呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

昔の祭り(赤崎神社編)

はじめに

 

宮原3丁目、アカミドウの祭りの「やぶ」は写真作品には見られませんでした。残念です。

 

これは、2018年の「呉のやぶ」展(以下、やぶ展)で記帳いただいた芳名カードの一枚に書かれてあったコメントです。

「アカミドウ」(赤御堂)というのは、宮原地区の赤崎神社(室瀬町)を指します。

やぶ展では呉市内19箇所の神社のやぶの写真を計135枚*1展示しましたが、そこに赤崎神社のやぶ(以下、赤崎のやぶ)は一枚も含まれておらず、このような感想が寄せられました。

やぶ展開催当時は、6年間(2012年-2017年)にわたって延べ102回、各地の祭りを巡っていましたが*2、あいにく赤崎のやぶに関する情報は全くつかんでおらず、この芳名カードを目にしたとき初めてその存在を知った次第です。

このことがきっかけで赤崎の祭りについて調べを始めることになり、2019年から2022年にかけてフィールド調査や古写真の収集、各方面の関係者への聞き取りなどを精力的に行いました。

その結果、戦前・戦後の時代から今日に至るまでの赤崎のやぶの伝承と変遷が明らかになり、その起源となる「初代面」三面も発見されるに至りました。

とりわけ当該三面は、昭和30年代前半以降、60年余りにわたって行方不明となっていたため、往時を知る関係者に驚きと喜びを持って迎えられました。

また、三面のうち一面は、江戸後期である天保14(1843)年生まれの「ある人物」によって彫られたものであることも分かり、「呉のやぶ」史を考察する上でも貴重な手がかりを提供してくれるところとなりました。

本稿では、かれこれ3年に及ぶ調査が具体的にどのように進行したのか、時系列にそって振り返り、その過程で明らかになったことをやぶ史の1ページとしてご紹介します。

 

今の祭り

 

赤崎神社の祭り(以下、赤崎の祭り)には、2019年と2021年に足を運びましたが、当地のやぶに初めて「遭遇」したのは、前記の芳名カードをいただいてから約一ヶ月後の2018年11月3日の小祭りの日でした。

あの日、伊勢名神社(宮原6丁目)での撮影を終えて、11時頃、妻の運転する車で長迫方面へ移動中、見慣れないやぶ一群を目にしました。

既に「赤崎の祭りにもやぶが出る」と認識も改まっていたので、場所からして「この一群がそれに違いない」とすぐにピンと来ました。

実際、周囲にいた人たちの法被には紛れもなく赤崎神社と書かれていました。

パッと見たところ、子やぶに交じって大人に近い体格のやぶも数匹おり、兎にも角にもシャッターを切り続けました。

また、目にしたやぶのうち一匹だけがシュロの代わりに笹を頭に付け、手持ちの竹も笹で覆われていたのがなんとも斬新でした(写真1参照)。

 

写真1 赤崎のやぶ

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本来であればこの「笹やぶ」(仮称)が何なのか、関係者の方に尋ねてみたいところでしたが、この日はいかんせん小祭り。

市内各地を分刻みで移動する必要があったため*3、ひとまず一行と離れました。

その約二ヶ月半後、赤崎のやぶに関する基本的なことを確認するため最初に取材したのが、昭和6(1931)年生まれの大杉謙人さん(以下、大杉氏)でした*4

赤崎神社が鎮座する室瀬町の自治会長(当時)です。

実は、赤崎神社には正式な総代はいません。

宮原1丁目から4丁目と室瀬町の計5地区の自治会長が一年交代の当番制で疑似的な総代役を務める習わしになっていて*5、当該自治会は「当番町」と呼ばれています。

大杉氏によると、赤崎のやぶは全部で9匹です(写真2参照)。

 

写真2 赤崎の9面

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上の6枚(一番から六番)が当地の旧家である髙橋家から寄贈された面で、下の3枚(七番から九番)が作者不明の面です。

これら9面を使って、現在、大人のやぶ*6が3匹、子どものやぶが6匹出る祭りが行われています。

なお、上記の9面とは別にもう3面ほどあるそうですが、それらは誰も被らず、よごろの夜から祭礼が終わるまでの間、拝殿に飾っているとのこと。

例大祭当日のスケジュールは、宮原2丁目の自治会館を9時30分頃に出発。

午前中、町回りを行い、自治会館で昼食を取った後、13時頃に再度、町回りに出て、15時頃、宮入りします。

その後、神社から北東へ約300m先にある御旅所(室瀬第二公園)へ移動し、16時頃、再びお宮に戻るというのが例年の行程です*7

トンボ(俵みこし)も出し、道中、俵を揉むのも他の神社と同様です。

但し、よごろは、やぶは出ません。

三番やぶのみ笹竹を持ち、頭にはシュロの代わりに笹を付けるそうです。

あの日、目にした「笹やぶ」は赤崎の三番だったわけです。

また、赤崎神社の祭り区域はいわゆる旧室瀬で、現在の宮原1丁目から4丁目と室瀬町が地盤となって祭りが行われています*8

ちなみにお隣の伊勢名神社のお膝元は旧中川で、現在の宮原5丁目から7丁目と神原町、さらにそのお隣の八咫烏神社は旧坪ノ内で、宮原8丁目から13丁目と坪ノ内町がそれぞれの祭礼エリアとなっています。

 

赤崎神社の歴史

 

ここで、やぶの話に深入りする前に赤崎神社の歴史について、整理と考察を行っておきます。

赤崎神社の「発祥の歴史」*9によれば、同社の前身である「赤御堂さん」が宮原村内の花久堂に祀られたのは元禄年間(1688年-1704年)、もしくは天保年間(1831-1845)と言い伝えられています。

その後、明治19(1886)年頃に当該地が海軍用地として接収され、室瀬の丘陵地(現在の室瀬第一公園)に遷座

後に社殿と鳥居が建立、寄進され、今も残る「赤崎神社」の板額はその当時の鳥居に懸けられたものとあります。

花久堂というのは、町や村の中の一区画を表す「字」(あざ)の名称で、現在、宮原5丁目に鎮座する正圓寺宮原本坊も呉鎮守府が設置される以前は当地にありました(地図1参照)。

 

地図1 花久堂の位置

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呉市入船山記念館編(1997)「青盛敬篤の見た呉の変遷」『館報 入船山 第9号』, p.5に掲載の字図①「呉浦字図」部分を、呉市産業部海事歴史科学館学芸課の許可を得て転載

 

ところがより広域の地図で確認すると、その花久堂から東へ二つの字を隔てた場所にまさしく「赤御堂」という名の字があることが分かりました(地図2参照)*10

 

地図2 安芸郡旧呉港地形図(明治15年)の一部

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呉市産業部海事歴史科学館学芸課の許可を得て転載

 

素直に解釈すれば、「赤御堂さん」が祀られていたのは花久堂ではなく、この赤御堂だったのではないでしょうか。

端的に言うと、「赤御堂さん」が祀られていたので、当地は赤御堂という字名になったと考えるのが最も自然です。

現在の地図に当てはめると、国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)の南西、かつ呉市民広場(旧海兵団練兵場)の南東に位置し、2015年頃まで結婚式場があった場所(青山町5-1)のあたりです*11

まさに旧海軍用地の範囲内に位置します*12

また、上記の地図2よりもさらに古い、文化12(1815)年に描かれた「宮原村村絵図」を見ると、皇城宮*13(現在の入船山記念館)の南、古城跡*14(現在の海上自衛隊呉地方総監部城山正門右側の小山)の東に「赤崎社」が記されていることも分かりました(地図3参照)。

 

地図3 安芸郡宮原村 村絵図の一部

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呉市入船山記念館編(1993)「『呉浦』の絵図:『村絵図』のなりたち」『館報 入船山 第5号』, pp.12-13に掲載の「宮原村村絵図」の一部を、呉市産業部海事歴史科学館学芸課の許可を得て転載

 

この赤崎社というのは、具体的にはどのあたりにあったのでしょうか。

なにぶん江戸時代の地図なので、方位と縮尺がどの程度正確に描かれているのか分かりかねますが、仮にそれらが一定程度正しいと仮定し、地図2の亀山と(洗足の側の)小山の位置を、地図3の皇城宮と古城跡の位置に合わせる形で両者を比較してみました(図1参照)。

すると、赤崎社というのは、位置的にはまさに赤御堂のあたりでした。

 

図1 地図2と地図3の比較図

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もちろん地図の正確性に疑問が残る以上、「赤御堂さん」と赤崎社は本来、地理的にも別物で、実際は「赤御堂さん」が室瀬の丘陵地にあった赤崎社に遷座、合祀され、今日の赤崎神社になったという可能性も排除できませんが、本稿では以下の二つの観点からその可能性は低く、上記の照合結果は概ね正しいと判断しました。

一つは、室瀬川を基準にしたときの各々の位置です。

「赤御堂さん」が遷座された室瀬の丘陵地(現在の室瀬第一公園)も今の赤崎神社(詳細後記)も室瀬川の西側に位置しています。

ところが図1の赤崎社は明らかに室瀬川(紫の矢印)の東側にあります。

このことから、赤崎社が文化12(1815)年の時点で室瀬の丘陵地に鎮座していた可能性はないと言えます。

もう一つは、当該地の近隣にある池や字に共通の名前が見られる点です。

図1の赤崎社の南には髙下池(緑の矢印)という池があり、一方、赤御堂の南には南髙下、東高下(緑の丸)という字があります。

両者には「髙下」という共通の名前があり、仮に髙下池の南に位置するから南髙下、東に位置するから東高下という字名になったのだとすると、実際の方位とも整合しています。

では、「赤御堂さん」が祀られていた赤御堂に赤崎社があったのだとしたら、そもそも赤崎社とは一体何だったのでしょうか。

広島藩では文政8(1825)年に芸藩通志という地誌が編纂されていますが、その基礎となったのが文化度国郡志*15でした。

安芸郡の村々の庄屋が群役所に提出した下調べ帖です。

文化12(1815)年に宮原村からも出されており*16、結論を先取りするとそこに上記の疑問に対する「答え」が次のように書かれていました。

 

小池うね 赤崎神社 祭日九月十七日

廃寺 古寺跡 壱ヶ所 右慶長の頃まで真宗善正寺と申す寺あり之由之所被退転

当時その寺跡を赤御堂と申候、今この所に赤崎神社御座候

 

ポイントは、第一に小池畝のあたりに慶長年間(1596年-1615年)の頃まで善正寺という寺があったこと、第二にその後、善正寺は廃れ、寺跡は赤御堂と呼ばれていたこと、第三に今(文化12年)は当地に赤崎神社(赤崎社)があること、の三点です。

つまるところ、呼称や実態が善正寺、赤御堂、赤崎神社の順に変わっていったのでしょう。

「赤御堂さん」とは寺跡としての赤御堂で、今でも赤崎神社が「アカミドウ」とも呼ばれる本当の起源はここにあったわけです。

なお、小池畝というのは、赤御堂と接する小池谷の背後地です(図1参照)。

現在の地図だと小池谷も小池畝も宮原浄水場のあたりで、赤御堂の場所として推定した旧結婚式場のすぐ側です。

上記の宮原村文化度国郡志によれば、このあたりにかつて善正寺があったとありますが、(1)その具体的範囲は、寺院に関係する字で互いに隣接している赤御堂、善正地、堂場の一帯に及び(図1参照)、(2)善正寺そのものについては、亀山神社の付属寺院(神宮寺)であった可能性も指摘されています*17

ともあれここで重要なのは、この界隈は、当時、入船山に鎮座していた呉郷惣鎮守、亀山皇城宮*18(亀山神社)の目と鼻の先で*19、まさにそのお膝元であったという点です。

そのため、赤御堂とその周辺の住民は生来、亀山神社の氏子でもあったと想像でき、宮原村高地部に移住*20してからも亀山の氏子であるという意識が強かったのではないでしょうか。

それが如実に表れている(としか思えない)のが、赤崎のやぶの古衣装です。

継ぎはぎだらけの年代物で、もう長い間使われていませんが、歴史の有形物として大切に保管されています(写真3参照)。

 

写真3 現存する古衣装

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この三枚の衣装で真っ先に目を引くのは背中の輪違い紋で、これは紛れもなく亀山神社の社紋です。

赤崎神社は、昭和32(1957)年12月に亀山の飛地境内社*21になっていますが、この衣装は少なくとも戦前から使われていたもので、作られたのは飛地境内社になる前です。

にもかかわらず、そこに亀山の社紋が入っているというのは他の地区の人であれば奇異に感じることでしょう。

実際、旧呉市内には亀山神社の宮司神職を兼務する「兼務社」(通称、「小宮」)が多くありますが、兼務社のやぶだからといって衣装に亀山の社紋を入れているところはどこにもありません。

なぜなら、亀山神社は旧呉市の総氏神であって、各地区の人たちにとっての鎮守の神様はあくまで近隣各地に祀られた神社だからです。

ところが赤崎だけは例外で、敷地境内社になるよりもずっと以前から亀山の社紋入りの衣装を使っていたのです。

それは、当地の人にとって亀山は最も身近な氏神様だったからではないでしょうか。

「赤御堂さん」(を含む赤崎神社)を室瀬の丘陵地に遷座した赤御堂とその周辺住民の多くは、元々、亀山の氏子でもあり、そんな彼らの亀山への心情的な近しさが、衣装の社紋に形となって表れていたのだと思えてなりません*22

なお、既述の通り、「赤御堂さん」の実態は寺跡としての赤御堂でしたが、そこに祀られていたと思われる木製の仏像が今も赤崎神社の本殿に安置されています*23

元来、御祭神は「因幡の白兎」にも登場する大己貴命大国主神)と、八岐大蛇を退治した須佐之男命の娘で大己貴命の嫡妻でもある須勢理毘売命ですが、さすが寺院をルーツとする赤崎神社だけあって、明治政府による神仏分離政策のもとでもぶれることのなかった庶民信仰のたくましさのようなものが感じられます。

 

髙橋家との関わり

 

ところで現在の祭りで使用されている9面のうち6面を寄贈したという髙橋家とは一体どのような旧家なのでしょうか。

実は髙橋家は、呉の人にとって馴染みが深いあのクレトイシの創業家です。

創業者は髙橋兼吉(写真4参照)。

 

写真4 兼吉の肖像画

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提供:髙橋勇氏

 

明治11(1878)年生まれで、早くから研磨砥石の可能性と市場性に着眼した兼吉は、明治43(1910)年に出雲産のメノウを原料とし、国内で初めて人造研磨砥石の製造に着手しました。

その試作を行った場所が赤崎神社の境内であったとも言われています。

その後、大正8(1919)年に呉製砥所を発足。

昭和26(1951)年に73歳でこの世を去るまで、工業用研磨砥石の大手メーカーとしての今日の礎を築きました。

また、敬神尊崇の念が厚く、浄財を投じ公共福祉に喜捨するなど*24美挙が多かったとも伝えられています*25

その兼吉の子息が定(さだむ)、満(みつる)、弘(ひろむ)の三兄弟でした(写真5参照)。

 

写真5 昭和14(1939)年の髙橋家の記念写真

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提供:髙橋勇氏

最前列左から3人目(軍服)が定、その右隣(和装・杖)が兼吉、2列目中央(兼吉の斜め右後ろ、背広)が弘、最後列の石碑前(弘の斜め右後ろ、背広)が満

 

三兄弟は、父、兼吉の篤志を継ぎ、先の大戦で災禍を被り荒廃した赤崎神社の復興に尽力。

昭和32(1957)年に、元々鎮座していた場所(現・室瀬第一公園)のすぐ上の段丘に「立派な社殿」が再建されました*26

また、明治41(1908)年生まれで、クレトイシの二代目社長となった次男、満は、呉市体育協会会長*27呉商工会議所会頭*28を歴任するなど、戦後の呉を代表する財界人でした(写真6参照)。

 

写真6 満

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提供:髙橋勇氏

 

その満が昭和35(1960)年1月に赤崎神社に奉納*29した三面がこちら(写真7参照)。

 

写真7 満の三面

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収納箱(写真8参照)の内側に書かれている「仁井屋」は、兼吉がクレトイシを創業する以前から髙橋家が代々使用していた屋号で、初代は江戸後期、天明6(1786)年の生まれの仁井屋佐蔵です*30

 

写真8 満の三面が入った箱(内側)

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また、「奥田龍王」という人物は、本名奥田秀雄で、奈良県を代表する彫刻家の一人でした*31

面の裏にも同様の情報が刻まれています(写真9参照)。

 

写真9 満の三面のうちの一面の裏

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なお、年代については、ここには「昭和丗五年」と書かれていますが、「丗」は三十を表す漢数字なので、収納箱に記載の情報と同じく、製作は昭和35(1960)年であることが示されています。

赤崎神社の祭りの世話を現在、主となって行っている、昭和19(1944)年生まれの稲田勲さん(以下、稲田氏)*32は、「昔の赤崎の祭りは大人のやぶだけだったのが、高橋家から三面が寄贈された昭和35(1960)年以降は子ども中心の祭りに改まった*33」と聞いており、実際、昭和51(1976)年の写真には満の三面を被った子やぶが三匹、写っています(写真10参照)。

 

写真10 昭和51(1976)年の赤崎の祭り

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提供:佐伯孝志氏

 

また、右端にはあの「笹やぶ」もおり、決してごく最近始まった類の様式ではないことが分かります。

その稲田氏が祭りの世話をするようになったのは、昭和54(1979)年で、当時は、満の三面と作者不明の三面の計6枚が使用されていました。

その後、平成の時代になってから、髙橋家から新たに三兄弟の三男、弘の三面も奉納されることになりました。

弘の面が寄贈されたのは、大杉氏の記憶では、十数年前(2009年頃)とのこと。

故・弘の妻と思しき女性が「蔵*34を整理したら面が出てきた」と言って奉納されたそうです(写真11参照)。

 

写真11 弘の三面

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収納箱には、かつての屋号「仁井屋」の名が記され、面の裏には、「奉寄進 昭和丗七年 龍王作 仁井屋 髙橋弘」とあります(写真12、写真13参照)。

 

写真12 弘の三面が入った箱(外側)

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写真13 弘の三面のうちの一面の裏

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このことから、製作年は、満の三面が彫られてから約二年後の昭和37(1962)年であったことが分かります。

不思議なのは、「奉寄進」と書かれているのに、なぜか製作当時は奉納されず、高橋家の蔵で眠り続けていた点です。

ともあれ、半世紀近くが経ってから弘の三面も偶発的な経緯を経て寄進されるところとなり、以来、赤崎の祭りでは9枚の面が使用されることとなりました。

このうち、弘の三面(一番から三番)を大人が被り、満の三面(四番から六番)と作者不明の三面(七番から九番)を子どもが被っています*35

 

奉納前の祭り

 

さて、ここで素朴な疑問ですが、昭和35(1960)年に満が三面を奉納する前は一体どのような面が使われていたのでしょうか。

稲田氏によると、1995年頃、赤崎神社の境内で古写真の展示が行われました。

地域住民から20枚から30枚程度、昔の祭りの写真を集めて、祭礼の間、展示をしたそうです。

大半が白黒写真でしたが、あいにく「あのとき集まった写真は、祭りの後、それぞれの持ち主のもとへ返され、今となっては誰が写真を提供してくれたのかも分からなくなってしまった」と言います。

しかし、幸いにも稲田家の写真だけは、今も大切に残されており、その一枚がこちらです(写真14参照)。

 

写真14 昭和32(1957)年-昭和34(1959)年頃の赤崎の祭り*36

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提供:稲田武敏氏

 

なんと、「笹やぶ」は白黒写真の時代にもいたのです。

場所は、神社へ行く途中の休憩場所(室瀬町内)です。

宮原地区を表す「第一青年団」の旗が写っているので、小祭りの日ではなく、亀山神社の祭り(以下、亀山の祭り)*37の日の可能性もありますが、この旗は、亀山の祭りだけでなく小祭りでも使われていました。

写っているのは、明治26(1893)年生まれの当地の彫り師、矢鋪庫二が製作*38、奉納した三面(以下、矢鋪面)のうちの二面です。

大杉氏が「誰も被らず、よごろの夜から祭礼が終わるまでの間、社殿に飾っている」と話していたのがこの矢鋪面でした(写真15参照)。

 

写真15 矢鋪面

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当該面は、後年、三面とも上塗りされましたが、このうち一面は裏側だけ、製作当時のままの姿を留めています(写真16参照)。

 

写真16 矢鋪面三面のうちの一面の裏

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見るとここに、矢鋪庫二作の面であること、昭和32(1957)年に同社再建の記念に奉納されたことが記されています。

こうした面の謂れが後世の人にも分かるよう、「この鬼面のみ 内側塗らないこと」と注意書きが貼られています。

長年、使用されていないのは、奉納三年後に高橋家から立派な三面が寄贈されたからだけでなく、「子どもが被るには重い」(稲田氏談)という実用上の理由も大きかったようです。

矢鋪面に関しては興味深い証言があります。

「初代面の角が折れ、修理に出していたとき、矢鋪面を使った」。

そう語るのは、昭和4(1929)年生まれの梅原勲三さん(以下、梅原氏)*39

「18歳くらい(昭和22年頃)で青年団に入り、数年前まで祭りの世話をしていた」と言います。

梅原氏の証言が興味深いのは、「初代面」なるものへの言及がある点です。

そして、その初代面が修理に出されていて使用できなかったという事情のもと、矢鋪面が使われたと話しているのです。

では、その初代面とはどのような面だったのでしょうか。

梅原氏によれば、初代面の三面は、彼が子どもの頃、つまり戦前から既にあったそうです。

戦時中は祭りはなく、終戦直後は米国のMP(憲兵)によって、「団」の名の付く青年団は活動を禁じられたため、当地ではしばらく祭りが行えませんでした*40

その後、昭和22(1947)年に進駐軍の許可を得て、祭りを再開*41

満ら髙橋三兄弟の父であり、クレトイシの創業者でもあった兼吉は、いわば赤崎の祭りのスポンサーで、芋を寄付してくれたこともあったそうです。

髙橋家と赤崎の祭りとの関わりは、既に兼吉の時代からあったというわけです。

その当時の貴重な写真がこちら(写真17参照)。

 

写真17 昭和22(1947)年の赤崎の祭り

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提供:稲田勲氏

 

ここに写っているのが梅原氏の言う赤崎の初代面で、今も残るあの継ぎはぎだらけの衣装は、まさにこの3匹が着ていたものです。

向かって左端のやぶは稲田氏の義父で、左から順に一番、二番、三番*42

一番は「父」、二番は「息子」、三番は「息子の嫁」という位置づけで、やぶを家族に見立てている点がユニークです*43

梅原氏曰く、三番のみ「女」なので頭に笹をつける。

これが「笹やぶ」の真意だったようです。

また、写真の当時、宮原2丁目にやぶに詳しく、衣装の着せ方や俵の作り方、太鼓のくくり方にも長じていた、梶山キンシロウという明治生まれの人がいて、梅原氏はそのキンシロウから「三番が持つ(笹で覆われた)竹のことを『女子竹』(おなごだけ)と呼ぶ」と伝え聞いていました。

三番を雌のやぶに見立てて、その表現方法として、シュロ代わりの笹や「女子竹」といった装飾や装具を考案し、それを今なお伝承し続けている点に「変わりながらも変わらない祭り」を行っている赤崎の祭りの「らしさ」の一端がよく表れています。

基本的にこの3匹のみというのが、戦前からの「赤崎スタイル」*44でしたが、昭和30年代の前半、それまで不動の三面の上に成り立っていた赤崎の祭りに変化が生じる出来事がありました。

ある日、梅原氏は祭り仲間とともに初代面三面をモデルとした新面三面の製作を髙橋家に依頼したのです。

一体なぜ新面を製作する必要があったのでしょうか。

初代面の角が折れ、修理に出したことがきっかけとなって、初代面に代わる新面を以降の祭りで本面として使う考えだったのでしょうか。

それとも祭りに出す面の数を伝統の三面から増やしたかったのでしょうか。

梅原氏によると、この点については特に明確な動機や事情があった記憶はなく、「地元の名士でもある髙橋家に頼めばきっと作ってもらえると考えた」と振り返っています。

このように新面製作の背景については、不確かな点がありますが、いずれにしても、初代面をモデルに新面の製作を髙橋家に依頼し、その結果、昭和35(1960)年に三兄弟の次男、満によって三面が奉納されることになったという経緯は紛れもない事実です。

その一方、新面のモデルとなった初代面については、新面製作以降、その所在が分からなくなり、次第に当地の人でさえもその存在を知る人が少なくなっていきました。

それだけ新面が赤崎の祭りに馴染んだということかもしれないが、戦前から不動の三面として使われていた初代面が行方知れずとなってしまったのは痛恨の極みです。

梅原氏の記憶では、「面の裏にはいずれも彫り師の名前があり、三番の表面はツルツルだった」と言います。

また初代面は、個人所有の面ではなく、例えば、太鼓はA家、神輿はB家、面と衣装はC家と各々、それらを管理する家があったそうです。

但し、具体的な家名はもう思い出せないとのこと。

なにぶん60年以上も前のことであり、梅原氏と同世代の祭り関係者や年長者のOBはいずれも鬼籍に入っており、これ以上の証言集めは難しく、初代面の捜索は難航しました。

何らかの手がかりを得るために思い切って髙橋家を訪ねるという打開案も考えましたが、クレトイシの本社機能が東京に移されて久しく、当の昔に同家の人たちも東京に移り住んだと聞いていたので、そもそも訪ねるべき家がもう呉にはありませんでした*45

また、言うまでもなく三兄弟の時代から髙橋家も代替わりが進み、宮原地区の人たちでさえ、今の髙橋家とはもう面識がありませんでした。

最後の接点となったのが、故・弘の妻と思しき女性が蔵から出てきたという三面を寄贈した十数年前(2009年頃)ですが、実態はそれ以前から髙橋家の人たちとの関係は疎遠になっていたと言います。

かつて満社長(当時)に仕えていたこともある勤続45年の元社員の方にも会い*46、現在の髙橋家に繋がる糸口がないか模索したこともありましたが、既に退職されて20年近くが経過しており、現況の詳細が分かるには至りませんでした。

有効な打開策が見つからない中、無意味なことと承知をしつつ、初代面三面の写真をカバンに常備し、まるで「尋ね人」を探すような思いで、暇を見ては写真を眺めていました(写真18参照)。

 

写真18 カバンに収めていた初代面の写真

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思いもよらぬ発見

 

そんなある日のこと、娘から一通のLINEメッセージが届きました*47

内容は、高校時代の同級生から連絡があり、親御さんが家の整理をしていたら(やぶの)面が出てきたこと。

その後、インターネット上でこのブログのことを知り、(親御さんが)私と連絡を取りたがっていること。

同級生の名前は「髙橋さん」であることの三点が書かれていました。

青天の霹靂とはまさにこのことです。

まさか娘の同級生に高橋家の人がいたとは、否、本当にあの高橋家なのかと半信半疑でしたが、同級生からの文面には「クレトイシ」の文字があることも知り、疑う余地もなくそうであると確信しました。

すぐに娘を介して私のメールアドレスを伝えたところ、その日のうちに連絡があり、いくつかのやり取りを交わした結果、二日後に広島市内のご自宅を訪問することになりました。

急転直下の展開です。

お会いしたのは、髙橋勇さん(以下、勇氏)と典子夫人*48

勇氏は、クレトイシのかつてのグループ会社、クレノートン*49の元社長で、満の孫にあたります。

幼少期に大伯父である定(満の兄)の家に養子に入ったものの、実際は勇氏がまだ1歳だった昭和44(1969)年に養父、定は急逝したため記憶はなく、10歳まで吉浦の実父母のもとで暮らした後は、養母の温子(やすこ)に育てられました。

定は明治39(1906)年生まれで、元陸軍軍医でした。

終戦後は昭和28(1953)年に広島市下中町(現・中区中町)において入院病棟のある髙橋病院を開業*50

昭和30(1955)年には、当時「原爆乙女」と言われていた被爆女性25人の治療を目的とした渡米団の団長を務めるなど、内科医だった妻、温子とともに生涯を通じて被爆者医療にも献身的に取り組みました(写真19参照)。

 

写真19 定と温子

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提供:髙橋勇氏

 

また、外科医であると同時にアマチュアのバイオリン奏者でもあった定は、広島市交響楽団(現・広島交響楽団)の発足にも尽力し、昭和38(1963)年に初代理事長に就任するなど、戦後の広島の文化振興にも大きな足跡を残しています*51

勇氏は、養母との暮らしが始まって以降、今日までの間、広島市内で二度の引っ越しを行っています。

その間、中身をよく確認することなく保管していたものも多くありましたが、その中の一つ、「鬼面」三面が入った箱については、それが大事なものであることを、最初の引っ越し時*52に聞いたことがあり、現在の住まいに転居してからもその所在だけは認識していました。

ただ、それがどう「大事なもの」であるかは亡き養母からも聞かされていなかったため、長らく積み置かれたままの状態になっていたのです。

そうした中、ある日、呉の祭り動画をインターネット上でたまたま目にした際、自宅に鬼面があったことを思い出し、箱から三面を取り出してみたところ*53、その一つに先祖の名前が刻印されていたことに初めて気づいたと言います(詳細後述)。

しかし、これが一体何で、なぜこのようなものがうちにあったのか、勇氏には皆目見当がつかず、また実の親兄弟は皆、昭和55(1980)年に東京に移り住んでいたため、詳しいことが何一つ分かりませんでした。

ただ一点、髙橋家縁の地である呉は祭りが盛んと聞いていたので、調べてみたところ、「呉のやぶ」ブログの存在を知り、また2019年のブログ記事*54に赤崎の祭りと髙橋家との深い縁がこれまで知らなかったいくつかの実例とともに具体的に書かれていたことに驚き、急ぎ連絡を試みたそうです。

そこにさらに娘同士が同級生というあり得ないような偶然も重ねって、驚くほどのスピード展開で勇氏との対面に至りました。

もちろん「対面」したのは勇氏だけではありません。

60年余り、行方が分からなくなっていた初代面三面にもお目にかかることができました。

こちらがそれ(写真20参照)。

 

写真20 初代面三面

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紛れもない、昭和22(1947)年の写真に写っていたあの三面で、左から順に一番、三番、二番です。

ここで今一度、思い出していただきたいのは、初代面に関する梅原氏の記憶です。

大きくは三つありました。

第一に「角が折れ、修理に出したことがあった」こと、第二に「三番の面は表面がツルツルだった」こと、第三に「面の裏にはいずれも彫り師の名前があった」ことの三点です。

第一の「角」に関しては、二番の右の角が根元の部分から面の一部とともに破損した痕跡があり、また左の角から眉、目、鼻、口の上部にかけて縦に大きく割れた跡も確認できました(写真21参照)。

 

写真21 二番の損傷箇所

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緑の点線部と赤丸が損傷部分

 

稲田氏は「(初代面のいずれかが)亀山の祭りで割られた」*55という話を聞いたことがあり、もしそれが事実ならこの傷跡はそのときのものだったのかもしれません。

第二の「ツルツルの表面」については、一枚だけ際立ってその特徴が見られる面がありました。

それはまさしく梅原氏が証言していた三番で、見事に記憶が当たっていました(写真22参照)。

 

写真22 三番の表面の形状

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第三の「彫り師の名前」についても、以下の通り、三面とも彫り師と思しき名前が耳裏の位置に刻印されていました(写真23参照)。

 

写真23 三面の裏

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上段の一番については、「井上忠」までは確認できますが、その下の文字が判読できません。

中段の二番は「井ノ上」姓で、名は4字から成り、最後に「作」の文字で結ばれています。

名の4字はくずし字で、楷書で書くと「忠右エ門」となります*56

一番の井上某と同一人物なのかもしれません*57

最も目を引いたのは、下段の三番の裏に彫られた名前です。

こちらは全ての漢字が「髙橋貞助作」と正確に読めます。

髙橋貞助とは、クレトイシの創業者、兼吉の父です。

すなわち、満ら髙橋三兄弟の祖父であり、勇氏からすれば祖父の祖父(高祖父)にあたります(図2参照)。

 

図2 髙橋家の簡易な家系図(敬称略)

 

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貞助の生まれは江戸後期の天保14(1843)年です。

江戸幕府の老中、水野忠邦が行った「天保の改革」のあの「天保」で、ペリーが黒船に乗って浦賀に来航した嘉永6(1853)年よりも10年も前の生年です。

もはや歴史上の人物と言っても過言ではありません(写真24参照)。

 

写真24 貞助の肖像画

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提供:髙橋勇氏

 

その貞助が43歳だった明治19(1886)年頃に「赤御堂さん」(を含む赤崎神社)は海軍の進出によって移転を余儀なくされたのですが、その際、当該地にあった御神木を、海軍の関係者に頼み込んで切り株だけ残してもらったそうで、それが今でも勇氏の自宅に保管されていました(写真25参照)。

 

写真25 御神木の切り株*58

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提供:髙橋勇氏

 

この点一つを取ってみても、髙橋家が単に地元住民から要請されて神社を再建したり面の奉納を行ったわけではない、もっと能動的な関係が遷座前からあったことを窺わせます。

少なくとも貞助はそうした関係の渦中にいた一人だったのでしょう。

三番の面が貞助作*59であったことも、関係の濃さに一役買っています。

貞助は24歳で明治維新を迎え、明治41(1908)年に65歳で逝去しています。

このことから、他の面はともかく少なくとも三番は明治期には彫られていたということになります。

「呉のやぶ」が一体いつからいたのかはこれまで謎で、具体的な誕生時期を特定できる証拠が見つかっているわけではありません。

写真は「この時代にやぶがいた」ことを示す確かな証拠になり得ますが、いかんせん西洋文明の利器を用いて記録されたもので、現存する最も古い写真でも大正14(1925)年でしかありません*60

しかし、貞助作の面は、紛れもなく貞助が生きていた時代に彫られたものです。

しかも貞助の面はいわゆる能面師の彫る鬼面や一般的な鬼*61と異なり、(呉の人であれば)どこからどう見てもやぶにしか見えない「やぶ顔」をしています。

このことは、(貞助がやぶの産みの親でもない限り)「やぶとはこういうものである」というある種の共通認識が貞助を含む当地の人たちの間で既に形成されていたことを示唆しています。

そのため、貞助の面は、単に一枚の鬼面が彫られたという事実に留まらず、少なくとも明治期には呉にやぶがいたことを傍証する手がかりと言えます。

もちろん、「明治期に呉にやぶがいた」のではなく、「後にやぶと呼ばれ、祭りに出されるようになった鬼面が明治期に彫られていた」に過ぎない可能性も排除できませんが、前記の通り「やぶとはこういうものである」という共通認識が、その地理的範囲はともかく一定のコミュニティで形成されていたのだとすると、祭りこそがその生成の舞台装置になっていたと考えられます。

一旧家の屋内に魔除けや縁起物として飾られているだけでは、決してやぶの概念が流布することはないでしょう。

ところで、長年行方の分からなかった初代面は、なぜ髙橋家にあったのでしょうか。

少なくとも貞助作の面が髙橋家で見つかったことに関しては、結果だけを見ればある意味納得的です。

しかし、新面の製作を依頼され奉納したのは、当時宮原に住み、クレトイシの二代目社長であった満だったにもかかわらず、なぜ初代面は広島で髙橋病院を開業していた定のところにあったのでしょうか。

あいにくこの疑問を解く決定打は見つかっていませんが、関連がありそうなことが一つあるので、以下、節を変えて述べます。

 

定の三面

 

既述の通り、満と弘が奥田龍王に発注し、製作した各三面は、時期の違いはあるにせよ、いずれも赤崎神社に奉納されています。

ところが龍王に面の発注をしたのは、実は満と弘の二人だけなく、定も含まれていたことが、調査の結果、分かったのです。

もし、三兄弟の中で定一人が三面を製作していなかったとしたら、龍王から返却された初代面がよりにもよって定の家で見つかるというのは全くもって不可解ですが、実際は定も製作していたとなると、少なくともその不可解さは解消されます。

「関連がありそうなこと」として言えるのはここまでです。

これより先は想像に過ぎませんが、もしかすると、満ではなく定と龍王との間で初代面が行き来していたのではないでしょうか。

そう考えると、三兄弟の中で他ならぬ定の家に初代面が残っていたのも頷けます。

それが何らかの事情や経緯で、龍王から返された初代面が広島の定のもとに留まり、室瀬に戻る機会を逸したという「想像」です。

それを示唆する証拠があるわけではありません。

なお、定が発注、製作した三面が今どこにあるのかは不明です。

というのも、2015年7月に定の面は、広島市内で古物を扱っている業者によってネットオークションに出品され、その数日後に落札されているからです。

その当時、掲載されていた写真がこちらです(写真26参照)。

 

写真26 オークションサイトに掲載された定の三面

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出品者より許可を得て転載

 

間違いなく、そこには「髙橋定」、「奥田龍王作」の文字が確認でき、「奉納 昭和三十四年六月六日」とあります。

ここで注目いただきたいのは、第一に、6月6日は兼吉の命日であったこと。

第二に、定の三面もやはり「奉納」を企図し、龍王に発注されていたこと。

第三に、定の三面の製作年は、満や弘よりも早かったことです。

第一の点については、わざわざ兼吉の命日の日を選んで奉納しようとしていたところに、定の兼吉に対する敬愛の念が強く表れているように思われます。

広島で髙橋病院を開業し、兼吉とは異なる職業人生を歩んだ定でしたが、室瀬への思いも父への思いも片時も忘れたことはなかったのかもしれません。

第二の点については、実際は奉納されなかったばかりか、定の養子となった勇氏自身、養父の三面の存在を知らず、ネットオークションにかけられていたことも初耳でした。

56年もの間、一体この三面がどこにあり、誰が広島の古物業者に持ち込んだのかは謎のままです。

考えられるとしたら、2015年に髙橋家最後の蔵を解いた際に人知れずそこに眠っていた(かもしれない)定の面が他人の手に渡り、流出してしまった可能性があります。

実際、ネットオークションに出品されたのも同じ年なので、あながちあり得ない話ではないでしょう。

とはいうものの、今となってはその真偽も確かめようがありません。

第三の点については、具体的には以下のような時系列に整理できます。

 

昭和34年6月 定の三面、完成

昭和35年1月 満の三面、完成

昭和37年0月 弘の三面、完成

 

既述の通り、初代面が勇氏の自宅で見つかったとき、当該三面は昭和35年1月17日付の朝日新聞(広島地区版)に包まれていました(写真27参照)。

 

写真27 昭和35(1960)年当時の新聞

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このことから、おそらく定と満の面を製作する間、龍王のもとにあった初代面は、満の面の完成に伴って、髙橋家のもと(前記の「想像」に従えば、定の自宅)に返され、そこで当時の新聞紙に包まれ箱に収められたと考えるのが最も自然です。

その二年後に完成した弘の面は、最初から製作が予定されていたのか、定、満の面が作られた後に追加的に発注されたのか、そのあたりは定かではありませんが、いずれにしても当該面の製作期間中、初代面はもう龍王の手元にはなかった可能性が窺えます。

以上のように、初代面三面と髙橋家との関係や、龍王・髙橋家間の面の行き来の真相は、まだまだ分からないことずくめですが、いずれにせよ、勇氏は今回見つかった初代面を最も良い形で役立てたいとのお考えで、既に前自治会長(現在)の大杉氏や宮守世話人の稲田氏らとも会い*62、その意向を伝えています。

もし再び赤崎の祭りに出されるとなれば、貞助や兼吉の眠る室瀬の地に60数年ぶりに「帰還」することになります。

 

面の系譜

 

ここで今一度、初代面三面から始まる赤崎の面の歴史を簡単に振り返ってみます。

製作順に並べれば、初代面、矢鋪面、三兄弟面、作者不明面となります。

このうち、昭和32(1957)年に奉納された矢鋪面は、一目瞭然、初代面を模して製作されていることが分かります(写真28参照)。

 

写真28 初代面と矢鋪面との比較

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続いて、昭和35(1960)年に満によって奉納された三面は、「初代面をモデルに製作を依頼した」(梅原氏談)というだけあって、随所に各々の特徴が見られます(写真29参照)。

 

写真29 初代面と満の三面との比較

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もちろん満の面は、さすが高名な能面師によって彫られたものだけあって、初代面に見られるような「野性味」あふれるやぶの面というよりも「美術品」と形容した方が相応しい造形美があります。

また、満の三面の前後に彫られた定と弘の各三面も、細部においては満の面との違いはあるものの、基本的には同系であることは言をまちません(写真30参照)。

 

写真30 三兄弟の各三面の比較

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一方、昭和の後期*63に製作されたと思われる作者不明の三面については、三兄弟の面と同じ系統の作りをしています。

言うまでもなく、これらが彫られた時期には既に初代面は行方知れずになっていたことから、モデルとなったのは満の三面と思われます(写真31参照)。

 

写真31 満の三面と作者不明面との比較

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以上を一覧にまとめると以下のようになります(図3参照)。

 

図3 面の系譜

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面と面を繋ぐ縦横の線で描かれた関係図は、人間でいう親兄弟を表す家系図のようなもので、決して個々が独立無関係に存在しているわけではないことを表しています。

いわば当地において脈々と受け継がれている面の系譜です。

ある種の地縁、血縁から成る関係の連鎖が系譜の本質で、文脈から切り離されたコピーの量産とは一線を画します。

「系譜」という意味では、赤崎だけに留まりません。

お隣の伊勢名神社における2枚の古面も赤崎の面を源流としています。

モデルとなったのが初代面なのか、それとも満の三面なのかは、製作年が昭和35(1960)年以前か以降かによって分かれますが、初代面を大胆にデフォルメした満の三面よりも初代面によく似ていることから、おそらく昭和35(1960)年以前に初代面を参照し、彫られたものと思われます(写真32参照)*64

 

写真32 初代面と伊勢名の古面二面との比較

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具体的には、口閉じの面が初代面の一番、口開きの面は二番*65の系譜を継いでいるように見えます。

また宮原地区の西端、八咫烏神社には、2018年のやぶ展がきっかけでこれまた奇跡的に約60年ぶりに見つかった二枚の古面があります*66

いずれも戦前から(行方不明になる前年の)昭和34(1959)年*67まで不動の一番、二番の面として使われていたもので、2018年に発見されて以降、再び一番、二番の務めを果たしています。

実は、これらの二面が長らく「不在」だった間、赤崎面を参考に彫られたものが、一時、主力の面として使われていた時期があります。

具体的には、昭和40年代に製作された二面(以下、第一期の二面)と昭和52(1977)年製作の二面(以下、第二期の二面)の二種あります。

双方ともそれらが彫られた当時、既に赤崎の初代面は所在が分からなくなっていたため、満の面がモデルとなったと考えられます。

見比べてみると、第一期、第二期の各二面とも満面の二番、三番の特徴を汲んでいます(写真33参照)。

 

写真33 満面と八咫烏の第一期、第二期の各二面との比較

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なお、第一期の二面は今も現役で使われていますが、第二期の二面はサイズが相対的に大きく、子どもの被り手が多い八咫烏では使いにくいということもあって、かれこれ10年以上、祭りには出されていません。

このように赤崎の初代面については、伊勢名や八咫烏を含む宮原地区全域にその系譜が広がっており、こうした近隣の「縁戚」も含めてその系譜を俯瞰すると、宮原の旧第一青年団が一つの大家族のようにも見えてきます(図4参照)。

 

図4 近隣地区も含めた面の系譜

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また、お気づきの人も少なくないと思いますが、初代面の一番はいわゆる辰川系*68の顔です(写真34参照)。

 

写真34 一番と澤原家の面との比較

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一方、二番は宇佐神社、中央区のヨダレの雄に非常によく似ています(写真35参照)。

 

写真35 二番とヨダレの雄(旧面)との比較

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また三番は独創的な面でありながら、八咫烏の一番と個々のパーツこそ違えど、どことなく雰囲気が似通っており、見方によっては初代面の二番と八咫烏の一番との間にも共通する佇まいを感じられなくもありません(写真36参照)。

 

写真36 三番、二番と八咫烏の一番との比較

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左が初代面の三番、右が二番、中央が八咫烏の一番

 

既述の通り、八咫烏(坪ノ内)は宮原地区の西端で、宇佐神社が鎮座する鍋地区とも隣接しています。

ここではひとまず辰川顔の一番を除いてみると、旧宮原村と旧鍋村との間には「村境」を超えた一つの緩やかな文化圏のようなものが形成されているようにも見えます。

実際、かつては八咫烏の祭りに鍋のヨダレが出たり、赤崎の初代面が衣装とセットで出された年が何回かあり、単なるお隣同士の関係を超えた繋がりの深さが垣間見えます(写真37、写真38参照)。

 

写真37 鍋のヨダレが出た昭和15(1940)年の八咫烏神社の例大祭*69

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提供:篠崎弘氏

向かって右の赤丸がヨダレの雄(旧面)、左が雌(旧面)

 

写真38 赤崎の初代面が出た昭和20(1945)年の八咫烏神社の新嘗祭*70

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提供:坪之内青年団

向かって右の赤丸が一番、左が二番、中央が三番

 

このようにヨダレの雄や八咫烏の一番にまで射程を広げると、既述の面の系譜はさらに広がりを見せることでしょう。

何よりもその源流は何だったのかは最も関心のあるところですが、それについては今後の課題です。

また、初代面の中で唯一の例外として扱った辰川顔の一番についても、それがいつ、どのような経緯で、いかにして彫られたのかが分かれば、「呉のやぶ」そのものの源流にさらに一歩迫ることができるかもしれません。

さらにヨダレの雌との関連も分かれば、ひとまず除外した当該面さえも「一つの緩やかな文化圏」に含めて考察することもできます(写真39参照)。

 

写真39 一番とヨダレの雌(旧面)との比較

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以上のように、赤崎の初代面が見つかったことで、これまでの大いなる謎を解く扉の一つが開かれました。

次の扉は、今はまだどこかの家の古いアルバムの中にひっそりと眠っているかもしれません。

その発掘が急がれます。

 

結び

 

今秋、「昭和のやぶ」展を開催します(写真40参照)。

 

写真40 「昭和のやぶ」展

 

テーマは「変遷と伝承の63年史」。

変遷と伝承は本来相反する言葉で、前者は「時間の経過に伴って移り変わること」を意味し、後者は「古くからの風習などを受け継いでいくこと」を指します。

そうした相容れない概念が共存していたのが、「赤崎のやぶ」史でした。

表面的には初代面から始まり、矢鋪面、三兄弟面、作者不明面と面そのものは「変遷」していったように見えますが、どう変遷しようと初代面を源流とする系譜からは外れることなく、一貫して赤崎の顔が「伝承」され続けてきました。

まさに変遷しながらも伝承を行ってきた歴史がそこにあります。

これを一つの事例とし、赤崎に限らず市内各域の「昭和のやぶ」史を対象に、また面だけに限定せず衣装や稚児、祭りのスタイルなども含む形で、一体どう変遷し、何が伝承されてきたのかを古写真を通じて多面的に検証する場づくりが「昭和のやぶ」展の開催趣旨の一つです。

思えば不思議なものです。

開催を正式に決めたのは2021年の11月です。

具体的に何をどう展示するかはまだこれからの検討でしたが、赤崎の初代面が写った昭和22(1947)年の写真は、当初から本展の看板写真として使うつもりでした。

そのため、展示用の試作パネルとしてまずはこの一枚を11月17日に発注しました。

自宅に届いたのはその約一週間後の11月25日で、梱包を開封し、壁に掲げてみたのが二日後の11月27日でした。

後で分かったのですが、髙橋家で長らく積み置かれたままの状態になっていた「大事な箱」から初代面が取り出されたのも、これとほぼ同日*71でした。

そしてその翌週の12月1日に娘からあのLINEメッセージが届いたのです。

見えない力が働いたとしか思えません。

まるで初代面が「昭和のやぶ」展に呼応したかのようでした。

本展では当該三面も展示する予定です。

写真ではなく本物からしか窺い知れないものがあります。

是非とも会場でご堪能ください。

 

【注記】

本稿では、故人の敬称は省略しています。また、平成以降の年代表記は、西暦のみとしています。

 

【謝辞】

本稿を作成するにあたり、稲田勲氏には再三にわたるインタビューにご協力いただき、また「やぶ史」に関するこれまでの見方を上書きする決定的に重要な写真を提供いただきました。梅原勲三氏には戦前・戦後の赤崎の祭りを知る唯一の祭り関係者として、貴重な証言をいただきました。大杉謙人氏、稲田武敏氏には大事な面や古衣装を見せていただき、また赤崎神社の歴史を理解する上で有益な資料を提供いただきました。髙橋勇氏と典子夫人には髙橋家に関する筆者の煩雑な質問に対し、いつも丁寧に答えていただきました。言うまでもなく本稿はお二人との不思議な出会いなしには完稿に至りませんでした。大林鉄兵氏、黒田哲仙氏には、もはや共著者と言っても過言ないほど、この「赤崎プロジェクト」に丸三年間、携わっていただきました。本稿に少なからず驚きと興味を覚える読者がいたとしたら、それはひとえにお二人からいただいた至言によるものです。亀山神社宮司の太刀掛裕之氏、呉市文化振興課市史編纂グループのスタッフの方々には、いつもながら丁寧かつ細やかな応対をしていただきました。広島大学大学院人間社会科学研究科名誉教授の下向井龍彦氏、呉市海事歴史科学館学芸員の花岡拓郎氏には、江戸期の地図の読み解きに多大なお力添えをいただきました。ここに記して感謝の意を表します。なお、本稿の記述における誤謬の責は筆者にあります。

 

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*1:内訳は、「今の祭り」の写真が74枚。「昔の祭り」の写真が61枚。

*2:具体的には、下記の記事「学術雑誌への掲載」の表1に記載。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2021/03/26/201057

*3:当日は、龍王神社、髙日神社、畝原町自治会館、長ノ木トンネル東口付近、長迫小学校、海岸4丁目公園、神原公園、長迫小学校、寺迫公園、三宅本店、三津田橋、八咫烏神社、龍王神社、荘山田小学校の順に移動。

*4:2019年1月19日、赤崎神社にて聞き取り。

*5:神事への出席と、予算(経費)の執行を行う。実際の運営は、宮守世話人をしている後記の稲田兄弟らが中心になって行っている。具体的には、兄の勲氏が祭りを担当。弟の武敏氏が祭り以外の全般的なことを受け持つ。

*6:主に中高生、大学生。

*7:但し、コロナ禍にあった2020年と2021年は、やぶは出したものの町回りなどは行わず、境内で神事のみ実施。

*8:後記の梅原勲三氏によると、赤崎神社の祭り区域は、元々は宮原1丁目から3丁目と室瀬町で、その後、宮原4丁目も加わった。

*9:下記に転載された昭和56(1981)年呉市教育委員会社会教育課「祭り調査報告」より。

石井俊昭編(2012)『ウォッチングカード宮原:ふるさとからのメッセージ』

*10:地図2における「北花久保」「南花久保」が、地図1における「北花久堂」「南花久堂」に該当。

*11:著作権の関係で本稿への掲載は行わないが、地図2とGoogleマップの航空写真を、方位と縮尺を揃えた上で比較し特定した。具体的には、地図2の亀山と(洗足の側の)小山の位置を、Googleマップの入船山記念館と海上自衛隊呉地方総監部城山正門右側の小山に合わせる形で照合。

*12:下記によって確認。

今村洋一・無津呂和也(2018)「呉市における旧軍用地の転用計画について:戦災復興計画と旧軍港市転換計画を対象として」『日本都市計画学会 都市計画論文集』, 53(2), pp. 224-231.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/53/2/53_224/_pdf/-char/ja

*13:亀山神社のかつての社号。詳しくは、下記を参照。

中邨末吉(1930)『呉及び其の近郷の史実と伝説 第1輯』呉郷土史研究会, p. 50.

亀山神社HP(社紋と社号の変遷)

https://www.kameyama-jinja.com/rekisisyamon.html

*14:戦国時代に島末嘉平によって築かれた砦。詳しくは、下記を参照。

中邨末吉(1933)『呉軍港案内』呉郷土史研究会, p. 62.

呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所, p. 52.

*15:「澤原家近世・近代史料」の一つで、呉市有形文化財。入船山記念館にて保管されており、本稿では、当該史料の一部が転載された下記によって確認。

宮原地区まちづくり推進委員会編(2015)『くれ・宮原神社物語:宮原村から宮原通へ』, p. 7.

*16:下記によれば、その付図の控えとして村に残されていたものが、地図3であった。

石井俊昭編(2014)『ふるさと呉・宮原再発見:宮原村・呉町の形成と発展から呉市宮原へ』, p.12.

*17:呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所, pp. 51-52.

*18:宮原村文化度国郡志に記載。本稿では、下記によって確認。

宮原地区まちづくり推進委員会編(2015)『くれ・宮原神社物語:宮原村から宮原通へ』, p. 4.

*19:現在の地図では、旧結婚式場(赤御堂)から入船山記念館(亀山)までの移動距離は約350m。

*20:鎮守府工事に伴って立ち退きを命ぜられた1,023戸の住民のうち、約4割(385戸)が宮原村高地部へ移住。具体的には、下記を参照。

呉市史編纂委員会編(2002)『呉市制100周年記念版 呉の歴史』呉市役所, p. 162.

*21:地理的には亀山神社の境内外にあるものの、境内社として区画されている神社。

*22:当該衣装が製作されたのが明治19(1886)年以前なのか、遷座後しばらく経ってからなのか、あるいは宮原村高地部への移住者の次世代以降なのかは不明。仮に次世代以降だったのだとすると、「亀山への心情的な近しさ」が当地で伝承されたと本稿では解釈。

*23:2022年2月19日確認済み。なお、本殿には当該仏像の他にも虚空蔵菩薩も祀られている。前記の「発祥の歴史」によれば、これは赤御堂の近隣の小池谷にあったもので、当地が海軍用地として買い上げられた際に前記の仏像と同じく遷されたのではないかとされている。

*24:例えば、正圓寺宮原本坊の納経堂や常夜灯の一つは兼吉の奉納による。

*25:以上の兼吉に関する記載は、後記の髙橋勇氏からの聞き取りのほか、下記を参考に記述。

香川亀人編(1971)『「吉浦の工業」の研究-大正・昭和時代-』吉浦わかやぎ会, pp. 118-121.

クレトイシHP(クレトイシの歴史)

https://www.kgw.co.jp/company/outline/

*26:この点については、赤崎神社の「発祥の歴史」を参考に記述。なお、再建された神社の土地の所有者は個人名義だったことから、税務上の問題が浮上。そのため当該地を亀山神社に寄進し、これを機に同社の飛地境内社となった。

*27:昭和38(1963)年-昭和46(1971)年。

*28:昭和46(1971)年-昭和49(1974)年。

*29:厳密には面の製作(完成)と奉納との間には日数上、一定の開きがあると考えられるが、本稿ではその差は小さいとみなし、年・月レベルでは同じ時期であったものとして扱う。

*30:仁井屋佐蔵の没年は明治元(1868)年、享年82歳。

*31:初代龍王。大正7(1918)年-平成14(2002)年。

*32:2020年11月9日、並びに2021年12月4日、亀山神社にて聞き取り。また2022年2月19日、赤崎神社にて弟の武敏氏も同席のもと再度聞き取り。

*33:この点については、赤崎神社のみならず旧呉市内各地で見られた現象。やぶの子ども化を図り、喧嘩を抑止しようという狙いがそこにあった。昭和23(1948)年に設置され、昭和29(1954)年まで存続した呉市自治体警察が同年、広島県警察に統合されて以降、祭りでのトラブルに対する取り締まりや指導が強化されたことも、子やぶが普及した一因と考えられる。

*34:後記の髙橋勇氏によると、宮原地区には、かつて定、満、弘の三兄弟の蔵が三棟並んでいた。

*35:弘の三面の方が満の三面より若干大きい。

*36:右から二番目が昭和7(1932)年生まれの稲田家長男。左から三番目が昭和12(1937)年生まれの次男。なお、現在、宮守世話人をしている勲氏は四男、武敏氏は五男。

*37:後記の梅原勲三氏によれば、昭和34(1959)年か昭和35(1960)年が、宮原地区(第一青年団)が亀山の祭りに参加した最後の年。

*38:後記の梅原勲三氏によれば、「昭和32(1957)年当時、当地で面を彫る人といえば、矢鋪さんくらいしかいなかった」。

*39:2021年1月12日、亀山神社にて聞き取り。稲田氏も同席。

*40:大杉氏も「戦後はしばらく祭りが中断していていた」と証言している。

*41:その後も、警察にやぶの被り手が誰であるか、事前に届けを出して祭りを行った。

*42:このとき三番やぶを被っていた被り手は、その後、10年あまり赤崎の一番を務めた。

*43:父と夫婦ではなく、両親と息子という説もある。

*44:大杉氏も「子どもの頃は、やぶは3匹だった。いずれも大人のやぶだった」と証言している。

*45:後記の髙橋勇氏によると、「最後まで宮原に残っていたのは(三兄弟のうち)三男の弘」とのこと。

*46:2019年3月29日、呉市内某所にて聞き取り。

*47:2021年12月1日。

*48:2021年12月3日、髙橋家自宅にて聞き取り。また、2022年2月20日呉市内某所にて再度聞き取り。

*49:昭和47(1972)年、米国ノートン社との合弁によって設立。2008年、クレトイシが吸収合併。

*50:具体的には、現在、三井ガーデンホテル広島が建つ場所。

*51:定の略歴については、勇氏からの聞き取りのほか、2022年2月17日付中国新聞18面「プロ化50年広響ものがたり 第1部 焦土からの出発<3>」を参考に記述。

*52:1995年頃。

*53:既述のLINEメッセージに書かれていた「家の整理をしていたら(やぶの)面が出てきた」というのは、典子夫人の当初の認識。

*54:具体的には、下記の記事「2019年シーズンの振り返り(後編)」。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2019/12/14/074544

*55:梅原氏によれば、亀山の祭りでは、浜の宮(二河公園)で各地のやぶ同士の喧嘩がよく行われていた。龍王神社の祭り関係者OBで、昭和7(1932)年生まれの西平信夫氏も同様の証言を行っている。

*56:下記によって確認。

http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+5FE0/

http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+53F3/

http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+30A8/

http://codh.rois.ac.jp/char-shape/unicode/U+9580/

*57:後に勇氏の依頼によって初代面三面の補修を行った能面師で、能面研究の第一人者でもある保田紹雲氏も補修前に同様の見解を示している(2022年3月18日)。

*58:直径は最大箇所で117㎝。

*59:貞助が「彫った」のではなく、「彫らせた」可能性もあるが、「作」の文字があることから、本稿では前者であったと判断。

*60:龍王神社のやぶ。

*61:例えば、「桃太郎」や「一寸法師」に登場する鬼。

*62:2021年12月8日。

*63:考え得る時期の最大範囲は、(満の三面が奉納された)昭和35(1960)年以降、(稲田氏が祭りの世話を始めた)昭和54(1979)年以前。

*64:伊勢名神社が鎮座する現在地には、大正14(1925)年に建立された神社があった。それが先の大戦で荒廃し、昭和45(1970)年に再建され、現在に至っている。昭和35年以前に製作されたであろう当該二面は、再建前の神社の祭りで使われていたと思われる。

*65:但し、眉は三番に近い。

*66:発見の経緯については、下記の記事「昔の祭り(八咫烏神社編):エピローグ」に詳述。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2018/10/30/185531

*67:昭和37(1962)年という証言もある。

*68:龍王神社のやぶ。

*69:他にも昭和17(1942)年の八咫烏神社の祭りにヨダレが出ている(集合写真によって確認)。なお、宇佐神社の祭りは、当時から秋分の日(9月22日、または23日)に行われていたので、祭礼日の異なる八咫烏神社の祭りに出ることが可能だった。そのため、ヨダレ以外でも昭和27(1952)年にはムシクイが、昭和28(1953)年には、カッパとムシクイが出たこともある(集合写真などによって確認)。

*70:新嘗祭とは、古くから営まれていた五穀豊穣を祝う祭りで、明治41(1908)年に皇室祭祀令によって大祭に指定。同法が廃止される昭和22(1947)年5月まで11月23日は、今日の「勤労感謝の日」ではなく「新嘗祭」という祝日で、当時、八咫烏では11月3日の小祭りとは別に祭礼が行われていた。なお、新嘗祭以外では、昭和21(1946)年の八咫烏神社の祭りに赤崎の初代面が祭りに出ている(集合写真によって確認)。同年は、既述の梅原氏の証言にあったように、米国のMP(憲兵)によって、「団」の名の付く青年団は活動を禁じられ、赤崎神社では祭りが行われていなかった。そのため、本来、同じ日(11月3日)に祭りが行われるがゆえに参加することは不可能であるはずの八咫烏の祭りに赤崎のやぶが出ていたと考えられる。

*71:2021年11月26日もしくは27日のいずれか。