終戦の年まで三宅家の居宅があった「下中町」と地名も書かれています(既掲写真11参照)。

下中町というのは、西教寺から今西通りを挟んだ東側の一角で、現在の住居表示だと中央6丁目の一区域です。

 

自治会の区割りでいうと中央地区(下中町、蔵本通、神田町、岩方通など)に該当します。

本展では、前記の写真9に写った幟にある「呉市中央青年団」を『第6地区の青年団(第6青年団)と思われる』とキャプションに記載しましたが、これは第6青年団ではなく、「中央地区の青年団」が正しかったようです。

なお、第6青年団とは、郷町、内神町、江原町、西片山町などの各自治会によって構成された「第6地区」の青年団を指します。

亀山神社の祭りは、今でこそ亀山神社祭礼氏子奉賛会から唯一かつ専属のやぶが出されていますが、同奉賛会から大人のやぶが出るようになったのは昭和46(1971)年からで*7、元々はかつての呉浦3村*8である第1地区(赤崎神社、八咫烏神社)、第3地区(髙日神社)、第4地区(平原神社)、第5地区・第6地区(龍王神社)から亀山神社の兼務社(通称小宮)のやぶが出ていたのです*9

本展ではこのこともキャプションで紹介しましたが(写真5参照)、第5地区と第6地区だけでなく、中央地区からも龍王神社のやぶが亀山の祭りに出ていたというわけです。

この中央地区の一角に現在、呉市のつばき会館や福祉会館がありますが、ここは昭和20(1945)年まで岩方国民学校(旧岩方尋常小学校)の校舎と講堂があった場所でした(写真14参照)。

 

写真14 岩方小学校の跡地

 

下記の地図1は昭和14(1939)年当時の市街図で、赤枠の箇所(現・つばき会館)が校舎、青枠(現・福祉会館)の部分が講堂です。

 

地図1 昭和14(1939)年当時の岩方尋常学校とその周辺地図

呉市史編さん室編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歩み』呉市役所, 付図「大日本職業別明細図 呉市」の一部を、許可を得て転載

 

前記の昭和3(1928)年生まれの吉井さんによれば、当時は岩方小学校の講堂の庭ではまんどが行われていたそうです。

「はまんど」とは、浜の宮(御旅所)で行われる神事や奉納行事のことを指し、「濱ん殿」と書きます*10

おそらく、ここではまんどを行っていたのは、龍王神社の祭り区域の中でも、第5地区(荒神町、草里町、東辰川町、西辰川町、惣付町、畝原町など)や第6地区ではなく、中央地区の中央青年団だったのではなかと思われます*11

その後、昭和20(1945)年7月1日の空襲で岩方国民学校の校舎と講堂は焼失し、戦後は昭和22(1947)年1月に五番町小学校との合併によって閉校となりました(写真15参照)。

 

写真15 跡地の碑

 

戦災時のことは、次のように書かれています。

 

昭和20年午前1時40分警戒警報発令、続いて焼夷弾投下、約2時間波状攻撃、校舎全焼 (中略) これより臨時休校となる

 

なお、前記の写真9にはやぶは2匹しか写っていませんが、吉井さんが岩方小学校でのはまんどで見ていたやぶは10匹くらいいたそうなので、戦前は中央地区も祭りが盛んだったのかもしれません。

ここにも発掘されるべき埋もれた歴史がありそうです。

 

岡本伊三郎

 

本展では、ギャラリー内に記帳用の芳名カードを投函する箱を設置していましたが、その中に岡本忠勝さんという方からのお手紙が入っていました。

開いて読むと、1)高祖父(祖父の祖父)がかつて宮大工をしていて、生前、やぶの面を彫り、八咫烏神社に奉納したと祖父から聞いている、2)高祖父の名前が記された面があれば教えてほしい、といった趣旨のことが書かれていました。

すぐに連絡を取り、お会いしたところ*12、岡本さんは昭和16(1941)年生まれの81歳で、生家は宮原通10丁目でしたが、4歳のときに空襲で焼失したそうです。

戦災前は、奉納された面とは別に自宅にも高祖父作の面が何枚かあり、当時幼かった岡本さんが愚図ると背中に面を背負わされた思い出がある、と。

あいにくそれらの面も空襲で失われ、あるのは幼少時の記憶だけとのこと。

高祖父の名前は伊三郎といい、生年は江戸後期の天保5(1834)年です。

同じ年に生まれた歴史上の人物としては、岩崎弥太郎福沢諭吉土方歳三近藤勇と幕末維新のそうそうたる顔ぶれが名を連ねており、この一事をとっても伊三郎が生きた時代の激動ぶりが想像できます。

伊三郎は宮大工としてよほど腕が良かったのか、江戸期も名字帯刀が許されていましたが、維新後は一族が皆、岡本姓を名乗るようになったため、伊三郎も岡本姓に改めました*13

その後、明治32(1899)年に65歳で亡くなっています。

したがって、神社に奉納したという面も空襲で焼失したという自宅の面も少なくとも明治32(1899)年以前に彫られたことになります。

但し、八咫烏の祭りで戦前から使われ続けている面は、一番、二番の二面*14のみで、いずれも伊三郎の名前は書かれていません*15

そのため、伊三郎作の面の可能性があるのは、戦前の写真に写っていた一番、二番以外の面ということになります。

具体的には、下記の写真16における、左から一番目と三番目、並びに右から二番目の三面が該当します*16

 

写真16 昭和13(1938)年八咫烏神社の祭り

提供:篠崎弘氏

 

あいにくこれらの面は、戦後の写真には写っておらず*17、現存しているかどうかも不明のため、現時点では確かめる術がありません。

戦災を免れ、どこかで眠っていると信じ、探し続けるしかありません。

他にも戦前の八咫烏の祭りではスイカ*18系の面が頻繁に使われており、これも含めて発見が待ち望まれます。

 

4年越しの写真提供

 

既述の通り、本展では故人となった身内と写真を通して対面・再会された方が何人もいました。

その中のお一人は、下記の写真17に若かりし頃の祖父を見つけ、「うち(祖母の家)にも写真があります」と芳名カードに写真提供の意を記してくださっていました。

 

写真17 昭和33(1958)年龍王神社の祭り

提供:平松数治氏

 

すぐにコンタクトを取って再度ギャラリーにお越しいただいたところ、お祖母さんと一緒にアルバムを持参され、その中身を見せてもらいました。

アルバムは全部で48ページあり、祭りの写真がある箇所にはすべて付箋が貼ってありました(写真18参照)。

 

写真18 アルバム

 

探しやすいようにわざわざ目印を付けてくださったのかと尋ねると、そのようなことはしておらず、「生前、主人が貼ったのでしょう」、と。

実はご主人とは4年前に取材でお会いしたことがあり*19、その際、昔の写真をお持ちでないか、もしあれば提供いただけないかとお願いしていたのです。

ご主人が急逝されたのはその4か月後でした。

おそらく私に見せようと付箋を貼っていたのだろうと伺い、4年越しの提供に感銘を受けました。

お孫さんがギャラリーでお祖父さんが写った写真を見つけたことがきっかけとなって、生前のご意思が実現したのかと思うと、あたかも不思議な力が働いたかのようで、お祖父さんの方から愛孫に気付いてもらうようにお声をかけたのではないかという気さえします。

祭りの写真は全部で25枚あり、このうち昭和20年代が2枚、昭和30年代が23枚という内訳でした。

いずれも龍王の祭りです。

一枚一枚が貴重な資料なので、しっかりと調査・分析を行った上で、またいつか何らかの形で多くの方に披露したいと思っています。

 

写真のご提供のお願い

 

言うまでもなくやぶ史の編纂はまだ道半ばです。

神社によってはまだ一枚すら古写真を収集できていないところもあり、一方、相応の数が集まってはいても特定の地区や時代に写真が偏り、およそ網羅的な解明には程遠いところが大半です(既掲表1参照)。

本展においても「昭和の写真」を募ったところ(写真19参照)、ありがたいことに龍王神社で25枚、平原神社で21枚、伊勢名神社で8枚、大歳神社で6枚、鯛乃宮神社で5枚、竹内神社で5枚、髙日神社で1枚の提供がありました*20

 

写真19 写真提供のお願いパネル

 

今後とも継続して古写真を収集し、記録化されたやぶ史の「上書き」を行っていきたいと考えています。

 

最後に

 

本展でも「昭和のやぶ」史の歴史的な背景として言及しましたが、昭和20(1945)年には7月1日の呉空襲で1,949人が、9月17日の枕崎台風で1,154人が亡くなりました。

しかし、そんな悲劇に見舞われながらも11月3日には秋祭りが行われた地域もあります(写真20参照)。

 

写真20 昭和20(1945)年八咫烏神社の祭り

提供:坪之内青年団

 

なぜ、そのような非常時下で祭りが行えたのでしょうか。

言うまでもなく、もし祭りがイベントやフェスであったなら、きっと行われていなかったはずです。

それこそ祭りどころではありません。

しかし、祭りは祀りが原点であり、神様を祀る行為が祭りの本質です。

ここでいう神様とは鎮守の杜に坐す産土神はもとより森羅万象に宿る八百万の神をも含んでいます。

未曽有の災禍に襲われながらも祭りが行われたのは、それがイベントではなく、そのような神々を奉る「祀り」だったからではないしょうか。

巷には「祭り」と名の付くイベントがあふれていますが、そうした「祭り」と異なり、鎮守の祭りには祀る対象としての神様の存在があることをこの事例は改めて気付かせてくれます。

もちろん一口に祭りといってもその中身は一様ではなく、神事と神賑行事の二つの局面があります。

「神賑」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、図1に示すように、神事が「人々の意識が神様へと向けられている場面」なのに対し、神賑行事は「人々の意識の相当量が(神様の存在を感じながらも)氏子同士や見物人へと向けられている場面」である点にその違いがあるとされています(森田, 2015, pp.36-38)*21

 

図1神事と神賑行事

出所:森田玲(2015)『日本の祭と神賑:京都・摂津間の祭具から読み解く祈りのかたち』創元社, p. 38

 

一例を挙げれば、社殿の奥で厳かに執り行われている例大祭などの儀式が神事で、やぶとトンボ(俵みこし)による俵もみは神賑行事に相当します。

おそらく祭りにおいて多くの人を惹きつけてやまないのは神賑行事の方でしょう。

但し、忘れてはならないのは、たとえ神賑行事であってもその場に神様の存在が意識されているからこそ祭り特有の雰囲気や匂いが漂っているのです。

ともすればメディアやSNS上では祭りの賑わいの側面ばかりが注目されがちですが、祀る対象であるはずの神様が意識されない、神様不在のそれは単なるエンタメでしかありません。

本展で展示した古写真に写る先人たちが守り、受け継いできたのは決してエンタメ化された消費の対象としての祭りではなく、神事に伴った賑わいのはずです。

呉の祭りがこうした「祀り」としての文脈から逸脱することなく、長きに亘って継承されていくことを、そして本展をきっかけに「文化の生態系」ともいうべき個性豊かな各地の民俗を守る営みに一層弾みがつくことを切に願い、ご来場くださった全ての方々への御礼の言葉に代えさせていただきます。

*1:一部、大正期の写真を含む。

*2:下記を参考に記述。

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=102809

*3:辰川小学校は、作中では下長之木国民学校となっている。

*4:高尾神社(焼山中央2丁目)、東区のやぶ。

*5:2022年10月31日、聞き取り。

*6:2022年11月26日、聞き取り。

*7:昭和45(1970)年以前は亀山神社祭例協賛会(現・祭礼氏子奉賛会)から、通称、赤面、青面の子やぶ2匹が出されるのみであった。昭和46(1971)年から一部、大人のやぶ(中高生)も出されるようになり、現在のように全てのやぶが「大人化」されたのは昭和50(1975)年が最初の年。

*8:宮原村、和庄村、荘山田村

*9:同じく亀山神社の兼務社である鯛乃宮神社(第8地区)から亀山の祭りにやぶが出たのは、現在確認できている限り、昭和46(1971)年が唯一の年。吉浦村から分離し誕生した旧二川町内の大歳神社(三条地区)や照日神社・恵美須神社川原石地区)からは亀山の祭りに参加した記録や証言はない。

*10:但し、元々は浜の宮と同義で、そこで行われる「行為」ではなく、あくまで「場所」のみを表す言葉であった。

*11:理由としては、第一に当時は第5地区では勝田家の面が二番やぶであったこと、第二に昭和10年代の第5地区の集合写真に三宅家の面は写っていないこと、第三に第5地区のはまんどは戦前・戦後ともに荒神町小学校で行われていたことの三点による。

*12:2022年10月22日、聞き取り。

*13:改名前の姓は不明。

*14:元々は竹中家の面。

*15:彫り師の名前があるのは二番のみで、そこには「大坂西川作」と記されている。

*16:昭和16(1941)年の写真に写っている詳細不詳の面も含めると最大で四面の可能性がある。

*17:当該三面、もしくはその一部が写っているのは、昭和13(1938)年以外では、昭和14(1939)年と昭和16(1941)年の写真のみ。

*18:宇佐神社(警固屋4丁目)、旧第3分団のやぶ。

*19:2018年11月10日、聞き取り。

*20:一部、既収集分との重複あり。

*21:森田玲(2015)『日本の祭と神賑:京都・摂津間の祭具から読み解く祈りのかたち』創元社, pp. 36-38.