はじめに
昨夏のある日のこと、会社宛てに届いた郵便物の中に「蒼い風」*1という雑誌がありました。
中国電力が年二回、3月と7月に発行している刊行物です。
普段こうした雑誌を丹念に読むことはなく、この日もほんの十数秒、パラパラと誌面を捲っていただけだったのですが、あるページに目が留まりました。
そこに二匹の鬼と思しき姿が写った祭りの写真が載っていたのです。
著作権の関係でその写真そのものをここに掲載するのは控えますが、下記のリンクで当該雑誌の全ページが公開されているので、pp. 24-25を是非ご覧ください。
https://www.energia.co.jp/eneso/kankoubutsu/wind/pdf/vol113.pdf
最初に頭に浮かんだのは「焼山のやぶに雰囲気が似ている…」でした*2。
鬼の箇所だけをスマートフォンで撮影し、拡大してみると、画像が粗くはっきりとは確認できませんでしたが、二匹のうち一匹は特に似ているように見えました。
しかし記事によれば、この写真は尾道の浄土寺で行われている「吉和太鼓踊り」というもので、呉の祭りではありません。
そこでインターネットで吉和太鼓踊りを検索してみたところ、尾道観光協会のホームページに驚愕の写真が掲載されていました(写真1参照)*3。
写真1

許可を得て転載
そこに写っていたのは焼山西区で「カッパ」と呼ばれていた古面三面のうちの一面(写真2参照)と瓜二つの面だったのです。
写真2

昭和45(1970)年撮影
提供:神田征雄氏
「呼ばれていた」と過去形で書いたのは、当該三面が平成11(1999)年の祭りを最後にかれこれ30年近く出されていないからです(写真3参照)。
写真3

平成11(1999)年撮影
向かって右端の一番目と二番目が西区のカッパ
提供:堀口勝弘氏
ここで、「瓜二つ」であることがより分かるよう、カッパの当該面を可能な限り忠実に模刻した面*4と並べてみました(写真4参照)。
写真4

これは一体どういうことなのか。
そんな疑問を抱いたことが、吉和太鼓踊りを取材するきっかけとなりました。
結論を先取りすると、本稿執筆現在では謎の解明には至っておらず、取材を通じて新たな謎も生まれるなど、調査は未だ継続中です。
しかし「新たな謎」も含めて謎そのものが非常に興味深く、また取材を通じて吉和太鼓踊りそれ自体の面白さにも魅了されたので、ひとまず現時点で分かったこと、感銘を受けたことを記事にし、読者の皆さんに紹介することにしました。
以下、筆者が行った調査を追体験できるよう時系列にそって記述します。
とっかかり
前記の通り、吉和太鼓踊りは尾道の浄土寺で行われています。
そこで何の伝手も当てもありませんでしたが、まずは浄土寺を訪ねてみることにしました。
今年の3月のことです*5。
お守りなどが並んでいる授与所で吉和太鼓踊りについて伺いたい旨を伝えると、「あちらの寺務所でお尋ねになってみてください」と言われました。
そこで寺務所の呼び鈴を鳴らしてみると、住職さんらしき男性が出てこられたので、名刺を渡しながら「つかぬことを伺いますが…」と切り出し、単刀直入に尋ねました。
「吉和太鼓踊りには二匹の鬼が出ると聞いたのですが、鬼面を管理されているのはこちらのお寺でしょうか」と。
すると「吉和太鼓踊りで使うものは鬼面も含めて全て保存会が管理しています」と言われました。
「保存会」というのは前記の雑誌にも載っていた「吉和太鼓踊保存会」のことです。
また「詳しい話を聴きたいなら」という文脈で、森重彰文さんのお名前を教えていただきました。
記事の中でインタビューを受けていた保存会の相談役の方です。
加えて事務所の場所も教えてくださったので、次にそちらへと移動してみることにしました。
もちろん事務所に誰か常駐しているわけではないと言い添えられましたが、それでも行けば何か手がかりが得られるかもと思い、足を運んだのです。
すると事務所に着くよりも前に吉和八幡神社(幣多賀八幡宮)が視界に入ったので、先にこちらへ立ち寄ることにしました。
浄土寺でお話を伺った和尚さんから「吉和太鼓踊りの一行は吉和の神社から出発し、観音さまを御座船に乗せて浄土寺に奉納に参ります」と聞いており、その神社がここではないかと思ったからです*6。
ただ、残念ながら境内には人の姿がなく、手がかりになりそうなものは何も見当たらなかったため、参拝だけして神社を後にしようとしたところ、一人の男性から階段ですれ違いざまに「こんにちは。お参りですか」と声をかけられました。
これも何かのご縁と思い、浄土寺で吉和太鼓踊保存会の事務所の場所を教えてもらい、ここまで訪ねてきたこと、同保存会が管理しているという鬼面に興味を持っていること、浄土寺の和尚さんから森重さんが詳しいと伺ったことを話しました。
すると、「相談してみては」といった趣旨で、広島県議会議員の吉井清介さんのお名前を挙げてくださいました。
地元選出の県議さんで、保存会の顧問でもあり、森重さんとともに熱心に吉和太鼓踊りのお世話をされている、と。
これは有力な手がかりを得たと喜びつつ、また色々と事情にお詳しそうなので、名刺を差し出し、改めてご挨拶したところ、その男性は吉和八幡神社の宮司、浮田裕人さんでした。
詳しいはずです。
浮田宮司は「(吉井県議は)週末はこの近くにある実家のラーメン店、よしみや(尾道市沖側町)で仕事をしているので、今日行けば会えると思いますよ」とも言ってくださったのですが、さすがに今日この足でいきなりラーメン店を訪ね、鬼面についてあれこれと尋ねる勇気はなく、またそのための準備もできていなかったので、吉井県議とはその時点で頭に浮かんでいた「ある人」を介して後日、面談を試みることにしました。
その後も浮田宮司から、足利尊氏と縁の深い吉和太鼓踊りの謂れ(詳細後記)などをひとしきり聞かせていただき、いよいよ神社を後にしました。
保存会の事務所は「この階段を下りてすぐの右手にある」と宮司から伺っていたので、迷うことなく見つかりました。
神社とはまさに目と鼻の先です。
あいにく土曜日だからか、あるいは祭りの時期ではないからか、浄土寺で言われた通り、保存会の事務所には人の気配がなく、その日は場所を確認しただけとなりました。
その後、妻が運転席で待つ車へ戻る途中、先ほど浮田宮司が言われていたよしみやの暖簾が目に留まり、「ここがそうなのか」と確認し、尾道を後にしました。
吉井県議
吉和八幡神社で偶然、浮田宮司とお会いし、保存会の顧問を務めているという吉井県議のお名前を伺った瞬間、ある人を介せばこれはきっとたどり着けると思いました。
その「ある人」というのは筆者の地元、呉から選出されている県議会議員の神田隆彦さんです。
神田県議の顔が真っ先に頭に浮かんだのは、単に地元の県議さんだからといったありがちな理由ではありません。
尾道観光協会のホームページに載っていた鬼面の写真を目にした際の筆者の驚愕を同じレベルで共有できる県議さんだったからです。
どういうことかというと、神田県議は筆者と同じく生まれも育ちも呉の焼山東区で、若かりし頃は東の青年団の一員として「ガッソー」と呼ばれるやぶの面を被っていたということもあって、「尾道の鬼面が西のカッパの一面に酷似している」の一言だけで、たちどころに話が通じるという確信があったのです。
加えて神田家とは祖父の代から約60年にわたる付き合いがあったので、まさに「文脈を即座に共有できる近しい間柄の県議さん」ということで、吉井県議との橋渡しをお願いするにはこれ以上の相談相手はいないといっても過言ありませんでした。
そこで今年の6月のこと*7、とある会合で神田県議とご一緒する機会があったので、お顔を見かけるや否やこれまでの経緯を簡潔に話し、吉井県議に繋いでほしい旨を伝えました。
話が早いとはこのことです。
その二週間後には、神田県議の同席のもと、広島県議会の議会棟で吉井県議とお会いできることになりました*8。
議会棟に足を踏み入れるのはもちろん初めての経験です。
アポイントよりも少し早めの到着でしたが、受付で来意を告げると恐縮するほど広い応接に案内されました。
しばらくすると神田県議が入ってこられ、雑談をしながら、吉井県議が座る席の説明がありました。
当初は私と向かい合うように吉井県議と神田県議が座るものとばかり思っていましたが、神田県議によればいわゆる「コ」の字型に座り、吉井県議には中央の要の位置にお座りいただく、と。
なるほど、これが議会の世界の作法なのかと感心する一方、当選5期を重ねるベテラン県議さんとこれからお願い事で対面する緊張感が増してきました。
それから待つこと数分。
再び扉が開き、吉井県議が急ぎ足で入室され、神田県議からご紹介いただき、名刺交換をし、挨拶をしました。
お忙しい中、お時間を取ってくださったことへの謝意を伝えたのち、最初は仕事の話、尾道における共通の知人の話などで場が和んだところで、いよいよ本題に入ることになりました。
持参した資料は、大きく分けて⑴中国電力の刊行誌「蒼い風」、⑵尾道の鬼面と焼山・西のカッパの古面の比較写真、⑶筆者の自己紹介代わりとして用意した拙稿が掲載された「日本民俗学」二誌や企画展「やぶ展」のDMなどの三点です*9。
これらをもとに、①これまで14年にわたって呉の祭礼民俗「やぶ」を調査してきたこと、②そうした中、呉(焼山)の古面に酷似した尾道の鬼面の存在を知ることとなったこと、③でき得れば当該鬼面を祭り当日に一見物客として見るだけでなく、別日に実物を手に取って拝見したいこと、④吉和太鼓踊りにおける鬼の歴史について分かる範囲でお話を聞かせていただきたいことの4点をお伝えしました。
すると吉井県議は、先ほど筆者にくださったご自身の名刺の裏に祭り本番の日と、そこに至るまでの練習日を全て書き出し(写真5参照)、「練習は土日の朝8時頃からやっているから、そのとき見にきてもらうとその場に面もあるし一番良いかもよ」と言われました。
写真5

昨夏に雑誌で偶然「焼山のやぶ」似の鬼面を目にしてから11か月あまりが経ったこの日、ようやく実物を手に取って見る道が開けました。
また「見に来られる日はいつでも良いので、直前に私の携帯にお電話ください。それまでに私の方でちゃんと話を通しておきます」とおっしゃったので、この日のために用意した資料一式を渡そうとしたところ「このお名刺一枚で大丈夫です」と言われました。
なんと心強いことか。
そんな感嘆を覚えながら、次の予定がおありのようで足早に応接室を退出される吉井県議を神田県議とともにお見送りし、ほっと一息つきました。
その後、この場を設けてくださった神田県議にもお礼の意を述べ、人生で初めて足を踏み入れた議会棟を後にしました。
もう一つのお顔
吉井県議から練習は8月1日から始まると伺っていたので、言われた通りその前日に携帯に電話し、訪問する日程を相談したところ、8月8日に訪ねることになりました。
その際、あのあたりは車を停める場所がないので、当日までに駐車場所を確保しておくから、前日にもう一度お電話をください、と。
そこで改めて電話したところ、「朝の7時45分によしみや(吉井食堂)に車で来てください。そこから駐車場所まで案内します」と言われました。
「よしみや」というのは、浮田宮司から聞いていた吉井県議のご実家のラーメン店です。
当日、よしみやを訪ね、店内に入ると、すぐに吉井県議が出迎えてくださったのですが、目の前にいる方が吉井県議と分かるまで1、2秒ほど時間がかかりました。
というのも、そこに立たれていた男性は、頭にタオルを巻いたいかにも仕込み途中のラーメン店主にしか見えなかったからです。
言葉を選ばずにいうと、いわゆる「ラーメン屋の親父」です。
気付くのに僅かな秒数を要したこともあってか、吉井県議は笑いながら「この間会ったときと姿が違いすぎて驚かれたでしょう」と。
県議会議員になる前の市議会議員時代から、土日はずっとこの姿でラーメンの仕込みを行っているそうです。
ラーメン店を「営んでいる」とは理解していましたが、まさか仕込みからご自身でされているとは、議会棟でお会いしたときの印象からは全く想像しておらず、のっけから驚かされました。
その後、よしみやを出て、バイクで軽快に先導する吉井県議の後を追う形で駐車場所まで案内いただきました。
わざわざこの日の筆者のために吉和漁業協同組合の敷地内に車を置かせてもらえるよう手筈を整えてくださっていたのです。
車を停めてからは吉井県議について徒歩で練習場所まで向かったのですが、その道中、地元の方とすれ違うたびに気さくに会話をされていました。
その様子は県議さんと地元の方との会話というより、近所のラーメン店の店主と地元の方との会話といった方が自然に思えるほど気さくで、「森重さんとともに熱心に吉和太鼓踊りのお世話をされている」と言われていた浮田宮司の言葉が何となく腹に落ちました。
鬼面との対面
当初、練習場所というのは学校の校庭のような広い場所を勝手にイメージしていたのですが、それは筆者の思い込みで、吉井県議に聞くと「練習はイバで行っている」と言われました。
「イバって何だろう」と思いながらついて歩いていくと、保存会の事務所に着きました。
この目の前の広場が「イバ」だったのです(写真6参照)。
写真6

後日、分かったのですが、「イバ」というのは「射場」と書き、そこには「むかしの漁民は海賦(海賊)*10から身を守るためこの広場で弓矢の練習をしました」(吉和民俗資料保存会)との説明書きがありました(写真7参照)。
写真7

さすがかつて足利尊氏の九州攻めに際して瀬戸内の水先案内をしたという、吉和の漁民らしい歴史を背負った名称ですが、このあたりの話は後ほど詳述します。
さて、その射場に到着して最初に紹介されたのが保存会相談役の森重彰文さん。
中国電力の雑誌で取材を受けていた方で、浄土寺の和尚さんから「詳しい話を聴きたいなら」と名前が挙げられていた方です。
ようやくお会いできたという感慨に浸るのも束の間、すぐに事務所の中に案内され、保存会会長の水戸川秀美さんとご挨拶。
さらに赤鬼の鬼面を12年にわたって被ってきた長谷司さん、そして青鬼歴34年の長谷淳二さんもご紹介いただきました*11。
お二人の苗字が同じなのは互いに親戚だからですが、そもそも吉和太鼓踊りで鬼面を被ることができるのは代々、長谷家だけという不文律があるとの説明を受けました*12。
そして、「鬼」がれっきとした一つの役割であることを示すかのごとく、部屋の壁には「相談役 森重彰文」「顧問 吉井清介」「会長 水戸川秀美」の木札とともに、「赤鬼 長谷司」「青鬼 長谷淳二」と記された木札がかけてありました(写真8参照)。
写真8

一通り挨拶が終わると早速とばかりに、布に包まれた二枚の鬼面が長谷さん(赤鬼)によって奥から取り出され、いよいよ目の前に置かれました。
それとほぼ同時に筆者もこの日のために持参したある一枚のやぶの面を布袋から出し、尾道の二面のうちの一方の隣に並べるように置いてみました(写真9参照)。
写真9

置いた筆者本人からも、その場に居合わせた保存会の方々からも思わず「おー」と驚嘆の声が漏れました。
筆者が持参したのは前掲の焼山・西のカッパの古面を可能な限り忠実に模刻した面で、それと並べてみると、両者はサイズこそ違えどまるで双子と見紛うほど本当によく似ていたのです*13。
同じ広島県内といっても呉の焼山と尾道の吉和とでは距離にして約70キロメートルも離れています。
にもかかわらずこれだけ酷似した面が存在していることへの驚きが、保存会の人たちと共有された瞬間でした。
その一方で「あれ…? 尾道観光協会の写真と少し違う…」と思った点が一つありました。
それは色です。
写真で見た面は鼻をはじめあちらこちらに積年の傷があり、面の色合いからして「いかにも古面」といった印象だったのですが、目の前にある鬼面は一見したところ傷跡が見当たらず、色も写真のそれよりも明らかに濃いのです(写真10参照)。
写真10

この点について後日、長谷さん(赤鬼)に尋ねたところ*14、「10年ほど前に仏壇店から(仏壇や仏具の修復などに使う)カシューを分けてもらい私が塗りました」とのことで、印象の違いは上塗りによるものであると確認できました。
このことから尾道観光協会の写真は、長谷さんが上塗りをされる以前に撮られたものであろうことが分かりました。
また青鬼の方も赤鬼と同じように上塗りされているように見えたので、こちらも同時期に長谷さんが塗られたのか確認したところ、「風雨に打たれてボロボロになっていた」ため上塗り補修をされたとのことでした(写真11参照)。
写真11

実際、青鬼の面は赤鬼の面以上に上塗り後も傷がはっきりと残っており、眉から鼻、顎にかけて割れやヒビの痕跡が表からも裏からも確認できます(写真12参照)。
写真12

ちなみに面の色は赤鬼も青鬼も同じ赤系なのに、なぜ後者は「青鬼」と呼ぶのか聞いてみたところ、それは衣装の色が青系だからだそうです。
一つ素朴な疑問が解けました。
興味深いのはこの両面の裏側です。
上塗り補修した表側と対照的に、古色蒼然とした風合いが今なお残っている裏面は、いずれも縦方向の荒彫り跡がはっきりと見られる特徴的な仕上げで、「同じ人が彫ったのでは」という想像さえ喚起します(写真13参照)。
写真13

さらにこの日最も興味深かったのは、この青鬼の面も呉のある古面とよく似ている点でした。
青鬼に関してはインターネット上にそれらしき画像が見当たらず、中国電力の刊行誌でしか写真を見ることができなかったのですが、いかんせん画像が粗いため、雰囲気しか掴めていなかったのです。
しかし実物を目の前にした瞬間、確信を持つことができました。
間違いない、と。
下記の写真14は、その呉のある古面*15と並べて比較したものです。
写真14

角と歯の数などに違いはあるものの、これまた瓜二つではないでしょうか。
つまり、尾道の鬼面は赤鬼だけでなく青鬼までもが呉の古面と酷似していたのです。
しかも両面の裏側を並べてみると、これまた彫りの特徴がよく似ているのです(写真15参照)。
写真15

これだけ呉の古面と似ているとなると、その製作年代に加え、どこで作られた面なのかも気になるところです。
呉なのか、尾道なのか、あるいはそのどちらでもないのか*16。
その点は残念ながら保存会の関係者の方々もご存じないとのこと。
いずれにせよ「昔から(この面が)使われていたと聞いている」そうですが、「昔」というのが具体的にいつなのかは分からない、と。
そこでこの鬼面が写った古い写真があれば見せていただけないかお願いしたのですが、あいにく吉和太鼓踊りでは鬼よりも踊り手の方が注目を浴びるため、そもそも鬼を被写体に写真を撮るということがあまりないらしく、その場では「うーん…どうだろうか…」という反応でした。
ただその一方で、「鬼(それ自体)は江戸時代から出ている」といった話も出ました。
聞くと、浄土寺の宝物殿に江戸期の吉和太鼓踊り奉納の様子を描いた絵馬があって、そこに鬼が描かれているそうなのです。
つまり今ここにある面がいつから使われているのかは別として、吉和太鼓踊りに鬼を出す風習自体は少なくとも江戸時代にはあったということです。
そこに筆者が強く興味を示したためか、森重さんは吉井県議に「今から浄土寺に行って見せてもらえないか住職に頼んでみては」と提案したのですが、「今から!? うーん…どうだろう…さすがにこればっかりは私も手形を切れない(確約できない)ですよ…」と躊躇されている様子でした。
そんなやり取りの最中、長谷さん(赤鬼)がおもむろに「これが鬼の髪です」と紙に包まれた赤鬼と青鬼の二組の髪を奥から出してきて目の前に広げました(写真16参照)。
写真16

長谷さんによれば「人毛でしょう」と*17。
そしてさらに「これは使っていませんが、髪はもう一つあります」と言いながら、もう一組の髪を取り出してきました。
やたらと古そうな新聞に包まれたそれは先ほどの髪よりも一段と長く(写真17参照)、何よりも驚いたのはその新聞の日付が昭和21(1946)年12月17日だったことです(写真18参照)。
写真17

写真18

道理で古いわけです。
終戦から僅か1年4か月ほどしか経っていない当時の日本の食糧問題や経済・産業復興、国際政治などを報じた中国新聞に鬼の髪が包まれていたのです。
もちろんこのことをもってこの髪の製作年が昭和21(1946)年以前のものであるとか、はたまた前記の二枚の鬼面がそれ以前に彫られていたと結論づける直接の証拠にはなり得ませんが、今から80年前もの新聞に吉和の鬼の髪が包まれていたという目の前の現実は、当地の鬼が「そんじょそこらのもの」とは歴史が違うことを雄弁に物語っています。
なにせ実際、江戸時代の絵馬に鬼が描かれているわけですから。
そうした中、森重さんが吉井県議に「やはり住職に電話して、絵馬を見せてもらえるよう頼んでみよう」と再度もちかけ、自ら住職に電話をかけてくださいました。
そしてしばし住職と話されたのち、途中で吉井県議に携帯を渡されたのです。
電話を受け取った吉井県議はこの展開に若干戸惑われながらも住職に対し筆者のことを指して「人物は保証します」と言ってくださり、その甲斐あってか見せてもらえることになったようで、電話で話を続けながら指でOKサインを筆者に出されました。
丁重にお礼を言い電話を切ったあと、吉井県議も思いがけず良いお返事をいただけたことに喜ばれていました。
ただ吉井県議はこれからラーメン店の仕事があるので、浄土寺には一緒に行けないとのこと。
そこで森重さんと長谷さん(赤鬼)と一緒に浄土寺に向かうことになったのです。
絵馬
保存会の事務所を後にし、浄土寺には筆者の運転する車で移動することになったのですが、長谷さんは一旦自宅に寄られるとのこと。
そこで森重さんに助手席に乗ってもらい、長谷さんのご自宅付近まで道を案内していただき、そこで合流することになりました。
待つこと数分。
ルームミラー越しに長谷さんの姿が見えたのですが、なにやら手に持っておられます。
合図を送り、後部座席に乗っていただくと「昔の写真が自宅にありました」と。
思いもかけなかった一言に胸が躍ったものの、いかんせん運転する身なので、すぐにその場でじっくりと額に入った写真を見ることができず、はやる気持ちを押さえながら浄土寺に着いてからゆっくり拝見することにしました。
吉和地区から浄土寺までは約5キロメートル。
車で10分あまりの移動を経てようやく浄土寺に到着したものの、写真の件は後ほどとし、まず寺務所に足を運び、森重さんとともに住職*18のところへご挨拶に伺いました。
出てこられた住職のお顔を拝見し、すぐに分かりました。
5か月前に何の当てもなくいきなり浄土寺を訪ねた際に、鬼面を管理しているのは保存会であることや、保存会の事務所の場所、吉和太鼓踊りに詳しいのは森重さんであることを教えてくださった和尚さんだ、と。
改めて名刺を差し出し、この度の急なお願いにご対応いただいたことへの感謝を伝えたところ、「もう(宝物殿の)鍵は開けてますから。写真も撮ってもらって構いませんから」とおっしゃっていただきました。
過分なまでのご配慮に重ねて感謝しつつ、早速、森重さん、長谷さんとともに宝物殿の中へと入りました。
宝物殿は二階建てになっていて、迷わず二階に上がるお二人についていくと、件の絵馬はそこにありました(写真19参照)*19。
写真19

ここに来るまでは「鬼も描かれた絵馬」といった漠然としたイメージしか持てていなかったのですが、最初に目にしたとき、まずそこに描かれた吉和太鼓踊りの壮大さ、荘厳さに目を奪われました。
大勢の人々がひしめき合って太鼓を打ち鳴らす熱量や音量が伝わってくるようで、しばし絵全体を見入りました。
すると長谷さんが「鬼はここにいますよ」と教えてくれ、そこに目を向けると確かにいました。
紛れもなく赤鬼が一匹描かれています(写真20参照)。
写真20

そして絵馬に書かれた文章の末尾には『此圖畫傳記ハ嘉永元年戊申三月奉掛 法橋永春畫伯の筆也』とあります(写真21参照)。
写真21

意味は「この図画と伝記は、嘉永元年戊申の年の三月に奉納して掲げられたもので、法橋永春画伯の筆によるものです」。
嘉永元年というのは西暦でいうと1848年です。
ペリーが浦賀に来航する5年前で、まだ日の本が「泰平の眠り」から覚める前の時代に既に吉和には鬼がいたのです*20。
また額の右端には『嘉永元年戊申二月吉日』の文字が確認できます(写真22参照)。
写真22

「嘉永元年戊申」と年は同じですが、前者は三月で後者は二月と記されていることから、二月に描かれた絵馬が、その翌月の三月に奉納されたのかもしれません。
その一方で、絵馬の左端には『昭和三年戊辰晩冬寫并傳 八十翁 翠峰掘梥』と書かれているように見えます(写真23参照)。
写真23

「昭和3(1928)年戊辰の晩冬に、八十歳の翁が写して伝えた」というのがその意味するところで、その人物は尾道市の資料では「堀田翠峰」とされています*21。
つまり今から約180年前の嘉永元(1848)年に奉納されたものを、約100年前の昭和3(1928)年に模写したのが目の前の絵馬ということです。
なお、以下は絵馬に記された文章の大意を現代語でまとめたものです。
(現代語大意)
浄土寺の十一面観音は、聖徳太子の作と伝えられる霊験あらたかな仏であり、古くから人々の篤い信仰を集めてきた。南北朝時代、足利尊氏は戦乱のなかで九州へ向かい、浄土寺の十一面観音に戦勝を祈願した。その後、筑前の多々良浜の戦いなどで勝利を収め、再び大軍を率いて東へ向かった。尊氏の軍勢は、多数の武将・兵士と数多くの軍船からなる大規模なもので、瀬戸内海を進んだ。その途上でも浄土寺の観音への信仰と祈願があり、その加護によって戦いに勝利したと伝えられている。こうした足利氏と浄土寺の関係はその後も語り継がれ、尊氏やその一族・関係者は観音を篤く信仰した。海上を往来する人々や地域の人々の間にも、浄土寺の観音に対する信仰が広がっていった。また、戦乱や疫病など人々を苦しめる災厄に際しても、観音の霊験によって救いを求める信仰が続いた。そして、浄土寺の観音の御開帳には多くの人々が集まり、行列をつくり、太鼓や鉦などを伴う盛大な行事が行われるようになった。
絵馬はまさに「盛大な行事」となった江戸後期の吉和太鼓踊りを活写したものです。
古写真
ひとしきり絵馬を見入ったところで、いよいよ長谷さんが自宅で探し出してくださった古写真二枚をじっくりと拝見することになりました。
一枚目は撮影年不明の白黒写真です(写真24参照)。
写真24

鬼面を被っているのは長谷さんの祖父にあたる方です。
明治25(1892)年頃の生まれで、80代前半まで赤鬼を務めたそうです*22。
なにぶん明治生まれの方なので、写真に写ったお顔から当時の年齢を推定するのは難しいですが、仮に40歳だとすると昭和7(1932)年。
50歳だとすると昭和17(1942)年。
60歳だとすると昭和27(1952)年ということになります。
鬼面を額の上に上げているため、現在使用しているものと同一かどうかを確認するのは難しいですが、写っている範囲の彫りの輪郭は同じようにも見えます(写真25参照)。
写真25

続いて二枚目は二匹の鬼が写ったカラー写真です(写真26参照)。
写真26

長谷さんによれば吉和太鼓踊りが広島県無形文化財に指定された昭和40(1965)年頃の写真ではないか、と。
また向かって左の赤鬼が長谷さんの祖父で、仮に昭和40(1965)年頃だとすると当時73歳くらいという計算になります。
鬼面については赤鬼、青鬼ともに浄土寺に来る前に見せてもらった現在の使用面と比較すると、造形上の一致は明瞭で、同一とみて間違いないでしょう(写真27、並びに写真28参照)。
写真27

写真28

撮影年の見立てが正しければ、約10年前に上塗り補修が行われたときからさらに半世紀ほど前の鬼面の色合いを、この写真で確認できるということになります。
衣装についても、赤鬼、青鬼と呼ばれる所以が分かる色彩であったことが見て取れます。
また鬼の背後に写る見物客の多さは先に見た絵馬の「昭和版」のようでさえあります。
さて、実は長谷さんは古写真だけでなく、いかにも古びた資料を二種、自宅から持ってきてくださっていました。
その一つが下記です(写真29参照)。
写真29

制作年や印刷年がどこにも見当たりませんが、掲載されている写真などからして戦後に制作されたものではないかと思われます。
ここに書かれている内容の要約は以下の通りです。
(要約)
- 建武3(1336)年、足利尊氏が九州へ向かう途中、浄土寺観音に戦運挽回を祈願した
- その際、尊氏の水軍で船頭を務めたのが吉和の人々であり、数々の功績を挙げたと伝えられている
- 同年5月、東上する尊氏が再び浄土寺へ参詣し、吉和の人々に厚く賞賜した
- これを喜んだ人々が戦勝祝いの踊りを踊って尊氏の東上を祝ったことが、吉和太鼓踊りの起こりとされている
- その後、悪疫が流行した際には、浄土寺観音に平癒を祈ってこの踊りを奉納したこともあり、一時中絶しながらも伝承されてきた
- 踊りの行列は「お船」を先頭に、悪魔払いの青鬼・赤鬼、先払いの奴、かんこ方(小太鼓)、おうど方(太鼓)の順に続く
- 行列の周囲にはボンデンをかざした世話役がおり、大宰領、太鼓宰領、かんこ宰領などの役がある
- 江戸時代にはこれらを諸士頭、諸士方と呼び、帯刀を許されていたとされる
- 「お船」は、尊氏からその御座船の型を使用することを許されたものと伝えられ、現在まで「観音丸」と呼ばれている
- 尊氏の家紋である二引両の金紋が付けられ、船内では鎧や弓、矢、刀などを歌い込んだ船歌も伝承されている
前記の通り、ここに鬼の役目は「悪魔祓い」であることが明記されています。
さらに面白いのは先述の絵馬に書かれていたこととの違いです。
絵馬は、浄土寺の十一面観音への信仰を中心に、足利尊氏の祈願や戦勝、その後の観音信仰の広がり、御開帳に伴う盛大な行事へと話が展開していました。
一方、この古資料は、吉和の人々が尊氏の水軍で船頭を務めたことから始まり、戦勝祝いの踊り、悪疫平癒のための奉納、さらに青鬼・赤鬼、お船、かんこ方、おうど方、大宰領、船歌など、吉和太鼓踊りそのものの由来と構成を詳しく説明しています。
簡潔にいうと、絵馬は浄土寺観音への信仰を中心に書かれているのに対し、この古資料は吉和の人々と吉和太鼓踊りを中心に書かれています。
これは「どちらが正しいか」という話ではなく、同じ伝承を扱いながらも、浄土寺を中心に見ると「観音信仰の物語」に、吉和を中心に見ると「太鼓踊りの物語」に見える、いわば両者は補完関係にあるというのが筆者の見立てです。
続いて長谷さんが持ってきてくださったもう一つの古資料に目を転じます。
下記がそれです(写真30参照)。
写真30

書かれている内容は、第一に、吉和太鼓踊りは、旧暦の7月18日に隔年で吉和町から浄土寺観音へ奉納される踊りであること、第二に、戦後、日本古来の文化遺産が失われることへの危機感が高まるなか、町内の識者や行政、関係者の協力によって保存活動が進められ、吉和踊保存会が結成されたこと、第三に、昭和40(1965)年10月には広島県無形文化財に選定され、小・中学生の若い世代も古老の指導を受けて技能を受け継いでいたことの三点です。
また一点目に関連して、「浄土寺年代誌に見えたる太鼓踊の記録」として一枚の写真が掲載されており、そこに「吉和躍 七月十八日 隔年 吉和組町人」と書かれた文字がはっきりと確認できます(写真31参照)*23。










































