呉のやぶ

呉の祭礼民俗、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

尾道取材記 吉和太鼓踊り

はじめに

 

昨夏のある日のこと、会社宛てに届いた郵便物の中に「蒼い風」*1という雑誌がありました。

中国電力が年二回、3月と7月に発行している刊行物です。

普段こうした雑誌を丹念に読むことはなく、この日もほんの十数秒、パラパラと誌面を捲っていただけだったのですが、あるページに目が留まりました。

そこに二匹の鬼と思しき姿が写った祭りの写真が載っていたのです。

著作権の関係でその写真そのものをここに掲載するのは控えますが、下記のリンクで当該雑誌の全ページが公開されているので、pp. 24-25を是非ご覧ください。

https://www.energia.co.jp/eneso/kankoubutsu/wind/pdf/vol113.pdf

最初に頭に浮かんだのは「焼山のやぶに雰囲気が似ている…」でした*2。

鬼の箇所だけをスマートフォンで撮影し、拡大してみると、画像が粗くはっきりとは確認できませんでしたが、二匹のうち一匹は特に似ているように見えました。

しかし記事によれば、この写真は尾道の浄土寺で行われている「吉和太鼓踊り」というもので、呉の祭りではありません。

そこでインターネットで吉和太鼓踊りを検索してみたところ、尾道観光協会のホームページに驚愕の写真が掲載されていました(写真1参照)*3。

 

写真1

許可を得て転載

 

そこに写っていたのは焼山西区で「カッパ」と呼ばれていた古面三面のうちの一面(写真2参照)と瓜二つの面だったのです。

 

写真2

昭和45(1970)年撮影

提供:神田征雄氏

 

「呼ばれていた」と過去形で書いたのは、当該三面が平成11(1999)年の祭りを最後にかれこれ30年近く出されていないからです(写真3参照)。

 

写真3

平成11(1999)年撮影

向かって右端の一番目と二番目が西区のカッパ

提供:堀口勝弘氏

 

ここで、「瓜二つ」であることがより分かるよう、カッパの当該面を可能な限り忠実に模刻した面*4と並べてみました(写真4参照)。

 

写真4

 

これは一体どういうことなのか。

そんな疑問を抱いたことが、吉和太鼓踊りを取材するきっかけとなりました。

結論を先取りすると、本稿執筆現在では謎の解明には至っておらず、取材を通じて新たな謎も生まれるなど、調査は未だ継続中です。

しかし「新たな謎」も含めて謎そのものが非常に興味深く、また取材を通じて吉和太鼓踊りそれ自体の面白さにも魅了されたので、ひとまず現時点で分かったこと、感銘を受けたことを記事にし、読者の皆さんに紹介することにしました。

以下、筆者が行った調査を追体験できるよう時系列にそって記述します。

 

とっかかり

 

前記の通り、吉和太鼓踊りは尾道の浄土寺で行われています。

そこで何の伝手も当てもありませんでしたが、まずは浄土寺を訪ねてみることにしました。

今年の3月のことです*5。

お守りなどが並んでいる授与所で吉和太鼓踊りについて伺いたい旨を伝えると、「あちらの寺務所でお尋ねになってみてください」と言われました。

そこで寺務所の呼び鈴を鳴らしてみると、住職さんらしき男性が出てこられたので、名刺を渡しながら「つかぬことを伺いますが…」と切り出し、単刀直入に尋ねました。

「吉和太鼓踊りには二匹の鬼が出ると聞いたのですが、鬼面を管理されているのはこちらのお寺でしょうか」と。

すると「吉和太鼓踊りで使うものは鬼面も含めて全て保存会が管理しています」と言われました。

「保存会」というのは前記の雑誌にも載っていた「吉和太鼓踊保存会」のことです。

また「詳しい話を聴きたいなら」という文脈で、森重彰文さんのお名前を教えていただきました。

記事の中でインタビューを受けていた保存会の相談役の方です。

加えて事務所の場所も教えてくださったので、次にそちらへと移動してみることにしました。

もちろん事務所に誰か常駐しているわけではないと言い添えられましたが、それでも行けば何か手がかりが得られるかもと思い、足を運んだのです。

すると事務所に着くよりも前に吉和八幡神社(幣多賀八幡宮)が視界に入ったので、先にこちらへ立ち寄ることにしました。

浄土寺でお話を伺った和尚さんから「吉和太鼓踊りの一行は吉和の神社から出発し、観音さまを御座船に乗せて浄土寺に奉納に参ります」と聞いており、その神社がここではないかと思ったからです*6。

ただ、残念ながら境内には人の姿がなく、手がかりになりそうなものは何も見当たらなかったため、参拝だけして神社を後にしようとしたところ、一人の男性から階段ですれ違いざまに「こんにちは。お参りですか」と声をかけられました。

これも何かのご縁と思い、浄土寺で吉和太鼓踊保存会の事務所の場所を教えてもらい、ここまで訪ねてきたこと、同保存会が管理しているという鬼面に興味を持っていること、浄土寺の和尚さんから森重さんが詳しいと伺ったことを話しました。

すると、「相談してみては」といった趣旨で、広島県議会議員の吉井清介さんのお名前を挙げてくださいました。

地元選出の県議さんで、保存会の顧問でもあり、森重さんとともに熱心に吉和太鼓踊りのお世話をされている、と。

これは有力な手がかりを得たと喜びつつ、また色々と事情にお詳しそうなので、名刺を差し出し、改めてご挨拶したところ、その男性は吉和八幡神社の宮司、浮田裕人さんでした。

詳しいはずです。

浮田宮司は「(吉井県議は)週末はこの近くにある実家のラーメン店、よしみや(尾道市沖側町)で仕事をしているので、今日行けば会えると思いますよ」とも言ってくださったのですが、さすがに今日この足でいきなりラーメン店を訪ね、鬼面についてあれこれと尋ねる勇気はなく、またそのための準備もできていなかったので、吉井県議とはその時点で頭に浮かんでいた「ある人」を介して後日、面談を試みることにしました。

その後も浮田宮司から、足利尊氏と縁の深い吉和太鼓踊りの謂れ(詳細後記)などをひとしきり聞かせていただき、いよいよ神社を後にしました。

保存会の事務所は「この階段を下りてすぐの右手にある」と宮司から伺っていたので、迷うことなく見つかりました。

神社とはまさに目と鼻の先です。

あいにく土曜日だからか、あるいは祭りの時期ではないからか、浄土寺で言われた通り、保存会の事務所には人の気配がなく、その日は場所を確認しただけとなりました。

その後、妻が運転席で待つ車へ戻る途中、先ほど浮田宮司が言われていたよしみやの暖簾が目に留まり、「ここがそうなのか」と確認し、尾道を後にしました。

 

吉井県議

 

吉和八幡神社で偶然、浮田宮司とお会いし、保存会の顧問を務めているという吉井県議のお名前を伺った瞬間、ある人を介せばこれはきっとたどり着けると思いました。

その「ある人」というのは筆者の地元、呉から選出されている県議会議員の神田隆彦さんです。

神田県議の顔が真っ先に頭に浮かんだのは、単に地元の県議さんだからといったありがちな理由ではありません。

尾道観光協会のホームページに載っていた鬼面の写真を目にした際の筆者の驚愕を同じレベルで共有できる県議さんだったからです。

どういうことかというと、神田県議は筆者と同じく生まれも育ちも呉の焼山東区で、若かりし頃は東の青年団の一員として「ガッソー」と呼ばれるやぶの面を被っていたということもあって、「尾道の鬼面が西のカッパの一面に酷似している」の一言だけで、たちどころに話が通じるという確信があったのです。

加えて神田家とは祖父の代から約60年にわたる付き合いがあったので、まさに「文脈を即座に共有できる近しい間柄の県議さん」ということで、吉井県議との橋渡しをお願いするにはこれ以上の相談相手はいないといっても過言ありませんでした。

そこで今年の6月のこと*7、とある会合で神田県議とご一緒する機会があったので、お顔を見かけるや否やこれまでの経緯を簡潔に話し、吉井県議に繋いでほしい旨を伝えました。

話が早いとはこのことです。

その二週間後には、神田県議の同席のもと、広島県議会の議会棟で吉井県議とお会いできることになりました*8。

議会棟に足を踏み入れるのはもちろん初めての経験です。

アポイントよりも少し早めの到着でしたが、受付で来意を告げると恐縮するほど広い応接に案内されました。

しばらくすると神田県議が入ってこられ、雑談をしながら、吉井県議が座る席の説明がありました。

当初は私と向かい合うように吉井県議と神田県議が座るものとばかり思っていましたが、神田県議によればいわゆる「コ」の字型に座り、吉井県議には中央の要の位置にお座りいただく、と。

なるほど、これが議会の世界の作法なのかと感心する一方、当選5期を重ねるベテラン県議さんとこれからお願い事で対面する緊張感が増してきました。

それから待つこと数分。

再び扉が開き、吉井県議が急ぎ足で入室され、神田県議からご紹介いただき、名刺交換をし、挨拶をしました。

お忙しい中、お時間を取ってくださったことへの謝意を伝えたのち、最初は仕事の話、尾道における共通の知人の話などで場が和んだところで、いよいよ本題に入ることになりました。

持参した資料は、大きく分けて⑴中国電力の刊行誌「蒼い風」、⑵尾道の鬼面と焼山・西のカッパの古面の比較写真、⑶筆者の自己紹介代わりとして用意した拙稿が掲載された「日本民俗学」二誌や企画展「やぶ展」のDMなどの三点です*9。

これらをもとに、①これまで14年にわたって呉の祭礼民俗「やぶ」を調査してきたこと、②そうした中、呉(焼山)の古面に酷似した尾道の鬼面の存在を知ることとなったこと、③でき得れば当該鬼面を祭り当日に一見物客として見るだけでなく、別日に実物を手に取って拝見したいこと、④吉和太鼓踊りにおける鬼の歴史について分かる範囲でお話を聞かせていただきたいことの4点をお伝えしました。

すると吉井県議は、先ほど筆者にくださったご自身の名刺の裏に祭り本番の日と、そこに至るまでの練習日を全て書き出し(写真5参照)、「練習は土日の朝8時頃からやっているから、そのとき見にきてもらうとその場に面もあるし一番良いかもよ」と言われました。

 

写真5

 

昨夏に雑誌で偶然「焼山のやぶ」似の鬼面を目にしてから11か月あまりが経ったこの日、ようやく実物を手に取って見る道が開けました。

また「見に来られる日はいつでも良いので、直前に私の携帯にお電話ください。それまでに私の方でちゃんと話を通しておきます」とおっしゃったので、この日のために用意した資料一式を渡そうとしたところ「このお名刺一枚で大丈夫です」と言われました。

なんと心強いことか。

そんな感嘆を覚えながら、次の予定がおありのようで足早に応接室を退出される吉井県議を神田県議とともにお見送りし、ほっと一息つきました。

その後、この場を設けてくださった神田県議にもお礼の意を述べ、人生で初めて足を踏み入れた議会棟を後にしました。

 

もう一つのお顔

 

吉井県議から練習は8月1日から始まると伺っていたので、言われた通りその前日に携帯に電話し、訪問する日程を相談したところ、8月8日に訪ねることになりました。

その際、あのあたりは車を停める場所がないので、当日までに駐車場所を確保しておくから、前日にもう一度お電話をください、と。

そこで改めて電話したところ、「朝の7時45分によしみや(吉井食堂)に車で来てください。そこから駐車場所まで案内します」と言われました。

「よしみや」というのは、浮田宮司から聞いていた吉井県議のご実家のラーメン店です。

当日、よしみやを訪ね、店内に入ると、すぐに吉井県議が出迎えてくださったのですが、目の前にいる方が吉井県議と分かるまで1、2秒ほど時間がかかりました。

というのも、そこに立たれていた男性は、頭にタオルを巻いたいかにも仕込み途中のラーメン店主にしか見えなかったからです。

言葉を選ばずにいうと、いわゆる「ラーメン屋の親父」です。

気付くのに僅かな秒数を要したこともあってか、吉井県議は笑いながら「この間会ったときと姿が違いすぎて驚かれたでしょう」と。

県議会議員になる前の市議会議員時代から、土日はずっとこの姿でラーメンの仕込みを行っているそうです。

ラーメン店を「営んでいる」とは理解していましたが、まさか仕込みからご自身でされているとは、議会棟でお会いしたときの印象からは全く想像しておらず、のっけから驚かされました。

その後、よしみやを出て、バイクで軽快に先導する吉井県議の後を追う形で駐車場所まで案内いただきました。

わざわざこの日の筆者のために吉和漁業協同組合の敷地内に車を置かせてもらえるよう手筈を整えてくださっていたのです。

車を停めてからは吉井県議について徒歩で練習場所まで向かったのですが、その道中、地元の方とすれ違うたびに気さくに会話をされていました。

その様子は県議さんと地元の方との会話というより、近所のラーメン店の店主と地元の方との会話といった方が自然に思えるほど気さくで、「森重さんとともに熱心に吉和太鼓踊りのお世話をされている」と言われていた浮田宮司の言葉が何となく腹に落ちました。

 

鬼面との対面

 

当初、練習場所というのは学校の校庭のような広い場所を勝手にイメージしていたのですが、それは筆者の思い込みで、吉井県議に聞くと「練習はイバで行っている」と言われました。

「イバって何だろう」と思いながらついて歩いていくと、保存会の事務所に着きました。

この目の前の広場が「イバ」だったのです(写真6参照)。

 

写真6

 

後日、分かったのですが、「イバ」というのは「射場」と書き、そこには「むかしの漁民は海賦(海賊)*10から身を守るためこの広場で弓矢の練習をしました」(吉和民俗資料保存会)との説明書きがありました(写真7参照)。

 

写真7

 

さすがかつて足利尊氏の九州攻めに際して瀬戸内の水先案内をしたという、吉和の漁民らしい歴史を背負った名称ですが、このあたりの話は後ほど詳述します。

さて、その射場に到着して最初に紹介されたのが保存会相談役の森重彰文さん。

中国電力の雑誌で取材を受けていた方で、浄土寺の和尚さんから「詳しい話を聴きたいなら」と名前が挙げられていた方です。

ようやくお会いできたという感慨に浸るのも束の間、すぐに事務所の中に案内され、保存会会長の水戸川秀美さんとご挨拶。

さらに赤鬼の鬼面を12年にわたって被ってきた長谷司さん、そして青鬼歴34年の長谷淳二さんもご紹介いただきました*11。

お二人の苗字が同じなのは互いに親戚だからですが、そもそも吉和太鼓踊りで鬼面を被ることができるのは代々、長谷家だけという不文律があるとの説明を受けました*12。

そして、「鬼」がれっきとした一つの役割であることを示すかのごとく、部屋の壁には「相談役 森重彰文」「顧問 吉井清介」「会長 水戸川秀美」の木札とともに、「赤鬼 長谷司」「青鬼 長谷淳二」と記された木札がかけてありました(写真8参照)。

 

写真8

 

一通り挨拶が終わると早速とばかりに、布に包まれた二枚の鬼面が長谷さん(赤鬼)によって奥から取り出され、いよいよ目の前に置かれました。

それとほぼ同時に筆者もこの日のために持参したある一枚のやぶの面を布袋から出し、尾道の二面のうちの一方の隣に並べるように置いてみました(写真9参照)。

 

写真9

 

置いた筆者本人からも、その場に居合わせた保存会の方々からも思わず「おー」と驚嘆の声が漏れました。

筆者が持参したのは前掲の焼山・西のカッパの古面を可能な限り忠実に模刻した面で、それと並べてみると、両者はサイズこそ違えどまるで双子と見紛うほど本当によく似ていたのです*13。

同じ広島県内といっても呉の焼山と尾道の吉和とでは距離にして約70キロメートルも離れています。

にもかかわらずこれだけ酷似した面が存在していることへの驚きが、保存会の人たちと共有された瞬間でした。

その一方で「あれ…? 尾道観光協会の写真と少し違う…」と思った点が一つありました。

それは色です。

写真で見た面は鼻をはじめあちらこちらに積年の傷があり、面の色合いからして「いかにも古面」といった印象だったのですが、目の前にある鬼面は一見したところ傷跡が見当たらず、色も写真のそれよりも明らかに濃いのです(写真10参照)。

 

写真10

 

この点について後日、長谷さん(赤鬼)に尋ねたところ*14、「10年ほど前に仏壇店から(仏壇や仏具の修復などに使う)カシューを分けてもらい私が塗りました」とのことで、印象の違いは上塗りによるものであると確認できました。

このことから尾道観光協会の写真は、長谷さんが上塗りをされる以前に撮られたものであろうことが分かりました。

また青鬼の方も赤鬼と同じように上塗りされているように見えたので、こちらも同時期に長谷さんが塗られたのか確認したところ、「風雨に打たれてボロボロになっていた」ため上塗り補修をされたとのことでした(写真11参照)。

 

写真11

 

実際、青鬼の面は赤鬼の面以上に上塗り後も傷がはっきりと残っており、眉から鼻、顎にかけて割れやヒビの痕跡が表からも裏からも確認できます(写真12参照)。

 

写真12

 

ちなみに面の色は赤鬼も青鬼も同じ赤系なのに、なぜ後者は「青鬼」と呼ぶのか聞いてみたところ、それは衣装の色が青系だからだそうです。

一つ素朴な疑問が解けました。

興味深いのはこの両面の裏側です。

上塗り補修した表側と対照的に、古色蒼然とした風合いが今なお残っている裏面は、いずれも縦方向の荒彫り跡がはっきりと見られる特徴的な仕上げで、「同じ人が彫ったのでは」という想像さえ喚起します(写真13参照)。

 

写真13

 

さらにこの日最も興味深かったのは、この青鬼の面も呉のある古面とよく似ている点でした。

青鬼に関してはインターネット上にそれらしき画像が見当たらず、中国電力の刊行誌でしか写真を見ることができなかったのですが、いかんせん画像が粗いため、雰囲気しか掴めていなかったのです。

しかし実物を目の前にした瞬間、確信を持つことができました。

間違いない、と。

下記の写真14は、その呉のある古面*15と並べて比較したものです。

 

写真14

 

角と歯の数などに違いはあるものの、これまた瓜二つではないでしょうか。

つまり、尾道の鬼面は赤鬼だけでなく青鬼までもが呉の古面と酷似していたのです。

しかも両面の裏側を並べてみると、これまた彫りの特徴がよく似ているのです(写真15参照)。

 

写真15

 

これだけ呉の古面と似ているとなると、その製作年代に加え、どこで作られた面なのかも気になるところです。

呉なのか、尾道なのか、あるいはそのどちらでもないのか*16。

その点は残念ながら保存会の関係者の方々もご存じないとのこと。

いずれにせよ「昔から(この面が)使われていたと聞いている」そうですが、「昔」というのが具体的にいつなのかは分からない、と。

そこでこの鬼面が写った古い写真があれば見せていただけないかお願いしたのですが、あいにく吉和太鼓踊りでは鬼よりも踊り手の方が注目を浴びるため、そもそも鬼を被写体に写真を撮るということがあまりないらしく、その場では「うーん…どうだろうか…」という反応でした。

ただその一方で、「鬼(それ自体)は江戸時代から出ている」といった話も出ました。

聞くと、浄土寺の宝物殿に江戸期の吉和太鼓踊り奉納の様子を描いた絵馬があって、そこに鬼が描かれているそうなのです。

つまり今ここにある面がいつから使われているのかは別として、吉和太鼓踊りに鬼を出す風習自体は少なくとも江戸時代にはあったということです。

そこに筆者が強く興味を示したためか、森重さんは吉井県議に「今から浄土寺に行って見せてもらえないか住職に頼んでみては」と提案したのですが、「今から!? うーん…どうだろう…さすがにこればっかりは私も手形を切れない(確約できない)ですよ…」と躊躇されている様子でした。

そんなやり取りの最中、長谷さん(赤鬼)がおもむろに「これが鬼の髪です」と紙に包まれた赤鬼と青鬼の二組の髪を奥から出してきて目の前に広げました(写真16参照)。

 

写真16

 

長谷さんによれば「人毛でしょう」と*17。

そしてさらに「これは使っていませんが、髪はもう一つあります」と言いながら、もう一組の髪を取り出してきました。

やたらと古そうな新聞に包まれたそれは先ほどの髪よりも一段と長く(写真17参照)、何よりも驚いたのはその新聞の日付が昭和21(1946)年12月17日だったことです(写真18参照)。

 

写真17

 

写真18

 

道理で古いわけです。

終戦から僅か1年4か月ほどしか経っていない当時の日本の食糧問題や経済・産業復興、国際政治などを報じた中国新聞に鬼の髪が包まれていたのです。

もちろんこのことをもってこの髪の製作年が昭和21(1946)年以前のものであるとか、はたまた前記の二枚の鬼面がそれ以前に彫られていたと結論づける直接の証拠にはなり得ませんが、今から80年前もの新聞に吉和の鬼の髪が包まれていたという目の前の現実は、当地の鬼が「そんじょそこらのもの」とは歴史が違うことを雄弁に物語っています。

なにせ実際、江戸時代の絵馬に鬼が描かれているわけですから。

そうした中、森重さんが吉井県議に「やはり住職に電話して、絵馬を見せてもらえるよう頼んでみよう」と再度もちかけ、自ら住職に電話をかけてくださいました。

そしてしばし住職と話されたのち、途中で吉井県議に携帯を渡されたのです。

電話を受け取った吉井県議はこの展開に若干戸惑われながらも住職に対し筆者のことを指して「人物は保証します」と言ってくださり、その甲斐あってか見せてもらえることになったようで、電話で話を続けながら指でOKサインを筆者に出されました。

丁重にお礼を言い電話を切ったあと、吉井県議も思いがけず良いお返事をいただけたことに喜ばれていました。

ただ吉井県議はこれからラーメン店の仕事があるので、浄土寺には一緒に行けないとのこと。

そこで森重さんと長谷さん(赤鬼)と一緒に浄土寺に向かうことになったのです。

 

絵馬

 

保存会の事務所を後にし、浄土寺には筆者の運転する車で移動することになったのですが、長谷さんは一旦自宅に寄られるとのこと。

そこで森重さんに助手席に乗ってもらい、長谷さんのご自宅付近まで道を案内していただき、そこで合流することになりました。

待つこと数分。

ルームミラー越しに長谷さんの姿が見えたのですが、なにやら手に持っておられます。

合図を送り、後部座席に乗っていただくと「昔の写真が自宅にありました」と。

思いもかけなかった一言に胸が躍ったものの、いかんせん運転する身なので、すぐにその場でじっくりと額に入った写真を見ることができず、はやる気持ちを押さえながら浄土寺に着いてからゆっくり拝見することにしました。

吉和地区から浄土寺までは約5キロメートル。

車で10分あまりの移動を経てようやく浄土寺に到着したものの、写真の件は後ほどとし、まず寺務所に足を運び、森重さんとともに住職*18のところへご挨拶に伺いました。

出てこられた住職のお顔を拝見し、すぐに分かりました。

5か月前に何の当てもなくいきなり浄土寺を訪ねた際に、鬼面を管理しているのは保存会であることや、保存会の事務所の場所、吉和太鼓踊りに詳しいのは森重さんであることを教えてくださった和尚さんだ、と。

改めて名刺を差し出し、この度の急なお願いにご対応いただいたことへの感謝を伝えたところ、「もう(宝物殿の)鍵は開けてますから。写真も撮ってもらって構いませんから」とおっしゃっていただきました。

過分なまでのご配慮に重ねて感謝しつつ、早速、森重さん、長谷さんとともに宝物殿の中へと入りました。

宝物殿は二階建てになっていて、迷わず二階に上がるお二人についていくと、件の絵馬はそこにありました(写真19参照)*19。

 

写真19

 

ここに来るまでは「鬼も描かれた絵馬」といった漠然としたイメージしか持てていなかったのですが、最初に目にしたとき、まずそこに描かれた吉和太鼓踊りの壮大さ、荘厳さに目を奪われました。

大勢の人々がひしめき合って太鼓を打ち鳴らす熱量や音量が伝わってくるようで、しばし絵全体を見入りました。

すると長谷さんが「鬼はここにいますよ」と教えてくれ、そこに目を向けると確かにいました。

紛れもなく赤鬼が一匹描かれています(写真20参照)。

 

写真20

 

そして絵馬に書かれた文章の末尾には『此圖畫傳記ハ嘉永元年戊申三月奉掛 法橋永春畫伯の筆也』とあります(写真21参照)。

 

写真21

 

意味は「この図画と伝記は、嘉永元年戊申の年の三月に奉納して掲げられたもので、法橋永春画伯の筆によるものです」。

嘉永元年というのは西暦でいうと1848年です。

ペリーが浦賀に来航する5年前で、まだ日の本が「泰平の眠り」から覚める前の時代に既に吉和には鬼がいたのです*20。

また額の右端には『嘉永元年戊申二月吉日』の文字が確認できます(写真22参照)。

 

写真22

 

「嘉永元年戊申」と年は同じですが、前者は三月で後者は二月と記されていることから、二月に描かれた絵馬が、その翌月の三月に奉納されたのかもしれません。

その一方で、絵馬の左端には『昭和三年戊辰晩冬寫并傳 八十翁 翠峰掘梥』と書かれているように見えます(写真23参照)。

 

写真23

 

「昭和3(1928)年戊辰の晩冬に、八十歳の翁が写して伝えた」というのがその意味するところで、その人物は尾道市の資料では「堀田翠峰」とされています*21。

つまり今から約180年前の嘉永元(1848)年に奉納されたものを、約100年前の昭和3(1928)年に模写したのが目の前の絵馬ということです。

なお、以下は絵馬に記された文章の大意を現代語でまとめたものです。

 

(現代語大意)

浄土寺の十一面観音は、聖徳太子の作と伝えられる霊験あらたかな仏であり、古くから人々の篤い信仰を集めてきた。南北朝時代、足利尊氏は戦乱のなかで九州へ向かい、浄土寺の十一面観音に戦勝を祈願した。その後、筑前の多々良浜の戦いなどで勝利を収め、再び大軍を率いて東へ向かった。尊氏の軍勢は、多数の武将・兵士と数多くの軍船からなる大規模なもので、瀬戸内海を進んだ。その途上でも浄土寺の観音への信仰と祈願があり、その加護によって戦いに勝利したと伝えられている。こうした足利氏と浄土寺の関係はその後も語り継がれ、尊氏やその一族・関係者は観音を篤く信仰した。海上を往来する人々や地域の人々の間にも、浄土寺の観音に対する信仰が広がっていった。また、戦乱や疫病など人々を苦しめる災厄に際しても、観音の霊験によって救いを求める信仰が続いた。そして、浄土寺の観音の御開帳には多くの人々が集まり、行列をつくり、太鼓や鉦などを伴う盛大な行事が行われるようになった。

 

絵馬はまさに「盛大な行事」となった江戸後期の吉和太鼓踊りを活写したものです。

 

古写真

 

ひとしきり絵馬を見入ったところで、いよいよ長谷さんが自宅で探し出してくださった古写真二枚をじっくりと拝見することになりました。

一枚目は撮影年不明の白黒写真です(写真24参照)。

 

写真24

 

鬼面を被っているのは長谷さんの祖父にあたる方です。

明治25(1892)年頃の生まれで、80代前半まで赤鬼を務めたそうです*22。

なにぶん明治生まれの方なので、写真に写ったお顔から当時の年齢を推定するのは難しいですが、仮に40歳だとすると昭和7(1932)年。

50歳だとすると昭和17(1942)年。

60歳だとすると昭和27(1952)年ということになります。

鬼面を額の上に上げているため、現在使用しているものと同一かどうかを確認するのは難しいですが、写っている範囲の彫りの輪郭は同じようにも見えます(写真25参照)。

 

写真25

 

続いて二枚目は二匹の鬼が写ったカラー写真です(写真26参照)。

 

写真26

 

長谷さんによれば吉和太鼓踊りが広島県無形文化財に指定された昭和40(1965)年頃の写真ではないか、と。

また向かって左の赤鬼が長谷さんの祖父で、仮に昭和40(1965)年頃だとすると当時73歳くらいという計算になります。

鬼面については赤鬼、青鬼ともに浄土寺に来る前に見せてもらった現在の使用面と比較すると、造形上の一致は明瞭で、同一とみて間違いないでしょう(写真27、並びに写真28参照)。

 

写真27

 

写真28

 

撮影年の見立てが正しければ、約10年前に上塗り補修が行われたときからさらに半世紀ほど前の鬼面の色合いを、この写真で確認できるということになります。

衣装についても、赤鬼、青鬼と呼ばれる所以が分かる色彩であったことが見て取れます。

また鬼の背後に写る見物客の多さは先に見た絵馬の「昭和版」のようでさえあります。

さて、実は長谷さんは古写真だけでなく、いかにも古びた資料を二種、自宅から持ってきてくださっていました。

その一つが下記です(写真29参照)。

 

写真29

 

制作年や印刷年がどこにも見当たりませんが、掲載されている写真などからして戦後に制作されたものではないかと思われます。

ここに書かれている内容の要約は以下の通りです。

 

(要約)

  • 建武3(1336)年、足利尊氏が九州へ向かう途中、浄土寺観音に戦運挽回を祈願した
  • その際、尊氏の水軍で船頭を務めたのが吉和の人々であり、数々の功績を挙げたと伝えられている
  • 同年5月、東上する尊氏が再び浄土寺へ参詣し、吉和の人々に厚く賞賜した
  • これを喜んだ人々が戦勝祝いの踊りを踊って尊氏の東上を祝ったことが、吉和太鼓踊りの起こりとされている
  • その後、悪疫が流行した際には、浄土寺観音に平癒を祈ってこの踊りを奉納したこともあり、一時中絶しながらも伝承されてきた
  • 踊りの行列は「お船」を先頭に、悪魔払いの青鬼・赤鬼、先払いの奴、かんこ方(小太鼓)、おうど方(太鼓)の順に続く
  • 行列の周囲にはボンデンをかざした世話役がおり、大宰領、太鼓宰領、かんこ宰領などの役がある
  • 江戸時代にはこれらを諸士頭、諸士方と呼び、帯刀を許されていたとされる
  • 「お船」は、尊氏からその御座船の型を使用することを許されたものと伝えられ、現在まで「観音丸」と呼ばれている
  • 尊氏の家紋である二引両の金紋が付けられ、船内では鎧や弓、矢、刀などを歌い込んだ船歌も伝承されている

 

前記の通り、ここに鬼の役目は「悪魔祓い」であることが明記されています。

さらに面白いのは先述の絵馬に書かれていたこととの違いです。

絵馬は、浄土寺の十一面観音への信仰を中心に、足利尊氏の祈願や戦勝、その後の観音信仰の広がり、御開帳に伴う盛大な行事へと話が展開していました。

一方、この古資料は、吉和の人々が尊氏の水軍で船頭を務めたことから始まり、戦勝祝いの踊り、悪疫平癒のための奉納、さらに青鬼・赤鬼、お船、かんこ方、おうど方、大宰領、船歌など、吉和太鼓踊りそのものの由来と構成を詳しく説明しています。

簡潔にいうと、絵馬は浄土寺観音への信仰を中心に書かれているのに対し、この古資料は吉和の人々と吉和太鼓踊りを中心に書かれています。

これは「どちらが正しいか」という話ではなく、同じ伝承を扱いながらも、浄土寺を中心に見ると「観音信仰の物語」に、吉和を中心に見ると「太鼓踊りの物語」に見える、いわば両者は補完関係にあるというのが筆者の見立てです。

続いて長谷さんが持ってきてくださったもう一つの古資料に目を転じます。

下記がそれです(写真30参照)。

 

写真30

 

書かれている内容は、第一に、吉和太鼓踊りは、旧暦の7月18日に隔年で吉和町から浄土寺観音へ奉納される踊りであること、第二に、戦後、日本古来の文化遺産が失われることへの危機感が高まるなか、町内の識者や行政、関係者の協力によって保存活動が進められ、吉和踊保存会が結成されたこと、第三に、昭和40(1965)年10月には広島県無形文化財に選定され、小・中学生の若い世代も古老の指導を受けて技能を受け継いでいたことの三点です。

また一点目に関連して、「浄土寺年代誌に見えたる太鼓踊の記録」として一枚の写真が掲載されており、そこに「吉和躍 七月十八日 隔年 吉和組町人」と書かれた文字がはっきりと確認できます(写真31参照)*23。

 

写真31

 

前掲の資料と違って、昭和40(1965)年の県無形文化財選定といった具体的な年代への言及もあることから、それ以降に制作・印刷されたものであることが分かります。

また前者は吉和太鼓踊りの「由来・構成」を、後者は「保存・継承」を説明した資料ともいえるでしょう。

 

屏風

 

こうしてかれこれ30分近くを宝物殿で過ごしたのち、住職にお礼を言いに再び寺務所に戻ると、「まあ、良かったらどうぞ。後で(私も)入りますから」と奥の一室に通してくださいました。

絵馬を見せていただけただけでもありがたかったのに、お茶までお出しいただき、恐縮しっぱなしでした。

しばらくすると住職が入ってこられ、重ねてお礼を申し上げたあと、少しばかり雑談を交わしていると、おもむろに住職が立ち上がり、大きな屏風図を持ってこられました(写真32参照)*24。

 

写真32

 

奇しくも約二か月前に参加した尾道に関するとあるツアー兼勉強会*25においてスライド上で拝見したものと全く同じだったので、これが江戸時代の尾道を描いた絵屏風だとすぐに分かりました。

というよりも今、目の前にあるのがその「実物」だったのです。

あとで知ったのですが、これは「紙本著色尾道絵屏風」と呼ばれる尾道市重要文化財で*26、江戸時代中期、安永3(1774)年の尾道が細やかに描かれています。

安永3(1774)年というと老中、田沼意次が幕政の実権を握っていた頃で、前記の絵馬よりもさらに74年も前に遡った時代です。

そんな時代から尾道が港町としてかくも繁栄していた様子が見て取れます。

屏風には尾道水道に浮かぶたくさんの船、ひしめくように建てられた家屋に加えて、実に多くのお寺が描かれています。

多数の古寺が点在する「寺の町」としても有名な尾道の一面がこの絵屏風からも伝わってきます。

細部に目を凝らすと、向かって左に千光寺、中央に西國寺と思しきお寺が確認でき、さらに右に転じるとここ浄土寺の姿が克明に描かれています(写真33参照)。

 

写真33

 

そもそもこの浄土寺、創建は飛鳥時代の推古天皇24(616)年で、聖徳太子によって開基されたと伝えられています。

今から約1400年前、大化の改新の約30年前という、そんな時代から浄土寺がこの地に存在していた歴史の圧倒的な重みを感じずにはいられません。

境内の本堂と多宝塔、そして境内一帯も国宝に指定されています(写真34、並びに写真35参照)*27。

 

写真34

 

写真35

 

ところで、この屏風図の浄土寺を眺めていて、現在とは大きく異なる点に気づきます。

現在は浄土寺へと続く階段の途中でJR山陽本線の高架下をくぐるのですが、屏風の時代は江戸中期なので当然まだ鉄道は敷設されておらず、本堂へと続く長い石段を遮るものが何もなかったのです*28。

そのため鉄道敷設後は、奉納一行の先頭をゆく御座船「観音丸」は、高架下を通過できるサイズへの制約を免れなかったそうです。

言い換えると、既掲の絵馬に描かれていた嘉永元(1848)年当時のお船は、まだそうした制限を受けていなかったということになります(写真36参照)。

 

写真36

 

もっとも、この時点で筆者は現在使われている観音丸の実物をまだ見ておらず、それを実際に目にするのは、9日後の祭り前夜のことです。

さて、気がつくと浄土寺を訪ねて既に1時間半が経過。

当初は絵馬に描かれた鬼を確認するだけのつもりだったのが、絵馬全体から滲み出る江戸期の太鼓踊りの壮大さや荘厳さ、そして屏風図を通して感じた浄土寺という歴史的舞台の比類なき大きさ、さらには長谷さんが持参してくださった古資料に綴られていた吉和太鼓踊りの由来にも濃密に触れたことで、筆者の関心はもはや「焼山のやぶに酷似した鬼面」に留まらず、来る8月18日に目にするであろう「全て」に広がっていました。

そうした高揚感を抱きながら、住職にお礼を言い、寺務所を辞去しました。

その際、駐車した車のすぐ側に立っていた石碑に目が留まりました(写真37参照)。

 

写真37

 

そこに刻まれていた文字は「廣島縣無形文化財 社団法人 吉和太鼓踊保存会之碑 昭和四十年十二月十五日」。

なるほど、先ほど二枚目の古写真を前に長谷さんが話されていたのはこのことか、と。

そんなことを考えながら、浄土寺を後にし、森重さんと長谷さんを保存会事務所の近くまでお送りし、吉和を発ちました。

 

前夜

 

吉和太鼓踊りは、かつては旧暦の7月18日に行われていましたが、現在は隔年で8月18日に行われています*29。

隔年というのは西暦の偶数年で、今年(2026年)がその当たり年でした。

また開催月こそ旧暦の7月から新暦の8月に変われど、毎月18日は観音菩薩の縁日です。

浄土寺で見た絵馬に、足利尊氏による浄土寺での戦勝祈願やその後の観音信仰の広がりが綴られていたので、今なお曜日とは関係なく「観音さまの日」である18日に太鼓踊りが行われているのは筆者としては至極納得です。

当日のスケジュールについては、8月8日の取材時に吉井県議から4年前の令和4(2022)年の行程が書かれた用紙をいただいていたので(写真38参照)、それを参考に朝8時から射場で始まる踊りから同行・見物するつもりでいました。

 

写真38

 

ただ、鬼面を見せていただいた日に何人かの方から「前日の8月17日夕方はせいぞろいがある」と聞き、元々前泊する予定だったので、せっかくならその「せいぞろい」なるものも見てみたい旨を吉井県議に前もって電話でお伝えしました。

その結果、17日の夕方5時を目安に射場を訪ねることになりました。

その日、行ってみてはじめて分かったのですが、「せいぞろい」は「勢揃い」のことで、文字通り、太鼓踊りに関わる全ての役の人が揃い、射場、吉和恵比須神社、吉和漁協の順に太鼓踊りを行って回ることを指し、そう呼んでいるそうです。

保存会の水戸川会長によれば、本来は本番の日と同じ装いで行うものらしいのですが、いかんせんこの暑さなので、衣装を着込むのは今年は当日のみということに決めたそうです。

ただ実際は子どもたちのうちの何人かは衣装を纏っており、翌日の本番さながらの雰囲気で勢揃いの場に臨んでいました(写真39参照)。

 

写真39

 

踊りが終わると、保存会の事務所内に案内され、そこで明日の本番を待つ鬼面が置かれていました(写真40参照)。

 

写真40

 

あと半日あまりもすれば、長谷さんたちがこれを被り、鬼面が鬼へと変容します。

また事務所の外には御座船も明日の「出航」を前に静かに佇んでいました(写真41参照)。

 

写真41

 

ところで、この「御座船」に張られた幕には二つの紋があります。

そのうちの一つは、円の中に二本の線が引かれています。

これは足利家の家紋で、「二引両(ふたつひきりょう)」と呼ばれています。

尊氏の九州攻めに際し瀬戸内の水先案内をした吉和の漁民に、その恩賞として尊氏の御座船の型を漁船に用いることが許された、つまり、その型の船であれば瀬戸内一円で漁をすることを認められたという伝承が吉和にはあります。

今でいう漁業権のようなもので、筆者はこの話を保存会の関係者の方々だけでなく、3月に吉和八幡神社で偶然お会いした浮田宮司からも聞いていました*30。

二引両の紋をあしらったこの観音丸は、単に「尊氏の船を模した祭礼道具」なのではなく、そうした伝承を可視化する象徴でもあるのかもしれません。

また同じく3月に浄土寺ではじめて住職にお会いした際、「吉和太鼓踊りの一行は、吉和の観音さまを御座船に乗せて浄土寺に参る」と聞いていたので、筆者はてっきり、その「観音さま」とは保存会の事務所に隣接する阿弥陀寺に安置されている観音像のことで、それを御座船に乗せるものとばかり思い込んでいました。

そのため勢揃いの日は同寺も参拝したのですが(写真42参照)、それは全くの事実誤認で、御座船に乗せる観音像は保存会が事務所で管理しているものであることを、この日、現地で知るところとなりました。

 

写真42

 

そうして一つ認識を改めた後、射場から歩いて数分もかからない恵比須神社へと場所を移しました。

そしてそこでの踊りも見届け、一行とともに吉和漁協へ移動する途中、この日は一行と別れました。

 

挨拶

 

いよいよ迎えた本番の日。

この日も前日に続いて吉井県議のお取り計らいで吉和漁協に車を停めさせていただき、朝の7時40分頃に射場を訪ねました。

これまでお世話になった保存会の関係者の方々と言葉を交わしながら、始まりを待っていると、最初に水戸川会長から主に子どもたちに向けて今日一日の安全を願うご挨拶がありました。

続いて保存会相談役の森重さんからも子どもたちに挨拶がありました。

内容は吉和太鼓踊りの歴史的伝承を子どもたちに分かりやすく伝えるもので、始まりは建武3(1336)年に遡るとされ、その歴史は今年で690年に及ぶこと。

そうした歴史の重みを感じながら、10年後に迎える700年の節目を目指し、しっかりと嗣いでいって欲しいといったものでした(写真43参照)。

 

写真43

 

なお、吉和太鼓踊りの起源を建武3(1336)年とする伝承は、先述の尊氏から得た恩賞に対するお礼として「鉦・太鼓で踊りながら、尊氏軍を鞆まで送ったのが始まり」と令和4(2022)年の行程が記載された用紙にも書かれていました*31。

そして森重さんの次に子どもたちに挨拶をしたのが青年部の部長で、その冒頭、筆者自身が驚く言葉が発せられました。

それは「これは祭りではありません。奉納です。だからねじり鉢巻きにしてないんです。僕らは700年の歴史を背負って奉納するんです」と(写真44参照)。

 

写真44

 

この言葉を聞くまで筆者は吉和太鼓踊りを何の疑いもなく「祭り」と認識していたので、青年部長の言われたことを理解するのにしばし時間を要しました。

その後の挨拶でも「自分たちがやっているのは『奉納』なんです。そこをよく理解しながら行ってください」と強調するように語っていました。

「祭りではなく奉納」の真意は一体何だったのか。

そんなことを考えながら、浄土寺までの同行がここ、射場から始まりました。

 

吉和地区

 

前日の勢揃いの日も太鼓踊りを見ましたが、きちんと全体を通しで見るのはこの日が初めてです。

踊りは、赤鬼が梵天(ぼんでん)と呼ばれる色鮮やかな房状の飾りの付いた棒を持って半円を描くような動きとともに始まりました(写真45参照)。

 

写真45

 

前日とうってかわってこの日は全員が揃いの衣装を纏っており、鉦や太鼓の音に「ヤア」「ハア」のかけ声も重なって*32、昨日以上に勇壮な踊りに見えます(写真46参照)。

 

写真46

 

水戸川会長のお話では、元々、吉和太鼓踊りは吉和の漁師によって担われてきたそうです。

先に見た通り、足利尊氏の九州攻めに際し瀬戸内の水先案内をした吉和の漁民に対する恩賞として、尊氏から御座船の型を漁船に用いることが許され、そのお礼として鉦や太鼓で踊りながら、尊氏軍を鞆まで送ったというのが吉和太鼓踊りの起源と言い伝えられているくらいなので、「漁師によって担われてきた」というのは至極納得です。

もちろん今の時代、昔のように皆が皆、漁師というわけではないでしょうが、例えば水戸川会長もご本人は漁業には従事していないものの、祖父や父が漁業に関わっており、小学2年生の頃から77歳の今年に至るまで約70年間、太鼓踊りに関わってきたそうです。

また、今の太鼓踊りに参加している子どもたちは、吉和小学校の児童と吉和中学校の生徒とのことなので、先ほど森重さんが子どもたちに向けて語っていた「歴史の重みを感じながら、しっかりと嗣いでいって欲しい」には、「漁師の太鼓踊り」から「地域で継ぐ太鼓踊り」への変化を踏まえた思いが籠っていたのかもしれません。

その太鼓踊りですが、保存会の方のお話では、全体が約14分におよぶ長尺版と、それよりも短いバージョンがあり、発地である射場での踊りは浄土寺でのそれと同じ長尺版で行うと聞きました。

射場での踊りが終わると、同じ吉和地区内の恵比須神社へ場所を移し、そこでも約14分の踊りが披露されました。

それにしてもこれだけの衣装を着込んで14分にわたって踊り続ける、それもこの暑さです。

この日の尾道市は最高気温が30℃を超える真夏日でしたが*33、晴天のもとで直射日光を浴びながら踊るため、体感温度はそれ以上だったことでしょう。

そのため三か所目の吉和漁協に移動してからはしっかりと休憩時間が取られ、大人も子どもも十分な水分補給を行った上で、14分の踊りが行われました(写真47参照)。

 

写真47

 

長尺版の踊りは浄土寺を除くとここまでです。

これより先は吉和地区を出て、尾道本通り商店街を練り歩きます。

ただし、吉和漁協から商店街までは約3キロメートル、徒歩だと約40分かかるため、一行はあらかじめ用意されたバスで近隣まで移動します(写真48参照)。

 

写真48

 

一方、御座船はトラックの荷台に乗せて運ばれます(写真49参照)。

 

写真49

 

練り歩き

 

尾道本通り商店街の入り口から一行の練り歩きが始まりました(写真50、並びに写真51参照)。

 

写真50

 

写真51

 

平日とはいえ、商店街ということもあって、道中で太鼓踊りを披露すると、そこに居合わせた人たちからの注目も集まります。

中には訪日外国人もいて、筆者の隣で練り歩きを見物していた二人組の女性からスマートフォンの翻訳機能を使って「これは何の行列ですか?写真を撮っても大丈夫ですか?」と聞かれ、「吉和太鼓踊りと言って、この先の浄土寺を目指して巡行しています。写真は撮っても大丈夫ですよ」と答える一幕もありました。

聞けば台湾からの旅行客で、期せずして遭遇した日本の民俗行事を食い入るように見入っていました。

また二引両の紋が入った白い法被姿の吉井県議は、鬼が背中に付けているものと同じ形状をした紅白の装具を手にし(写真52参照)、一行が練り歩く途中、商店を営む地元の方々の肩を軽く叩いて回っていました。

 

写真52

 

どうやら縁起物のようです。

商店街でも途中休憩をはさみます。

休憩中、目に留まったのは太鼓を叩く道具です。

聞くと、「おうど」と呼ばれる大太鼓を叩く道具をバチ、「かんこ」と呼ばれる小太鼓を叩く道具をブチ(写真53参照)と呼ぶそうです。

 

写真53

 

休憩を挟んだのち、一行は練り歩きを再開。

尾道郵便局の前あたりで再び休憩を取り(写真54参照)、そこから二手に分かれました。

 

写真54

 

鬼もその二手に分かれ、どちらに付いていくべきか一瞬迷いましたが、吉井県議の薦めもあってより人数の多い青鬼側の一行に同行することにしました。

すると商店街から海側の海岸通りへと進路を変え、令和4(2022)年の行程表にも記載のあった某社の一階駐車場で太鼓踊りが披露されました(写真55参照)。

 

写真55

 

その後、海岸通りを東に進み、尾道市役所へと移動。

そこで赤鬼側の一行とも合流し、市役所の玄関前で踊りが始まりました(写真56参照)。

 

写真56

 

そこにはテレビカメラも撮影に来ていて、改めて注目度の高さを感じました。

市役所を出ると、東へと移動を再開(写真57参照)。

 

写真57

 

そして尾道漁業協同組合でまとまった休憩時間が取られました(写真58参照)。

 

写真58

 

休憩中、自動販売機でお茶を買おうとしたところ、保存会の方から「これを飲んでください」と一行のために用意されたお茶を薦められました。

筆者は同行し、取材をさせてもらっている身に過ぎないので遠慮したのですが、「まあそうおっしゃらず」と言われ恐縮しながらもありがたく頂戴しました。

そんな一幕があった傍らでは、水戸川会長や森重さんがメディアの取材を受けていました。

翌日の中国新聞に掲載された吉和太鼓踊りの記事に「何歳になってもこの日が楽しみ。続けてほしい」と水戸川会長のコメントが載っていましたが、その言葉はこの場で発せられたのかもしれません。

いただいたお茶で喉の渇きを癒すと、数年前に新調されたという御座船を前から後ろからとじっくりと見させていただきました(写真59、並びに写真60参照)。

 

写真59

 

写真60

 

御座船の左前方には鬼が背中に付けているものと同じ形状で色違いの装具が見られ、また前方正面には厨子が据えられています。

その中に安置されているのが、保存会の観音像です(写真61参照)。

 

写真61

 

御座船の幟に「十一面観世音菩薩」とあるので、おそらくこの像は十一面観世音菩薩なのでしょう。

実際そのような造形をしています。

そうこうしているうちに休憩も終わり、浄土寺に向けて歩みを再開しました(写真62参照)。

 

写真62

 

ここまで来ると浄土寺下までもう200メートルもありません。

いよいよです。

 

浄土寺

 

浄土寺下まで来ると、あとは山門へと続く80段の石段を上がればそこはもう境内です。

御座船を担ぐのは「お船方*34」「船歌方」と呼ばれている役の方々で、尾道漁協の方々もお手伝いくださっているそうです(写真63参照)。

 

写真63

 

途中、明治期に敷設された鉄道の高架下をくぐる必要があり、御座船にとってここは「難所」かもしれません(写真64参照)。

 

写真64

 

御座船を先頭とする一行は石段を後ろ向きにゆっくりと上がっていきます(写真65、並びに写真66参照)。

 

写真65

 

写真66

 

後ろ向きに上がるのは海側からの敵の襲来に備えるためだそうで、それを聞くと、この太鼓踊りが足利軍の訓練を模したものだという言い伝えにも、なるほどと頷けます。

しかしそれにしてもここは吉和太鼓踊りを紹介する記事で必ず取り上げられるシーンのせいか*35、ただでさえ階段幅が狭い中、一行の邪魔にならないよう不安定な姿勢で写真を撮ろうとする人が多く、筆者も位置取りに苦労しました。

一行が石段を上がりきったところで、御座船の先端に据えられていた厨子が下ろされ、浄土寺の本堂へと運び込まれました(写真67参照)。

 

写真67

 

足利尊氏も参拝したとされる秘仏、十一面観音菩薩像*36をご本尊とする浄土寺。

その本堂に寺外で管理されている吉和の観音さまが安置されるというのは、想像するに決して一般的なことではないように思えます。

それがここでは、ごく自然なことのように行われていました。

厨子が本堂へと移されると、それが一つの合図だったかのように赤鬼が梵天で半円を描き、浄土寺の太鼓踊りが始まりました(写真68参照)。

 

写真68

 

ここでの踊りはもちろん長尺版の14分です。

各所で披露された踊りに巧拙の違いなどあろうはずがありませんが、本堂を目の前に舞うその姿は筆者の目にはこの日最も壮観に見えました(写真69参照)。

 

写真69

 

踊りの最中、山門に目を転じると青鬼が仁王立ちし、一行の踊りを見守っていました(写真70参照)。

 

写真70

 

再び本堂の正面に目を移すと立て看板が柱に立てかけられていました(写真71参照)。

 

写真71

 

見ると、「吉和太鼓踊奉納」と大きく朱墨で書かれており、その横に「建武三年(一三三六年)足利尊氏公参籠、武運長久を祈願の後湊川ノ戦*37に戦勝、加勢した吉和水軍が戦勝を祝って奉納」とあります。

なるほど。

だから「これは祭りではありません。奉納です」なのか。

早朝、青年部長が子どもたちに諭すように語っていた言葉が腑に落ちました。

多くの人の目には「浄土寺で太鼓踊りが行われる」ように見えるかもしれないが、浄土寺を会場として踊るのではなく、浄土寺の観音さまに太鼓踊りを「奉納する」のが今日これから我々が行おうとしていること。

それをよく理解してほしい。

そう子どもたちに語っていたのだと思います。

「祭りではありません」も「太鼓踊りは見物客を楽しませるための催しとしてやっているのではない。あくまで観音さまに捧げるためにやっている」というのが真意だったに違いないと理解しました。

また「僕らは700年の歴史を背負って奉納するんです」という言葉も、立て看板に書かれてあることと符号します。

ここで絵馬や古資料、保存会の資料、立て看板に書かれてあった建武3(1336)年に起きた出来事の伝承を時系列にそって簡潔にまとめてみようと思います。

 

  1. 尊氏が九州へ向かう途中、浄土寺で戦勝を祈願
  2. 吉和の人々が尊氏の水軍で船頭を務め、功績を挙げる
  3. 尊氏が九州で勝利(多々良浜の戦いなど)
  4. 尊氏が東上し、再び浄土寺へ参詣
  5. その際、吉和漁民の功績を賞し、厚く賞賜
  6. 恩賞を喜んだ吉和の人々は尊氏の九州での戦勝、東上を祝って踊る
  7. その後、尊氏が湊川の戦いに勝利
  8. 吉和の人々はその戦勝を祝って浄土寺に太鼓踊りを奉納

 

これらの伝承を総合すると、太鼓踊りによる「奉納」自体が建武3(1336)年に起源を持ち、それが約700年間受け継がれてきたということになります。

そして継承されているものには、踊りや奉納だけでなく、吉和の人々が尊氏との関係の中で受け継いできた物語そのものも含まれています。

だからこそ、保存会ではそうした歴史的伝承を子どもたちにも分かるようにかみ砕いて伝えようとしているのでしょう。

そんなことを感じ入っていると、浄土寺での太鼓踊りの奉納も終わり、一行は昼休憩に入りました。

時刻はおよそ11時30分。

ただ、午前の予定はこれで終わりではありません。

会長、相談役、顧問のお三方に加えて、「大宰領」と呼ばれる幹部、そして赤・青の両鬼は本堂へと上がり、そこで住職による祈祷が行われました。

これはれっきとした宗教的儀式のため、本来部外者である筆者はその場に立ち会う立場ではなかったのですが、吉井県議が住職に断りを入れてくださいました。

おかげで本堂内で祈祷に臨む姿を真横から見る位置に座らせていただき、一連の様子を拝見することができました。

もちろん本堂内は写真撮影が禁じられているため、写真は撮っていませんが、ここで祈りを捧げる保存会の幹部の皆さんの姿に、絵馬にも綴られていた尊氏の時代から続く吉和の人々の浄土寺観音に対する信仰の厚さが感じられました。

先ほど受け継がれてきたものとして踊り、奉納、物語の三つを挙げましたが、ここでもう一つ、「信仰」が加わりました。

本堂での祈祷が終わると、そこに参列した幹部の皆さんも、既に休憩に入っている一行のもとへ移動し始めました。

ここが一つの節目だったため、筆者の同行はここまで。

お世話になった保存会の皆さんにお礼を述べ、本堂で別れました。

国宝の多宝塔の向こう側には澄み渡る青空がどこまでも広がっていました(写真72参照)。

 

写真72

 

その後

 

ちなみに一行の動きはこれでおしまいというわけではありません。

昼休憩が終わると午後からは地元の企業回りがあるそうです。

「うちにも是非来て、太鼓踊りを披露してほしい」と要望があった先を順次回り、そこでいただくご祝儀を保存会の運営費に充てているとのこと。

これだけの一行の食事や衣装、諸道具、そして事務所の維持管理など、保存会の運営には相当の経費が必要と思われます。

そうした二年に一度の奉納を現実に維持する経済的な仕組みにも「漁師の太鼓踊り」から「地域で継ぐ太鼓踊り」への変化が垣間見えます。

余談ですが、この日一日お世話になったことへのお礼を改めて申し上げるべく、夕刻、吉井県議にお電話したところ、繋がらず、その後、19時30分頃になって折り返しのお電話がかかってきました。

開口一番、「いやー、遅くなって申し訳なかったです。先ほど企業回りが終わって、今、事務所に帰ってきたところなんです」と。

あの猛暑の中、午後からずっとこんな時間まで各所で踊って回っていたと聞き、本当に頭が下がる思いでした。

さらに驚くのは、翌日も「村打ち」といって衣装をきちんと着込んで吉和の町内を練り歩き、太鼓踊りを披露して回るそうです。

しかも最高気温35℃前後の晴れ予報です。

確かに中心にあるのは浄土寺への「奉納」ですが、それが終わればすべてが終わるというわけでもなく、時間だけで見れば、奉納が終わった時点でもまだ全行程の四分の一ほどが済んだに過ぎません。

それも真夏のど真ん中の日にです。

しかしそうだとしてもこの村打ちが大事にされているのは、それが地元の人たちに対する太鼓踊りの「披露」の機会になっているからという単純な理由ではなく、前日に浄土寺で祈祷を受け、そこで得たご利益を配って回るというところに、本来の意味があると聞きました。

そしてそのご利益のおすそ分けの象徴として、例えば鬼が持つ梵天から抜け落ちた色紙の一片があるそうです(写真73参照)。

 

写真73

 

こうした風習一つ取ってみても浄土寺の観音信仰が今なお深く根付いているように感じられます。

 

おわりに

 

「尾道に焼山のやぶの面に酷似した鬼面がある」。

今こうして取材記を書いていると、全てはこの衝撃から始まり、その謎を解き明かせたらと歩み始めた先で、思いもよらなかったところにたどり着いたことを実感します。

冒頭の面の謎はここに至る小さな入口に過ぎなかったのかもしれません。

謎に迫るとっかかりを得ようと何のあてもなく浄土寺を訪ねたのが今年の3月。

そこで住職から得た情報をもとに保存会の事務所に向かって歩いている途中、偶然、浮田宮司と会い、そこで吉井県議のお名前を聞けたのは一つの幸運でした。

そこから地元の神田県議に相談し、吉井県議を紹介してもらい、鬼面の現物を見せてもらうまではあっという間でした。

あいにくこの面がいつ誰によって彫られたのか、なぜ焼山の面に酷似しているのかは未だ分からず、謎は謎のまま残っています。

ただそんなことは今となっては些末なことと思えてしまうほど、その後の展開や見聞きしたものが面白くてたまりませんでした。

鬼面の実物を手に取り、世襲家に残る古写真を拝見できただけでも取材としては十分な成果でしたが、「鬼」を起点に江戸期の絵馬まで見せてもらい、そこで尊氏ゆかりの観音信仰や御座船のことを知り、勢揃いも見て、そして8月18日に射場から浄土寺本堂まで同行させてもらいました。

その頃には、「なぜ焼山の面に酷似しているのか」から「この人たちは、いったい何を受け継いできたのだろう」へと筆者の問いが変わっていました。

そして、それに対する筆者なりの答えが、踊り、奉納、物語、信仰だったというわけです。

そう理解できると、「これは祭りではありません。奉納です」と子どもたちに語っていた青年部長の言葉はある意味、至言のように思えてきます。

というのも青年部長自身はおそらく「祭りとは何か」を一般論として論じるつもりで発したわけではないのに、結果として非常に本質的な言葉になっているからです。

「これは祭りではありません。奉納です」という言葉を文字通り受け取れば、「祭り」と「奉納」を対立させています。

ただ、吉和太鼓踊りが行われる8月18日は観音菩薩の縁日です。

外部者の目で素直に観察すれば、まず「観音さまのお祭り」ともいうべき祭礼的な場があり、その中で太鼓踊りが奉納されている、と捉えるのが自然です。

そもそも「祭り」と「奉納」は本来、対立する概念ではありません。

むしろ日本の伝統的な祭礼の根っこには、神仏に対して祈る、捧げる、感謝するといった宗教的な営みがあります。

一方で青年部長は、こうした祭礼本来の意味での「祭り」を念頭に「これは祭りではない」と言ったわけではないでしょう。

むしろその言葉からは、「祭りとは本来、誰かに見せるための催しではなく、神仏に向けて行うものなのだ」という、祭りの原初的な本質が浮かび上がってきます。

つまり「祭りではない」と言ったその言葉が、実は「祭りとは何か」を言い当てていたように思えるのです。

いうまでもなくこれは、他の祭りのあり様を批判する文脈で発せられた言葉ではありません。

むしろ、見物客がいても、メディアが来ても、観光の対象になっても一向に構わない。

しかし、担い手自身が「誰に、何のために、これを行っているのか」「自分たちが行っていることはいったい何なのか」を忘れてしまうと、祭り本来の意味が大きく変わってしまう。

そのことを、伝承されてきた歴史とともに次代を担う子どもたちに分かりやすく伝えようとした言葉に思えてなりません。

面の調査という小さな入口からまさかこんなところに漂着することになるとは思いもよりませんでした。

もちろん先ほど面の謎のことを敢えて「些末なこと」と述べましたが、その謎解きは今後も続けていくつもりです。

しかしそれはそれとして、筆者が一連のフィールド調査を通じて見聞きし、考えたことを、「追体験」という形で読者の皆さんにも共有することにしました。

思いもよらなかったところに漂着した面白さを読者の皆さんにも感じていただけたら幸いです。

 

謝辞

 

本稿を執筆するにあたり、多くの方々にご協力をいただきました。とりわけ吉和太鼓踊保存会顧問で広島県議会議員の吉井清介さんには、それまで何の面識もなかったにもかかわらず保存会の皆さまとの間を取り持っていただいたばかりか、その後も取材のたびに様々なご配慮をいただきました。吉井県議のお力添えがなければ、今回の取材はここまで広がることはありませんでした。保存会相談役の森重彰文さんには、吉和太鼓踊の歴史や伝承について多くのご教示をいただくとともに、浄土寺で絵馬を拝見する貴重な機会を設けていただきました。赤鬼を務める長谷司さんには、長谷家に残る古写真や古資料をご提供いただき、筆者からの度重なる質問にも丁寧にお答えいただきました。会長の水戸川秀美さんには、長年にわたって吉和太鼓踊に携わってこられた立場から貴重なお話を聞かせていただきました。青鬼を務める長谷淳二さんをはじめ、吉和太鼓踊保存会の皆さまには、尾道に縁もゆかりもない筆者の取材を快く受け入れていただきました。浄土寺のご住職、小林暢善さんには、一般にはお目にかかることのできない吉和太鼓踊懸絵馬や紙本著色尾道絵屏風を拝見する機会をいただき、また本堂で行われた祈祷にも立ち会わせていただきました。吉和八幡神社宮司の浮田裕人さんには、何のあてもなく吉和を訪ねた筆者に尊氏ゆかりの吉和太鼓踊について様々なご教示をいただくとともに、その後の調査のキーマンとなる吉井県議のお名前を教えていただきました。筆者の地元県議の神田隆彦さんには吉井県議をご紹介いただき、本稿につながる取材の端緒を開いていただきました。このほか、本稿の取材に際してご協力、ご教示をいただいたすべての皆さまにも、ここに記して感謝の意を表します。なお、本稿の記述における誤謬の責は筆者にあります。

 

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*1:川西由香理「吉和太鼓踊り」『蒼い風』vol. 113、中国電力、2025年7月、pp. 24-25.

*2:いわゆるスイカ系のやぶ。詳細については下記「昔の祭り:宇佐神社編」に記載。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2017/09/16/065731

*3:下記に掲載。
https://www.ononavi.jp/spots/detail.html?detail_id=207

*4:令和2(2020)年の「呉のやぶ面展」において展示した堀口勝弘氏による製作面。

*5:令和8(2026)年3月7日。

*6:なお、尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」には「吉和西元町の恵美須神社を出発し、浄土寺に 向かう」と記載されている(p. 49)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*7:令和8(2026)年6月8日。

*8:令和8(2026)年6月22日。

*9:⑶については下記に掲載。

https://kureyabu.hatenablog.com/about

*10:原文は「海賦」とあるが、文意から「海賊」の意と解し、括弧内は筆者が補記。

*11:両氏の鬼歴については、令和8(2026)年8月18日の吉和太鼓踊りの当日に確認。

*12:類似の事例として、愛媛県西条市の伊曽乃神社の祭礼でも「鬼頭」と呼ばれる鬼役は元々世襲制で、現在も世襲によって代々の役が受け継がれているケースが多い。詳細下記。

堀口悟史(2024)「伊予の鬼文化」『日本民俗学』, 320, pp. 37-55.

*13:模刻した焼山の面は大きさについても本面を再現している。

*14:令和8(2026)年8月24日。

*15:今は祭りには出されておらず、またかつてどこの神社の祭礼で使われていたのかも不明。なお、写真は現在の所有者の許可を得て、令和6(2024)年3月10日、筆者が撮影。

*16:例えば、長野県の萩山神社(高森町下市田)の春季例大祭に出る鬼は吉和の青鬼や写真14の呉の古面とよく似ている。当該鬼については下記の動画の開始6分頃、並びに開始10分頃を参照。

https://www.youtube.com/watch?v=vJW04CTayeo

*17:西条郷土博物館(愛媛県西条市明屋敷)所蔵の、明治期に使用されていた伊曽乃祭礼の烏天狗面にも人毛が使われている。詳細下記。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2023/07/29/061743

*18:浄土寺住職の小林暢善氏。令和8(2026)年9月、真言宗泉涌寺派総本山・泉涌寺の第155世長老に就任。同派管長を兼ねる。

https://www.chugainippoh.co.jp/article/news/20260902-001.html

*19:尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」では、当該絵馬を「吉和太鼓踊懸絵馬」と表記している(p.48)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*20:尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」には、文化13(1816)年の亀山士綱『尾道志稿』による記述として、「十八日近村吉和の漁人数百錦幟を持ち、一人鬼面をかつぎ、棒を振り、その後に数十艇太鼓を打ち、また黒木綿にて船の形をつくり、あとをしたい浄土寺観音に参詣する」と紹介されている(p.48)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*21:尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」(p. 48)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*22:昭和55(1980)年に88歳で他界。

*23:尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」には「天明8年(1788)の『年誌帖』には、浄土寺へ吉和太鼓おどりが参拝していることが記載されている」(p. 48)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*24:許可を得て撮影。

*25:令和8(2026)年6月26日、「赤酢の極みツアー」。詳細下記。

https://www.simasalon.jp/tours/red-vinegar-tour

*26:下記にて確認。

https://kitamae-bune-db.com/db/shihonchakushokuonomichiebyoubu/

*27:下記参照。

https://nihonisan-onomichi.jp/bunkazai04_jodoji/

*28:尾道駅の開業は明治24(1891)年。

*29:前記の通り、既掲の古資料には「浄土寺年代誌に見えたる太鼓踊の記録」として「吉和躍 七月十八日 隔年 吉和組町人」の文字が確認できる写真が掲載されている。また同古資料の表紙には、「この踊は旧暦の7月18日に隔年に尾道市吉和町から浄土寺観音に奉納される」とあることから、当該資料の発刊当時は現在のような8月18日ではなかったことが分かる。

*30:既掲の令和4(2022)年の行程表が書かれた用紙にも同様の趣旨の記述がある。

*31:既掲の古資料には当該伝承に加えて、その後の時代に悪疫が流行した際、浄土寺観音に平癒を祈ってこの踊りを奉納したという伝承も併記されている。

*32:既掲の古資料によれば、「おうど方」と呼ばれる太鼓と「かんこ方」と呼ばれる小太鼓が敵味方に分かれ、打ち合い、「ヤア」が打ち込みのかけ声で、「ハア」が受けの気合を意味するとある。

*33:生口島(尾道市瀬戸田町)の気象庁観測データより。

https://www.data.jma.go.jp/stats/etrn/view/hourly_a1.php?prec_no=67&block_no=0687&year=2026&month=8&day=18&view=

*34:尾道市「第2章 尾道市の維持及び向上すべき歴史的風致」には「『観音丸』は、尊氏御座船の型を許されたものと伝えられ、これを操るお船方は子孫相伝の役である」と記載されている(p. 49)。

https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/26335.pdf

*35:例えば、川西由香理「吉和太鼓踊り」『蒼い風』vol. 113、中国電力、2025年7月、pp. 24-25、並びに「吉和太鼓踊り 勇壮に」『中国新聞』2026年8月19日。

*36:平安時代作の重要文化財。

*37:九州で勢力を立て直し東上した足利尊氏が、現在の神戸付近で後醍醐天皇方の楠木正成、新田義貞らを破った戦い。