9月9日から始まった「呉のやぶ」面展が無事閉幕しました。
コロナ禍での開催だったにも関わらず、二か月の会期中にご来場くださった方は延べ3,134人と盛況で、主催者としては望外の喜びでした。
案内状
ギャラリー内の様子
このままその余韻に浸りながら、年を越したい思いもありますが、本展を行った「記録」として、また行きたくても足を運べなかった方々への「再演」として、本展での展示物をWeb版として再構成し、以下紹介します。
開催趣旨
一昨年の秋に開催した「呉のやぶ」展(以下、やぶ展)から早二年が経ちました。
延べ3,167人もの方にご来場いただいたやぶ展は、「写真で見るやぶの今、そして昔」というテーマの写真展で、その特別展として戦前・戦後の祭りを賑わした古面の展示も行いました。
やぶ展
その際、来場者のお一人が「昨今はやぶの面を彫る方も少なくなってきているんでしょうね」とやぶ文化の継承を案じていたことを今でもよく覚えています。
実際は「少なくなってきている」どころか、彫り師は年々、呉市内各所で増えており、その事実を伝えると随分と驚いていました。
その驚きの様子が本展を催す動機の一つになりました。
では一体どんな人がやぶの面を彫っているのかというと、基本的には面を彫ることを生業としている能面師のような専業プロの職人ではありません。
彼らには美容師や調理師、内装工、左官、大工、会社員等々、各々生計を立てるための本業があり、その傍らでやぶ面を彫っています。
そして全員とは言わないまでもその多くが幼少の頃からやぶがあまりにも好きで、やぶ好きが高じて大人になってからついに面も彫るようになったというキャリアが一般的です。
少年期の"作家"たち
それも誰かに習うわけでもなく、どこかに教科書があるわけでもなく、彫りも塗りも全て手探りの我流で始め、試行錯誤を続けながらその「我流」を文字通り自分一人で少しずつアップデートしている人がほとんどです。
そのため、自分以外の彫り師がどのような道具を用い、どのような手順で製作しているのか全く知らないという人が大半で、銘々が築いたノウハウも決して秘匿の意思があるわけでもないのに実態としては他の彫り師と広く共有されることもなく、当人のみが知る知識として各人の中に留まっています。
このように述べると「素人の趣味」という言葉で一括りにされがちですが、事はそう単純ではありません。
やぶは鬼の一種かもしれませんが、広義の鬼を指す方言ではありません。
そのため、やぶに対する深い洞察がないとやぶ面は彫れません。
それなしでは(少なくとも呉の人から見れば)やぶとは似て非なる鬼顔になってしまいます。
実際、やぶの面を彫っている人とやぶ談義をすると、やぶらしさに関する自分独自の哲学が明確で、私のような一介のやぶ好きには到達し得ない一種の境地のようなものが感じられます。
プロの面打ち師といえどもローカルな文脈に埋め込まれた「民俗」を深層理解することなく、その高い技術のみによってやぶ面が彫れるというわけではないのです。
四六時中やぶのことを考えた末の造詣がないと「紛れもなくこれはやぶだ」と呉の人を納得せしめる面は彫れない点が、やぶ彫りの奥深いところです。
だからと言って一定以上の技術がないと良い面を彫れないのもまた事実です。
そこで今回は「呉のやぶ」面展と銘打ち、近年増えつつあるやぶの面彫り師の中でも「自分以外で面を彫る人と言えばあの人」と比較的よく名前の挙がる十四人の"作家"に焦点を当て、その作品展を行うことにしました*1
もちろん一口に"作家"と言ってもその面彫りスタイルも様々で、例えば、古くから使われているいわゆる「本面」の忠実な再現を追求する人もいれば、本面をベースにしながら一部アレンジを試みる人や、独自の創作面を彫る人もいます*2。
あるいは究極の域まで面を左右対称に彫る人や本面と寸分違わぬ形で非対称に彫る人、また艶やかな塗りを好む人もいればあたかも実際に経年劣化したかのような古びた印象の仕上がりを良しとする人もいます。
面白いのは、その一つ一つの志向の背後に堅固な持論がある点で、それらを漏れなく体現したのが今回展示した一枚一枚の作品だったというわけです。
そんな"作家"たちのそれぞれに異なる面彫り哲学を、本稿を通して改めてお感じいただき、周囲のやぶ好き同士で今一度やぶ談義に花を咲かせていただけると幸いです。
十四人の"作家"
言うまでもなく、本展の主たる展示物はやぶの面ですが、この度、それを「題材」としながら広く世に示したかったのは、1)呉にかくも多くの彫り師がいること、2)そんな彼らが「呉のやぶ」文化の一端を支えていること、の二点です。
副題にもある「やぶに魅せられた十四人の"作家"」こそが本展の本当の主役でした。
以下、その略歴を今回展示した作品とともに紹介します。
なお、紹介は五十音順・敬称略とし、作品についてはギャラリー外で撮影したものをここでは掲載することとします。
青鶴 AOZURU*3
不詳
海山 KAIZAN*4
不詳
川崎五朗 KAWASAKI, Goro
昭和22(1947)年~令和元(2019)年
呉市に生まれる。旧呉市内、龍王神社の祭り育ち。長年、地元、荒神町の祭りの世話を行う傍ら、精力的に面彫りを続ける。揉み上げの彫りは「川崎面」の特徴の一つ。晩年は天応地区、下西自治会の祭り(田中八幡神社)との関わりを深め、製作面の多くは現在天応(下西・三葉)で使われている。
黒田哲仙 KURODA, Tetsunori
昭和58(1983)年~
呉市に生まれる。旧呉市内、八咫烏神社の祭り育ち。小学2年時に初めてやぶ面を被る。面彫り歴は12年。地元、坪ノ内の祭りで使う面のみを彫ることをモットーとする。既存の古面を尊ぶ一方、製作面の大半は八咫烏らしさを追求・表現した、独自の創作面。
佐々木利幸 SASAKI, Toshiyuki
昭和9(1934)年~令和元(2019)年
呉市に生まれる。昭和地区栃原、竹内神社の祭り育ち。木造大工としての仕事の傍ら、やぶ面の製作を行う。作品は面長のシャクレ顔が多い。般若面も彫る。警固屋地区にも多数提供。やぶ面で呉市美術公募展受賞歴あり。
槌田竜太 TSUCHIDA, Ryota
昭和57(1982)年~
呉市に生まれる。旧呉市内、伏原神社の祭り育ち。中学時代に地元、朝日町で初めてやぶ面を被る。平成16(2004)年に現在の伏原神社朝日町廣鈴会を発足したのを機に、面彫りを始める。当初は朝日町のやぶ面として使う目的で製作していたが、平成29(2017)年にやぶを引退して以降は、「竜彫」の雅号で精力的に面彫り活動を行い、各方面からの依頼を請け負う。
南良辰雄 NARA, Tatsuo
昭和27(1952)年~
呉市に生まれる。昭和地区焼山、高尾神社の祭り育ち。地元、東区のやぶであるガッソー、ニビキのみならず、いわゆる辰川系のやぶ面や能面なども多数手掛ける。焼山のやぶ面については、本面を大胆にアレンジし、やぶの概念にとらわれない自由な作風を特徴とする。
平松数治 HIRAMATSU, Kazuharu
昭和14(1939)年~
呉市に生まれる。旧呉市内、龍王神社の祭り育ち。二十代前半時に地元、畝原にて平田家のやぶ面を被ったのが「初やぶ」。焼山、桜ケ丘団地に転居後は当地や近隣のひばりが丘団地の祭りの世話も行う。四十代半ばより面彫りを始め、創作数は約50面に及ぶ。全て辰川系。81歳を迎えた現在も新面を製作。
細田英明 HOSODA, Hideaki
昭和42(1967)年~
呉市に生まれる。昭和地区焼山、高尾神社の祭り育ち。子ども時分から「将来やぶになる」と意を固める。面彫り歴は約10年。地元、北区のやぶであるアカ、アオをこよなく愛す。面彫りは焼山のやぶに特化し、本面の忠実な再現を志向。とりわけアオへの思い入れが深く、よごろは自作の面を被り、「焼山の原風景」の再演に一役買う。
堀口勝弘 HORIGUCHI, Masahiro
昭和50(1975)年~
呉市に生まれる。昭和地区焼山、高尾神社の祭り育ち。小学4年時に紙粘土による自作のやぶ面(地元、東区のガッソー)を被り、初めてやぶを務める。進学した九州産業大学芸術学部ではやぶ面を卒業作品として製作。以来、焼山のやぶを精力的に彫り続ける。古くからの本面を尊び、その忠実な再現を一貫して志向。ガッソーに対する思い入れが強く、被り手としても現役を続ける。
三原剛 MIHARA, Tsuyoshi
昭和41(1966)年~
呉市に生まれる。警固屋地区警固屋、貴船神社の祭り育ち。面彫り歴は約10年。地元の伝統的なやぶであるエンマ、ダンゴ、ニグロを中心に彫り、近年はそれらをベースに独自の顔立ちに発展させたやぶ面の創作に取り組む。
森幸男 MORI, Yukio
昭和14(1939)年~平成30(2018)年
呉市に生まれる。旧呉市内、平原町の出身。地元、平原神社の祭りとの関わりは薄かったものの、焼山、ひばりが丘団地へ転居後、自治会の祭りを手伝う形で昭和63(1988)年より面彫りを開始。定年後は製作ペースが増し、生涯総数は252面に及ぶ。ひばりが丘のみならず、隣地の松ヶ丘団地や旧呉市内(川原石、郷町、寺迫など)、仁方地区、音戸地区でも「森面」が使用されている。
山下照治 YAMASHITA, Teruji
昭和33(1958)年~
呉市に生まれる。警固屋地区見晴、地神社の祭り育ち。中学在学中、地元、旧鳥ヶ平(見晴2丁目)の古面に傾倒し、初めて面を彫る。高校卒業後、能面の大家、長澤氏春(大正元(1912)年~平成15 (2003)年)に弟子入りを求めるも願いが叶わず、以降、独自の創作を行う。見晴をはじめ、警固屋地区内からの製作依頼が多く、各所に足跡を残す。
山本亨 Yamamoto, Toru
昭和36(1961)年~
呉市に生まれる。警固屋地区鍋、宇佐神社の祭り育ち。子ども時代は、地元、北区の伝統的なやぶであるカッパへの憧れが強く、当時から根っからのやぶ好き。昭和60年代に焼山南ハイツへ転居し、神山神社の祭りに携わるようになって以降、面彫りを始める。作品は辰川系が多く、その使用圏は旧呉市内(山手、郷町)、仁方、横路、天応、音戸など広域に亘る。昨今は第二の地元、神山由来のシャクレ面も手掛ける。県外からの依頼も多数。
製作工程の一例
既述の通り、やぶの面をどのような手順でどのように製作するのかは人それぞれで、大半の"作家"が彫りも塗りも手探りの我流で始め、試行錯誤の末に現在のスタイルを確立するに至っています。
そのため「これが正しい工程」という模範解があるわけではなく、以下では一人の"作家"がかれこれ四半世紀の間、面彫りを続けてきた結果、行き着いた現時点での製作手順を「一例」として紹介します。
写真提供:堀口勝弘氏
製作の舞台裏
前記の通り、やぶの面彫り師は各々我流を貫き、互いに技術的な交流を図ることもないため、自分以外の彫り師がどのような現場でどんな道具を用いて製作しているのか全く知らないという人がほとんどです。
ましてや面彫りとは無縁の一般の方にとっては、製作現場がどうなっているのかなど、想像も及ばない未知の世界と言っても過言ありません。
そこで、今回は7人の"作家"の方にご協力いただき、製作の舞台裏を見せてもらいました。
以下、その一端を披露します。
撮影協力
黒田哲仙、南良辰雄、平松数治、堀口勝弘、三原剛、山本亨、故・佐々木利幸ご遺族(以上、敬称略)
祭りを彩る"作家"たちの面
やぶの面は、例えば邪気を払うために自宅に飾られたり、あるいは家宝として大切に保管されたりとその扱われ方も様々ですが、基本的には祭りで使用するために彫られるケースが大半です。
使われることであたかも作品に命が吹き込まれ、やぶ面という一物体がやぶそのものに変じると言えます。
その唯一無二の場がまさに祭りというわけです。
以下では、本展で取り上げた現代の"作家"たちが彫った面が実際に各地の祭りで使われている様子を紹介します。
結びに
本展の開催にあたって多大なるご協力をいただいた"作家"の皆さま、鬼籍に入った"作家"のご遺族、そして面をお貸しくださった所蔵者、管理者の皆さまにこの場をお借りし、重ねて感謝申し上げます。
そして、本展を盛り上げてくれた38枚のやぶ面全てに心からの謝意を表し、本稿を閉じることとします。
*1:他にも名前の挙がった"作家"が複数いたものの、意中の作品が製作途中である等々の理由で展示を見送った。
*2:能面の世界では、室町時代に制作された作品が「本面」と呼ばれ、それを写し取った型紙を使って、極限まで忠実に再現することが厳格に求められている。以上は、下記を参考に記述。
http://www.asahi.com/area/yamaguchi/articles/MTW20190220360990001.html
https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/36457/
https://nohmask21.com/katagami.html
*3:匿名希望のため、雅号のみ掲載。
*4:匿名希望のため、雅号のみ掲載。