呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

愛媛取材記 東予の鬼文化

はじめに

 

やぶはいつから存在しているのか。

なぜやぶを「やぶ」と呼ぶのか。

いずれもよく聞かれる質問ですが、やぶの起源や語源に関する史料は確認されておらず、これまでのところ明らかになっていません。

令和3(2021)年12月、かれこれ60年余りもの間、行方が分からなくなっていた赤崎神社(呉市室瀬町)の「初代面」三面(写真1参照)が見つかり*1、1)そのうちの一面を彫ったのがクレトイシ*2創業者の父、髙橋貞助であったこと、2)貞助の生年が天保14(1843)年、歿年が明治41(1908)年であったことから、少なくとも明治期には呉の祭りに鬼面が出されていたことはほぼ間違いないと思われますが*3、当時それがやぶと呼ばれていたことを示す証拠は発見されていません。

 

写真1 赤崎神社の「初代面」

(髙橋家にて筆者が撮影/中央が貞助作の面)

 

語源については「藪の中から突然現れてきたから」という一説もありますが、口伝の一つに過ぎず、真偽は定かではありません。

そもそも竹藪の「藪」はや⤵ぶ⤴(イントネーションが下がって上がる)と発音するのに対し、呉の「やぶ」はや⤴ぶ⤵(イントネーションが上がって下がる)と読み、イントネーションが異なります。

一方、同じ口伝でも上記の「藪の中」説ほどには一般に知られていないものとして、呉に鎮守府ができて以降、人口が急増する中、他県からの転入者が呉の祭りに出ている鬼を見て、それを「やぶ」と揶揄したのが発端というものもあります。

なぜ揶揄されたのかは一旦さておき、やぶという言葉の一体どこに揶揄の要素があるのかというと、ニュアンスとしては「藪医者」が近いのかもしれません。

藪医者のことを略して"藪"とも呼びますが、この"藪"は「藪」という漢字のネガティブ用法です。

面白いことに同じ「藪」でもこれを藪医者の意で使うと、抑揚もや⤴ぶ⤵に転じます。

また、国語辞典の世界では藪医者の"藪"は、元々は草木が生い茂った「藪」ではなく、「野巫」と書かれていたというのが通説となっています。

野巫とは、呪術で治療を行っていた者のことで、昔はまじないもれっきとした治療法でした。

ところが、医学の進歩に伴い、病気を治すことのできない呪術医は馬鹿にされるようになり、「野巫」に「藪」の字を当て「田舎者」の意味を強め、侮蔑を含意する言葉になったと言われています*4

ここで思い当たるのが前記の赤崎神社の由緒を記した資料で、そこにはやぶが「野巫」と表記されています。

あいにく著者、出所ともに不明のため、信憑性の検討それ自体は困難ですが、思わぬところで赤崎の「野巫」が「揶揄」説と交わり、見過ごせない資料となっています。

さて、仮にこの「揶揄」説が正しいとして、一体誰が呉の鬼を「やぶ」と呼んだのでしょうか。

ここで明治期の呉の人口推移に目を向けてみます*5

明治20(1887)年の呉の人口は僅か15,158人でした*6

まだ呉が宮原村、和庄村、荘山田村を合わせて「呉浦」と呼ばれていた、半農半漁の寒村だった頃の人口です。

それが明治22(1889)年に呉鎮守府が開庁し、「帝国海軍第一ノ製造所」と位置づけられると、軍港都市として急速に発展。

かつての呉浦3村と二川町(川原石、両城の両地区)が合併し、呉市が誕生した明治35(1902)年には人口は60,124人へと約4倍に拡大しました。

その後、翌明治36(1903)年に鎮守府の造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立され、東洋一の軍港として栄えるようになると、明治43(1910)年には102,264人へと人口も10万人を超えるに至りました*7

僅か20年余りで7倍近くも人口が増えたわけですが、この間に他県から移住した人の記録が「大呉市民史(明治篇)*8」に記されています。

それによると『外來移住者は伊豫を最とし、山口、岡山、大分、香川、島根縣等が多く、各々の風習と地方訛を持ち込むため軍港開設當初より雑然たるものがあった』(p. 419)とあり、伊予すなわち愛媛県からの転入者が最も多かったことが分かります。

ここで注目に値するのは、伊予の国は実は江戸期より鬼文化が栄えた地であったという点です。

とりわけ江戸後期の栄えようは日の本屈指と言っても過言なく、「そんな伊予国からの移住者が呉の鬼を見て『やぶ』と揶揄した」。

あくまで一推察に過ぎませんが、あり得なくはない話です。

そこで、本稿ではこの「揶揄」説そのものの検証や、揶揄したのが伊予国出身者であったかの実証はひとまず脇に置き、まずは伊予の鬼文化がいかなるもので、現在に至るまでどのような歴史をたどってきたのかを初の県外取材である「愛媛取材記」として報告します。また一連の取材を通して、何に最も圧倒され、感銘を受けたのかについても最後に示し、今後読者の皆さんと祭りの継承のあり方について議論を深める契機にしたいと考えています。

 

東予の鬼文化

 

本節の概要

本稿は「愛媛取材記」と題しますが、一口に愛媛と言っても同県は東西にも南北にも広く、大きくは東予中予南予の3地域に分けられます。

さらに歴史的には俗に「伊予八藩」と称されていたように、伊予国は旧幕藩時代には8つの藩から構成されていました。

このうち、本稿では東予地方の一角を占める旧西条藩領の伊曽乃神社*9西条市中野)の鬼を主に紹介します。

加えてその周辺部の石岡神社(旧西条藩領・西条市)、三嶋神社(旧小松藩領・西条市)、並びに大島八幡神社(旧西条藩領・新居浜市)などの鬼についても若干の言及をし、これらをもって「東予の鬼文化」として報告します。

 

江戸期の鬼

鬼の話に入る前にまず西条藩について概説しておきます*10

西条藩寛永13(1636)年、伊勢国神戸藩の領主、一柳直盛の転封(領地替え)によって立藩されました。

これによって直盛は伊予国新居郡、宇摩郡、周敷郡並びに播磨国加東郡にまたがる6万8000石の領主となったものの、入封途上に没したため、伊予国の遺領の約半分を長男、直重が継承し、西条藩は3万石となりました*11

ところが直重の子である直興は寛文5(1665)年、不行跡を理由に改易除封の処分を受け、一柳家の所領は直重の入封以来約30年で幕府領となりました。

その5年後、寛文10(1670)年には紀伊藩主徳川頼宣の次男、松平頼純伊予西条3万石を与えられました。

頼純は徳川家康の孫で、3代将軍家光の従弟、8代将軍吉宗の叔父にあたります。

以後、約200年にわたって、松平家による藩政が続きました*12

その西条藩主松平侯の祈願所六社のうちの一社が伊曽乃神社でした*13

伊曽乃祭礼の鬼について書かれた最も古い文献史料は「西條花見日記」(以下、花見日記)(写真2参照)です。

 

写真2 花見日記の写し

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影*14

 

これは天保8(1837)年、荻野厚恒によって記された記録で、嘉永元(1848)年に出版された「雨夜之伽草」に収録されています。

花見日記は天保期の伊曽乃祭礼を活写したもので、このうち、鬼に関する記述のみを抜粋したものが以下の原文1です*15

 

原文1

真先幟弐拾本斗左右に列す。其次鬼約三十人斗二行に連る。此鬼といふ者凡三百六七十人あり。赤黄黒青色々の鬼の面を冠り、頭に毛を長く垂させ、面の色なる毛織の股引半纏を着し、大きなる烟草入を堤たるもあり。大瓢箪を腰に付けたるもあり。様々派手を尽し、各樫の六尺棒を持喧嘩口論を禁む。其次楽車也。其所より出す幟二本。其次鬼二人。其次楽車、裃着たる者四人前後を警護す。其跡鬼弐人幟弐本。所の若ひ者前後に附添ふ。皆々斯の如し。其員二十四五あり。(中略)其次鬼女弐人綾錦の衣類に緋の袴を着し、白綾の被を冠れり。(中略)其次神輿の台。其次鬼数、百人、神輿の前後左右を警護す。(中略)此鬼御供等ハ皆病気等の願解として二年三年五年七年十年十二年と出るもあるなり。其跡楽車一ツ。其次二十人斗也。

出所:福原敏男(2012)『西条祭礼絵巻:近世伊予の祭礼風流』西条市総合文化会館, pp. 130-131.

 

また、花見日記の全文を現代文に改めたもののうち、上記の原文1に相当する箇所のみを転載したのが、以下の訳文1です。

 

訳文1

先頭には幟約20本が左右に列する。次に鬼約30人が二列に連なる。この鬼は360-370人おり、赤黄黒青色々の鬼面を被り、頭に毛を長く垂れ、面の色と同様の毛織りの股引き、半纏を着、大きな煙草入れをさげているものもいる。大瓢箪を腰につけているものもいる。様々に派手を尽し、各々樫の六尺棒を持ち、喧嘩口論を禁じる役である。次は楽車である。幟2本、鬼2人、楽車、裃4人が前後の警護、鬼2人、幟2本、若者による前後の警護、以上が一集団であり、全部で24-25集団ある。(中略)鬼女2人が綾錦の衣類に緋の袴を着し、白綾の被きを被る。(中略)次に、神輿の台、鬼数百人が神輿の前後左右を警護する。(中略)この鬼御供は病気平癒等の願解として、治癒後2、3、5、7、12年と献ずるものもある。その後、楽車一つ、鬼約20人が続く。

出所:福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版, pp. 272-275.

(一部、筆者が補記)

 

ポイントは鬼の数、容姿、役割の3点です。

第一に鬼の数については360-370人*16と一神社の祭礼としては比肩する事例が過去、現在ともに見当たらないほど膨大で、花見日記にはその具体的な配置も記録されています。

最も多く配置されたのが御神輿の前後左右で、数百人とあります。

「楽車」(だんじり)など他の位置に配された人数をもとに逆算すると「数百人」というのは200人余りであったことが分かります。

第二に鬼の容姿については、1)鬼面の色が赤黄黒青と多種多様であったこと、2)衣装は面の色と揃いの股引、半纏であったこと、3)持ち物として樫の六尺棒を有していたことが記されています。

第三に鬼の役割については、巡行中の喧嘩口論の取り締りと御神輿の警護であったことが書かれています。

他にも鬼の中に鬼女もいたことや、これほどまでに鬼が増えた理由の一つとして、病気平癒のお礼参りの意味合いで鬼に扮し、巡行に参列する習わしがあったことが紹介されています。

また、昭和2(1927)年に愛媛縣學務部社寺兵事課が編纂した「愛媛縣に於ける特殊神事及行事」(以下、昭和2年愛媛県調査)も『往古』の伊曽乃祭礼の鬼について言及しています。

以下はその原文と訳文*17です。

 

原文2

往古祈願ニ依リ神輿ノ御供ヲナス者多數ヲ算シ、其行装鬼面ヲ冠リ、毛織ノ襦袢股引ヲ着ケ、長キ杖ヲ持チテ神輿ニ附随セリ。之ヲ鬼ト稱シ、其數七八百人ナリシト云フ。故ニ之カ取締ノ必要上、其頭目トシテ鬼頭ヲ置キタリシガ、今猶存シテ神幸ノ祭儀ハ此鬼頭(數十人アリ)ニ依テ警護セラレ、一絲亂レズ、嚴肅盛大ニ執行セラル、ナリ。

出所:大倉粂馬・松岡靜雄(1932)『伊豫上代史考 伊曾乃神社』鄕土硏究社, p. 293.

 

訳文2

大昔、祈願により神輿の御供をなすもの多数おり、行粧は鬼面を被り、毛織の襦袢股引きをはき、長い杖を持ち神輿に附随する。これを鬼と呼び、その数は七、八百人に及んだという。そのため、鬼の取締の必要上、その頭目として鬼頭を置き、今なお数十名の鬼頭が神幸の警護をし、一糸乱れず厳粛かつ盛大に祭儀が執り行われている。

 

原文2にある『往古』が具体的にどの時期を指しているのかは不明ですが、訳語にあるような「大昔」ではなく、最も古くともおそらく江戸後期ではないかと思われます*18

というのも伊曽乃祭礼に関しては宝暦11(1761)年の「年番日記」や天明6(1786)年の「磯野歳番諸事日記」にも具体的な記録が残っていますが、これら江戸中期の史料には鬼の記述が見当たらないからです。

この昭和2年愛媛県調査によると『往古』の鬼の数は700-800人とあり、前記の花見日記の2倍前後の鬼がいたことが記されています。

さらに鬼の数があまりにも多かったことから鬼自体を取り締まる目的で「鬼頭」という役が設けられたことも書かれています。

もちろん、花見日記にしても昭和2年愛媛県調査にしても数の正確性について疑義が全くないわけではありませんが*19、その点をいくらか割り引いたとしても当地における江戸期の鬼文化が「日の本屈指」の栄えようであったことは疑いの余地がないでしょう。

さて、既述の通り、江戸期の伊曽乃祭礼における鬼の容姿、外見については、花見日記や昭和2年愛媛県調査に具体的に記されていますが、それらをこれ以上はないほど豊かに補完する史料が二本の祭礼絵巻です。

一つは東京国立博物館所蔵の「伊曽乃祭礼細見図」(以下、細見図絵巻)で、もう一つは伊曽乃神社所蔵の「伊曽乃大社祭礼略図」(以下、略図絵巻)です。

前者の細見図絵巻(スライドショー1参照)は「徳川宗敬氏寄贈本」の一つで、幅は35cm、長さは26-27mにも及びます*20

 

スライドショー1 細見図絵巻

...

出典:東京国立博物館研究情報アーカイブ*21

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0030113

 

製作年代については、絵巻に描かれている屋台・みこし(詳細後述)から最大で文政9(1826)年から天保11(1840)年の間と分析されています*22

この細見図絵巻には天狗4人も含めて鬼が全部で21人描かれています(スライドショー2参照)*23

 

スライドショー2 細見図絵巻における鬼

...

 

出典:東京国立博物館研究情報アーカイブズ(筆者が鬼の箇所だけを切り取り)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0030113

 

注目すべきは、花見日記では鬼面の色が赤黄黒青と多種多様であったと記されていたのに対し、細見図絵巻で描かれているのは赤鬼のみであった点です。

一方、衣装については2人の鬼を除き全て面の色と揃いの股引、半纏(もしくは襦袢)を着用しており、また持ち物も樫の六尺棒を有していたという花見日記の記述と整合しています。

続いて後者の略図絵巻(スライドショー3参照)の方を見てみます。

 

スライドショー3 略図絵巻(複製)

...

(SAIJO BASEにて筆者が撮影)

 

この略図絵巻は、『昔、江戸の城内で仙台の殿様がお国の祭自慢に花を咲かせていた所、それを聞いた西條の殿様が、そんな祭などものの数ではないと伊曽乃の祭禮を絵巻に描かせ仙台に贈った』*24ものとされており、以来、伊達家で所蔵されていましたが、昭和25(1950)年に伊曽乃神社に引き渡され、現在は同社で社宝として保管されています。

製作年代は、細見図絵巻よりも後の時代と考察されています。

既述の通り、細見図絵巻が製作されたのは最大で文政9(1826)年から天保11(1840)年の間と推定されているので、略図絵巻はそのいずれかの年代以降、幕末までの間ということになります*25

幅は35cm、長さ26.7mです。

略図絵巻には天狗1人、烏天狗2人、子鬼2人も含めて鬼が全部で27人描かれています(スライドショー4参照)。

 

スライドショー4 略図絵巻における鬼

...

(筆者が鬼の箇所だけを切り取り)

 

興味深いのは、細見図絵巻で描かれている鬼は赤鬼のみであったのに対し、略図絵巻では赤、白、黒、灰色と鬼面の色が増え、それに伴い衣装の色も面と合わせる形で多彩となっている点です。

また鬼の種も既述の通り、略図絵巻では烏天狗*26や子鬼が新たに加わっています*27

さらに細見図絵巻の鬼よりも髪の毛が長く、腰に『大きな煙草入れ』と見えなくもないものを提げた鬼も見られることから、細見図絵巻よりも略図絵巻の時代の方がより花見日記に描かれた時代に近い様子が窺えます。

なお、昭和2年愛媛県調査に記されていた鬼頭については、二本の絵巻いずれにおいてもどの鬼がそれに該当するのかは判別がつきません。

但し、その判別困難な鬼頭も後の時代には思いもよらぬ形で一目で特定できるようになりました。

これについては次項で述べます。

 

明治期以降の鬼

明治28(1895)年に博文館から「文芸倶楽部」という文芸雑誌が発刊されました*28

樋口一葉国木田独歩幸田露伴をはじめ明治の文豪の多くがその代表作を同誌に発表するなど、明治中期における最も権威ある文芸誌の一つでした*29

一方、当時の世相風俗の記事も多く収録されていたことから、美術、演劇、落語、風俗などの近代日本研究の一級資料とも言われています*30

そうした世相風俗の一つとして描かれていたのが明治期になってからの伊曽乃祭礼で、そこに鬼についても端的に描写されています。

下記の原文3はその抜粋で、該当箇所の現代語訳も訳文3として付記しています。

 

原文3

茲に最も奇観なるは、各部落の壯丁が鬼と稱して、紺色の筒袖襦袢に、同じ紺色の股引をうがち、其上に絹糸にて毛を生し、獰悪なる鬼面を脊におひ、手に棍棒を携て居るのである。そして此鬼が十数人にて神輿を舁ぎ、其外に百数十人の鬼が、神輿の前後に列して警護の任に當るのである、此鬼なるものは、昔神の從僕なりしものならんと、老人の口碑に傳へられて居るのである、

出所:寺川機山(1904)「伊豫西條祭」『文芸倶楽部』博文館, 第10巻第1号, pp. 273-274.

 

訳文3

ここで最も目を引くのは、各集落の成年男子が鬼と称し、紺色の筒袖襦袢をまとい、同じく紺色の股引を履き、当該衣装上には絹糸製の毛を生やし、狂暴な様相の鬼面を背に負い、手には棍棒を携えている光景である。そしてこの鬼が十数人にて神輿を担ぎ*31、その他にも百数十人の鬼が神輿の前後で列をなし、警護に任にあたっているのである。この鬼というものは、昔、神のしもべだったのであろうと老人から言い伝えられている。

(筆者訳)

 

ここで最も目を引くのは『鬼面を脊におひ』(鬼面を背に負い)の箇所です。

鬼の容姿、外見についてはこの点を除いて基本的には江戸期の花見日記や二本の絵巻に描かれた内容とほぼ変わりありませんが、「鬼」が鬼面を被ることなく、それを背中に背負っているというのは、鬼の姿・形としてはあまりにも大きな変化です。

「変化」と称したのは、これがたまたまや一過性ではなく、明治以降、今日に至るまで面を被らないというのが伊曽乃祭礼における「鬼」の基本の形となっているからです。

このことは写真によっても確認できます。

下記の写真3、並びに写真4は明治末期に撮られたもので、そこに写った「鬼」は鬼面ではなく、帽子を被っています。

 

写真3 中折帽を被った明治末期の「鬼」(右端2人と右端屋台上の1人)

提供:蝙蝠團

 

写真4 学生帽のような帽子を被った明治末期の「鬼」(手前右から3人目*32

提供:蝙蝠團

 

では一体明治のいつ頃から鬼面が被られなくなったのか。

この点については正確な年代を特定できるだけの史料が見つかっていませんが、前記の文芸倶楽部に伊曽乃祭礼に関する記事が掲載された明治37(1904)年には既に鬼面を被らない「鬼」に改まっていたと言えます。

より正確を期すなら同誌に当該稿が載ったのは明治37(1904)年1月1日。

したがって、記事そのものが書かれたのは明治36(1903)年と思われます。

さらに内容に目を向けると、1)当該稿の執筆者である伊予出身の寺川機山(以下、寺川)はかねてより『我が西條祭』の壮観な光景を紹介したいと思っていたこと、2)そのためには写真機が必要で、一昨年(明治34年)の春、これを購入し、同年の秋に撮影を試みたものの全て失敗に終わったこと、3)そこで、昨年(明治35年)の祭りにおいて再度撮影を試みた結果、不満足ながらも二枚だけ祭りの写真を撮ることができたということが前半部に書かれています*33

このことから寺川が描写した「鬼」は、おそらく彼が長年見慣れ親しんだそれであっても不可思議ではなく、少なくとも明治34(1901)年-明治35(1902)年当時の「鬼」であったことはほぼ間違いないでしょう。

下記の写真5は、寺川が撮影した二枚とは別物ながら、同じ明治35(1902)年に撮られたもので、寺川も目にしたであろう「鬼」が写っています。

 

写真5 鬼面を被っていない「鬼」(右端の1人)*34

提供:近藤仁氏

 

不鮮明ながら頭部に守り札の紙片(詳細後述)が多く付いた鬼面を右手で抱え、だんじりの前に立ち、また既掲の明治末期の写真と違ってまだ帽子を着用していない姿が見て取れます。

この鬼面を被らないスタイルになってからの「鬼」は、大正期や戦前の昭和期の写真においても確認できます(写真6、並びに写真7参照)。

 

写真6 鳥打帽を被った大正10(1921)年の「鬼」(左端の1人)

提供:蝙蝠團

 

写真7 脱帽姿の昭和14(1939)年頃の「鬼」(神職を除く全員)*35

伊曽乃神社所蔵

 

ここで前項で紹介した昭和2年愛媛県調査を今一度、振り返ってみます。

同調査の末文には『故ニ之カ取締ノ必要上、其頭目トシテ鬼頭ヲ置キタリシガ、今なお数十名の鬼頭が神幸の警護をし、一糸乱れず厳粛かつ盛大に祭儀が執り行われている』とありました。

ここに書かれていることは、第一に(「往古」は鬼の数が700-800人とあまりにも多かったことから)鬼を取り締まる頭目として鬼頭という役を設けたこと、第二にその鬼頭数十名が今なお、神幸の警護を行っていることの二点です。

つまり、昭和2(1927)年において神幸の警護役を担っていたのは厳密には鬼ではなく、鬼頭だったのです。

もっと端的に述べると、この当時、かつて江戸期に鬼と呼ばれていた祭礼民俗は祭りから姿を消し、本来、鬼を取り締まる役目であったはずの鬼頭だけが旧来の鬼の役目を包摂する形で祭りに出るようになっていたのです。

前項の末尾で、江戸期の絵巻上では判別困難だった鬼頭も後の時代には思いもよらぬ形で一目で特定できるようになったと述べたのは、鬼と鬼頭を見分ける以前にそもそも鬼頭しか祭りに出なくなったというのがその真意でした。

それが一体いつからなのか、ピンポイントで特定することはできませんが、一つの可能性としては、前記の鬼面を被らないスタイルに改まった頃からではないかと考えられます。

だとすると、明治30年代後半に寺川によって描写された鬼面を被っていない「鬼」は実は鬼頭と呼ばれる人たちであったということになります。

実際、前記の明治、大正、昭和の写真に写った鬼面を被っていない「鬼」は、今日の鬼頭(写真8参照)の姿そのものです。

 

写真8 今日の鬼頭(手前3人)*36

提供:佐藤秀之氏

 

したがって、もし上記の推論が正しいとすると、江戸期に隆盛を誇った伊曽乃祭礼の鬼は、明治になって面を被らない様式が定着するにつれて呼称上も消散し、鬼頭のみの時代へと移行したことになります。

但し、「鬼頭」の文献上の初見は筆者が知る限り昭和2年愛媛県調査で、「鬼を取り締まる頭目」が鬼頭であるという前提は、当該調査に依拠しています。

したがって、前言を翻すようですが、仮にこの前提そのものが誤りであったとすると、「単に鬼のことを鬼頭と呼ぶ」(鬼=鬼頭)という解釈もあり得ます。

実際、「子どもの頃(昭和40年代)はいわゆる鬼頭を『鬼頭』と言わず、『鬼』と呼んでいた」といった証言*37もあるほか、西条市の複合施設であるSAIJO BASE(西条市明屋敷)に展示されている略図絵巻(複製)のキャプションでも、全ての鬼*38を鬼頭として扱い、その数が記載されています(写真9参照)。

 

写真9 SAIJO BASEのキャプション

(SAIJO BASEにて筆者が撮影)

 

このことから、何をもって鬼、または鬼頭とみなすかについては一定の留意が必要です。

なお、寺川が記述した鬼面を背負う様式は、終戦後一時途絶え、鬼面を携行しない鬼頭が「標準」となりましたが、昭和50年代になると戦前のスタイルが見直され、面を腰に提げる形で復活しました(写真10参照)*39

 

写真10 鬼面を提げた鬼頭

提供:佐藤秀之氏

 

一方、戦後に改まった鬼頭の様式としては、従来、各個人でバラバラの帽子を被っていたのが、昭和40年代になって黒革の制帽(中折帽)に揃えられたことが挙げられます(写真11参照)。

 

写真11 黒革帽子を着用した昭和51(1976)年の鬼頭(右側)

提供:蝙蝠團

 

また、衣装はかつては寺川稿に書かれていた紺色も使われていましたが(写真12参照)、その後、黒に統一され、履物も黒い足袋となっています。

 

写真12 紺色の衣装も見られた昭和40年代の鬼頭

提供:蝙蝠團

 

現代の鬼頭

これより現代の鬼頭についても述べておきます。

鬼頭は元々は世襲制でした。

今も世襲によって代々の役が受け継がれているケースが多いのですが、各々の家の事情で継承が途絶える場合もあれば、世襲家の出身ではないものの見習いから始めてその任に就く場合もあります*40

また伊曽乃神社のホームページには「鬼頭会からのお知らせ」として例大祭における鬼頭配置表が公開されており*41、これを見ると、令和4(2022)年9月時点で鬼頭会は鬼頭大総取締1名を筆頭に、鬼頭総取締2名、鬼頭取締3名、鬼頭副取締6名、鬼頭12名*42から成る階層的な組織のもと祭礼における役目を果たしていることが分かります。

役目というのは、江戸期に鬼が担っていたのと同様、御神輿の警護と屋台・みこしの制御で、前者を神輿係、後者を屋台係が受け持っています。

また公開資料には、二日間にわたる御神輿の巡幸、並びに屋台・みこしの運行に関する仔細な実施要領が伊曽乃神社鬼頭会からの「決定事項」として、伊曽乃神社鬼頭・屋台総代総会の場において「通達」されていることが示されています。

このことから鬼頭の役目というのは、祭礼における狭義の警護や制御に留まらず、その責任範囲は祭礼全体の統括にまで及んでいることが窺えます。

筆者が最も関心ある鬼面についても紹介しておきます。

面は基本的には個人所有で、各鬼頭の世襲家で「役割」とともに代々継承されています(写真13参照)。

 

写真13 大総取締 一色家に伝わる明治14(1881)年以前に製作された鬼面

提供:佐藤秀之氏

 

但し、昨今は古面は家宝として木箱に入れて保管し、祭りにはそれ用に新調したレプリカが出されることが多いようです*43

一方、前述のように鬼頭の役目を世襲家で継承できなくなった場合は、それを機に面が神社に奉納されるなどのケースもあります。

下記の面(写真14参照)はその一つで、明治5(1872)年以前に製作されたものです。

 

写真14 明治5(1872)年以前の製作面*44

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影)

 

また、下記の二面(写真15参照)も奉納面で、相応に古いものと思われますが、いずれも製作年は不明です。

 

写真15 製作年不明の二面

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影)

 

さらに、奉納された面の中には、略図絵巻に描かれていた烏天狗を彷彿とさせる、製作年不明の古面もあります(写真16、並びに写真17参照)。

 

写真16 製作年不明の烏天狗面⑴

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影)

 

写真17 製作年不明の烏天狗面⑵

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影)

 

鬼頭世襲家から寄贈された面は伊曽乃神社だけでなく、西条郷土博物館(西条市明屋敷)にも保存されています(写真18参照)。

 

写真18 西条郷土博物館所蔵の烏天狗面二面

(西条郷土博物館にて筆者が撮影*45

 

黒い毛は人毛です。

伊曽乃神社への奉納面と同じく、頭部に文字の書かれた紙片がいくつも付けられているのは、祭礼に供奉した際の守り札を毎年付け足していく風習によるもので、西条郷土博物館の烏天狗面にも「明治28年」と書かれた紙片が貼られています(写真19参照)*46

 

写真19 明治28年と書かれた札が貼られた烏天狗

(西条郷土博物館にて筆者が撮影)

 

天保の花見日記に『(祭礼の)御供は皆社司より出る紙札を頭に付け』(現代語訳*47/括弧内は筆者が補記)とあることから、鬼面に付されていた守り札もこれと同様のものであったと思われます。

 

伊曽乃祭礼以外の鬼文化

本稿では伊曽乃神社の鬼をその歴史とともに紹介してきましたが、同社の周辺部にもかつて鬼が祭礼に出ていた神社や、今も鬼が出る祭りが行われている神社があります。

以下、そのいくつかを紹介します。

伊曽乃神社から西へ約7㎞離れた場所に石岡神社(いわおか−)(西条市氷見)があります。

当地も江戸期は西条藩領でしたが、史料上、鬼の出現は伊曽乃神社よりも古く、天明元(1781)年の行列帳に『祭礼役人、太鼓、鬼、太鉾、屋台西町中、山車類、御船、神楽屋台土居中』とあり*48、江戸中期の祭礼に鬼が出ていたことが確認できます。

但し、現在の祭りにおいては鬼は不在で、伊曽乃神社の鬼頭に相当する「警備士」が御神輿の警護を行っています(写真20参照)。

 

写真20 石岡神社の警備士

提供:佐藤秀之氏

 

警備士の法被は紺色で白房が付いており、隊長と副隊長は白色の法被に紫色の房となっています。

なお、警備士は元々は法被ではなく、伊曽乃神社の鬼頭と同タイプの衣装を着用していました。

鬼面の携行はしていませんが、法被に変わってからも鬼の体毛を表すとされる房が付いているのはかつての名残なのでしょう。

伊曽乃神社から約4km北上すると風伯今磯野神社(以下、風伯神社)(西条市朔日市)*49があり、そこからさらに約7kmほど東に移動すると飯積神社(西条市下島山)が鎮座しています。

いずれも旧西条藩領で、伊曽乃神社と同様、今も祭りに鬼頭が出ていますが、石岡神社の警備士と同じく鬼面は携行していません(写真21、並びに写真22参照)。

 

写真21 風伯神社の鬼頭

提供:佐藤秀之氏

 

写真22 飯積神社の鬼頭

提供:佐藤秀之氏

 

役割が御神輿の警護である点も共通しています。

衣装は双方とも同種の類ですが、風伯神社の方は紺色で、かつての伊曽乃祭礼の鬼頭と同色となっています。

本稿ではここまで旧西条藩領・西条市の鬼文化を紹介してきましたが、鬼の分布は当該地域に留まりません。

西条藩の西端と接していた小松藩、現在の西条市小松町(旧小松町)に鎮座する三嶋神社においても明治末期に鬼が祭りに出ていたことを記した資料があります。

下記がそれです。

 

明治末期迄神輿渡御の列は、先づハッピと下ズボンに赤毛糸を飾り鬼の面を肩にした鬼が先行し、次に二人が担いだ太鼓、数人の御道具持、乗馬の神主と続き、神輿の後には申上を収める櫃、神職、総代等続き、其の後を屋台の列がお供して賑かであった。

出所:高井幸太郎(1983)「史跡巡雑詠集(其の二一)」『小松史談』99号, p. 2.

 

ここに『鬼の面を肩にした鬼』とあるように、三嶋神社もかつては鬼面を被らない「鬼」が祭礼に出ていたことが分かります。

赤毛糸を飾り』というのも旧西条藩地区の白房に相当する鬼の体毛と思われます。

現在はもう「鬼」は出ていませんが、古面が二枚ほど三嶋神社に残っています(写真23参照)*50

 

写真23 三嶋神社の古面

(伊曽乃神社宝物館にて筆者が撮影*51

 

製作年は二面とも不明ですが、右の黒面は伊曽乃神社所蔵の鬼面と同系統と言っても差し支えないでしょう。

本稿で紹介した鬼(鬼頭と警備士を含む)はいずれも現・西条市内の祭礼民俗ですが、隣の新居浜市*52の離島である大島(旧西条藩領)にも鬼文化が残っています。

下記の写真24、並びに写真25に写っているのは大島八幡神社新居浜市大島)の鬼です。

 

写真24 大島八幡神社の昭和60(1985)年頃の鬼⑴

提供:佐藤秀之氏

 

写真25 大島八幡神社の昭和60(1985)年頃の鬼⑵

提供:佐藤秀之氏

 

二人の鬼の役割は御神輿の警護と言われており、二面とも現在の祭りにおいても使われています*53(写真26参照)。

 

写真26 大島八幡神社の古面

(あかがねミュージアム*54にて筆者が撮影)

 

かつては当該鬼面を被るのは西之町の青年団の役目とされていましたが、昨今は人口減少が著しい*55ことから被り手を同町の青年団に限るという決まりはなく、上之町や中之町の青年団が被ることもあります*56

以上が伊曽乃神社周辺部の鬼文化です。

 

今後の課題

 

本稿では伊曽乃神社を中心に東予地区の鬼文化の歴史と現況について紹介しましたが、愛媛全域を見渡しても祭礼民俗としての鬼は各地で見られます。

例えば中予地区ではダイバ*57、もしくはダイバンと呼ばれる鬼が出ます*58

ダイバは呉の川尻地区や蒲刈地区の祭りでも見られ、何らかの関連性を連想させます。

また南予地区では旧宇和島藩領や旧吉田藩領を中心に牛鬼と呼ばれる鬼*59が広く分布しており、南予と隣接する高知県の一部も含めるとその数は約150箇所にのぼると言われています*60

これらについては、今回の愛媛取材では調査を行っておらず、「伊予の鬼文化」を詳らかにする上で残された課題です*61

また、冒頭で述べたように本稿では「呉のやぶ」の起源と語源について、海軍勃興期における他県からの転入者による「揶揄」説を一つの可能性として示したものの、当該説そのものの検証や、「揶揄」した転入者が本当に伊予国出身者であったかの実証はひとまず脇に置いています。

そのため今後は未だ発見に至っていない発祥起源に関する一次史料の発掘を行う傍ら、愛媛以外からの転入者*62による「揶揄」も視野に入れ、当該地の鬼文化を江戸期から明治期まで遡って明らかにすることも今後の課題です。

 

最後に

 

本稿では東予の鬼文化について紹介しましたが、一連の取材過程で最も圧倒され、感銘を受けたのは、江戸、明治、大正、昭和の当地の祭り(主として伊曽乃祭礼)に関する調査の膨大な蓄積で、その質量たるや実に羨ましい限りでした。

中でも文献が充実しているのはだんじりです。

あの江戸期の絵巻に鬼とともに描かれていたもので、当時から今日に至るまでその多くが地元の大工や絵師、彫刻師、塗師、縫師によって製作されてきました*63

現在の伊曽乃祭礼におけるだんじりは、当地で「屋台」と呼ばれているものが78台、「みこし」*64と呼ばれているものが4台で、これらが旧一町四村*65を起源とする5つの小学校区内、計82地区から出て、統一運行を行っています*66

屋台は唐破風屋根の二層または三層の彫刻屋台で、檜白木に彫刻を施したものと黒・朱塗りで彫刻を極彩色に彩ったものがあり、一方、みこしは金糸の立体刺繍で飾られた布団太鼓に大きな木製の車輪が備わっています*67

(スライドショー5参照)。

 

スライドショー5 屋台・みこし

...

佐藤秀之氏・佐藤嘉之氏撮影

 

前者は舁き(担ぎ)、後者は曳くところにその特徴があります。

最も古い現役のだんじりは、天保11(1840)年に製作された神拝校区・古屋敷の屋台で、西条市指定有形民俗文化財となっています。

また文久2(1862)年建造の旧魚屋町屋台や江戸後期から明治中期にかけて作られた新町のみこしも同じく市指定有形民俗文化財の認定を受け*68、SAIJO BASEに常設展示されています*69(写真27参照)。

 

写真27 旧魚屋町屋台(左)と新町のみこし(右)

(SAIJO BASEにて筆者が撮影)

 

こうした江戸期の頃から各町の競争意識もあってだんじりは大型化し*70、既に細見図絵巻の時代に三層式の屋台が全体の4分の1超を占めるに至っています。

もちろん、「大型化」というのは高さ方向に限った話ではありません。

比較的、西条城下町に多かった二層屋台も幅、奥行きが広く、木柱も太い「大型」のだんじりで、豪壮さという点で決して三層屋台に劣ることはありませんでした(写真28、並びに写真29参照)。

 

写真28 豪壮な西条城下町の二層屋台(上横町屋台、紺屋町屋台など)

提供:近藤仁氏

 

写真29 豪壮な西条城下町の二層屋台(旧上横町屋台*71

提供:佐藤秀之氏

 

しかし、町々の対抗心が三層屋台ならではの豪華さを希求する一方向へと向かわせ*72、時代の推移とともに新調屋台は三層式が主流となっていきました。

併せてだんじりそのものの数も大幅に増加しています(表1参照)。

 

表1 だんじり数の推移*73

数値データの出所:佐藤秀之(1991)「ふるさとの祭り:祭礼風流『西條祭だんじり・みこし・太鼓台』」『西条市生活文化誌』西条市, pp. 899-900.

 

背景には戦前における地区の分化と、昭和54(1979)年からの新調ブームがありました。

地区の分化については、例えば、栄町(神拝校区)は栄町上組・中組・下組の3地区に、常心(大町校区)は常心上組(大南)・下組(中南)の2地区へといった具合に旧来の地区が各々複数に分かれていったことを指し、これによってだんじり奉納を行い得る単位数そのものが拡大しました*74

その結果、みこしも含めて20台余りだっただんじり数は、明治、大正と増え続け、戦前の昭和期には40台に達しました。

ところが戦後、とりわけ高度経済成長期*75は祭りでの喧嘩を抑制することを目的に大人用のだんじりを売却し、子ども用のだんじり(写真30参照)を新調する地区が増えたため、伊曽乃祭礼に出される大人だんじりは一時、その数を減らし*76、戦前のピークを下回る時期が続きました。

 

写真30 子ども用のだんじり

提供:佐藤秀之氏

 

潮目が変わったのは玉津校区の横黒屋台が新調された昭和54(1979)年でした。

当時、1)戦前に製作されていたような立派な屋台を作ることのできる職人はもういない、2)いたとしても一体どれほどの費用がかかるか分からないと思われていました。

そうした中、横黒地区において西条市内の大工、金森正一棟梁のもと、香川県志度町(現・さぬき市)の植村旭峰師による彫刻によって戦前以来の「立派な屋台」が作られたのです。

これによってこの域の職人が今なお存在することも、また製作費用がいかほどかも分かり、瞬く間に他地区も知るところとなりました。

折しも戦後、子どもだんじりで育った大人が大人だんじりを欲するようになっていたこともあって、横黒屋台の新調を機に再び大人だんじりが製作されるというケースが相次ぎました*77

また、元々だんじりを有していなかった新興町や旧武家町も次々とだんじりを購入・製作するようになり、それまで概ね40台前後で推移していただんじり数は平成初頭には約80台へと一気に倍増するに至ったのです*78

しかしこれだけだんじりの数が増大した今も絵巻時代と概ね変わらない行路、順番による巡行が守られているのは、ちょっとした驚きです。

さらに驚嘆に値するのは、これら一つ一つのだんじりがいつ誰によって作られ、その後、どのような修理・改造を施し、さらにどの地区からどの地区へと譲渡されたのか*79、また新調される以前の先代のだんじりや先々代のだんじりについてもその仔細が明らかにされている点です。

呉の読者は「だんじり」を「やぶ」に置き換えてみると、こうした史実が解明されていることの凄さが容易に理解できるでしょう。

その先駆的研究が昭和50(1975)年に民俗雑誌「伊予の民俗」(写真31参照)に掲載された論文、「伊曽乃祭礼『楽車』考」*80(以下、「楽車」考)です。

 

写真31 伊予の民俗

(筆者が撮影)

 

驚くべきことにこれを著したのは今から48年前の高校1年生(昭和34年生まれ)でした。

少年がだんじりの調査を始めたのは中学時代に遡ります。

小学生の頃、クラスの友人とだんじりの知識を競い合っていた少年は、中学に入学すると、郷土研究クラブ(以下、郷土クラブ)に入部し、神社・仏閣を調べる班のもとで伊曽乃神社の祭りについて調べ始めました。

ところが西条祭*81については、西條市誌にも詳しい記述がなく、刊行文献はほとんど皆無でした。

そこで入部二年目に「西条祭り研究班」を立ち上げ、カメラ、テープレコーダー、記録ノートを持ってフィールド調査を開始したのです。

戦前の著名な郷土史*82を父に持つ郷土クラブの顧問の高橋和彦先生から指導を受ける傍ら、西條市誌を編纂した久門範政先生を訪ね、教えを請うなどして、研究を行いました*83

上記の「楽車」考はその成果をまとめたものです。

論文の冒頭で少年は『この小文は、失われようとしている伊曽乃祭礼「楽車」の古をたずね、現在の姿を追い、古老からの伝聞を聞き、わずかに残された古文書の類をのぞいて記録したものの一部である』とし、『これだけのものすら、今、記録に残しておかなければ、全て忘れ去られてしまいそうなおそれを感じる』と半世紀前から郷土の祭礼史研究を民俗文化の伝承に不可欠なものとしてとらえていました。

「楽車」考の発表後も高校の史学部、地理部でだんじりの調査を継続し、大学1年生になった昭和54(1979)年には「改訂版 伊曽乃祭礼楽車考」(以下、改訂楽車考)を上梓しました(写真32参照)。

 

写真32 改訂楽車考

(筆者が撮影)

 

前著、「楽車」考のあとがきで『この資料をもとに、優れた方々が、不備を補い、ご批正くださることをお願いしたい』と結んでいましたが、16歳の少年から20歳の青年へと成長した著者本人が前著の不備を補う以上の増補を行いました。

本書が他の追随を許さない圧倒的な研究成果であったことは、その目次を見るだけでも明らかです(スライドショー6参照)。

 

スライドショー6 改訂楽車考の目次

...

(筆者が撮影)

 

この改訂楽車考の序文には『江戸時代よりの伝統を持つ「伊曽乃祭礼」のだんじりについて、後進の寄るべき基本文献の一つも無い事に義憤のようなものを感じながら、「だんじり馬鹿」でなければできない事をやりあげてやろうと決意した』(pp. Ⅴ-Ⅵ)と綴られており、少年時の「義憤」が研究動機の発端であったことを明かしています。

その後大学を卒業し、愛媛に戻り、教員として教鞭をとる傍ら、ライフワークとして祭礼史、だんじり史の調査・研究を継続しました。

平成3(1991)年に発刊された「西条市生活文化誌」(西条市)の第7章「ふるさとの祭り」*84は楽車考シリーズの最終版とも言える位置づけで、発行者が西条市であったのは、一連の研究成果が行政からも社会・文化的に意義あるものとして認められた証左でもあります。

また教員としての最初の赴任地が西条市の隣の新居浜市だったということもあって、以前から興味を持っていた新居浜の太鼓台(写真33参照)についても勤務地での雑談などを通じて聞き取り調査ができ、平成2(1990)年に出版された「新居浜太鼓台」(新居浜市立図書館)の執筆陣に同市の教員という立場で加わっています。

 

写真33 大正14(1925)年製作の新居浜の太鼓台

(あかがねミュージアムにて筆者が撮影)

 

中学時代の郷土クラブから始まっただんじり研究も青年期から壮年期にかけて論文や著書が次々と公刊されるにしたがって、調査の仲間がどんどんと増え、平成12(2000)年には祭禮風流研究集團「蝙蝠團」(へんぷくだん)が結成されました。

メンバーには常務総代*85、鬼頭、屋台・みこし総代、彫刻師、縫師、提灯職人など伊曽乃祭礼に携わる様々な関係者が名を連ね*86、明治、大正、昭和(戦前)の古写真の収集なども精力的に行われました(写真34、並びに写真35参照)。

 

写真34 蝙蝠團によって収集された明治期の写真(御神輿を警護する鬼頭)

提供:蝙蝠團

 

写真35 蝙蝠團によって収集された大正末期の写真(玉津で差し上げる本町三丁目屋台)

提供:蝙蝠團

 

明らかになった歴史はだんじりの新調や復活などにも活かされています。

例えば令和3(2021)年に新調された大町校区・北之町上組屋台は昭和7(1932)年に製作された先代屋台をベースとしながらも明治33(1900)年建造の先々代屋台に見られる「義経記」彫刻を、現存する隅障子下絵から復刻しています(スライドショー7、並びにスライドショー8参照)*87

 

スライドショー7 現存する隅障子下絵

...

提供:高橋清志氏

 

スライドショー8 復刻された「義経記」彫刻(鞍馬山の二刀流牛若丸、橋弁慶など)

...

彫刻:杉森哲明師

提供:佐藤秀之氏

 

それも平成になって発見・収集された古写真の分析によって、それまでどこの屋台の図柄か分からなかった当該下絵が北之町上組の先々代屋台のものであると判明したからこそ復刻し得たのです*88

また、細見図絵巻に描かれている北の町屋台の扇の的も新調屋台で再現されました(写真36、並びに写真37参照)。

 

写真36 細見図絵巻に描かれている扇の的と弁慶橋

出典:東京国立博物館研究情報アーカイブズ(筆者が当該箇所だけを切り取り)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0030113

 

写真37 再現された扇の的

提供:佐藤秀之氏

 

これについても同絵巻が平成6(1994)年に東京国立博物館内で見つかった*89ことによって実現し得たわけです。

復刻や再現は伊曽乃祭礼のだんじりに留まりません。

丹原上町(旧松山藩領・西条市*90)の御輿楽車は昭和40年頃に姿を消し、昭和51(1976)年から一時子どもの太鼓台のみとなりましたが、平成になって御輿楽車が復活しました(写真38参照)。

 

写真38 丹原上町の御輿楽車*91

提供:佐藤秀之氏

 

その復興を陰で支えたのが蝙蝠團でした。

蝙蝠團の世話で、あちこちの中古を購入したり、蝙蝠團監修・支援のもと復元新調されたりしたのです。

その際参考にした古写真(写真39参照)では確認できなかった三角布団も「戦前は4枚あったが、古くなりボロボロになったので付けなくなった」という古老の証言をもとに復活させました。

 

写真39 丹原上町のかつての御輿楽車

提供:丹原上町自治

 

こうした取り組みの底流には『長い先人の歴史の中で守り育てられてきた有形無形の貴重な文化財*92に対する深い敬意があり、まさに祭礼研究との両輪によって、二十歳の青年が改訂楽車考で訴えた『後世に正しく伝承して行きたい』(p. Ⅸ)という意思の表れでもあります。

決してだんじりであれば何でも良いなどいった粗雑な態度ではなく、「うちのだんじり」(呉ならば「うちのやぶ」)が歩んできた歴史に対する畏敬の念すら感じられます。

さて、察しの良い読者は既にお気づきかと思いますが、今回の調査を全てアレンジし、取材に随行してくださったのは、半世紀前の「だんじり少年」、今年64歳になる佐藤秀之さんです。

現在は新居浜市市史編さん室に勤務し、愛媛県祭礼行事調査員(西条・新居浜担当)も兼務されています。

何の地縁もない筆者が伊曽乃神社や西条郷土博物館で古面を「特別に見せてもらえた」のも、全て佐藤さんが手筈を整えてくれたためです。

あかがねミュージアムで見学した新居大島の鬼面も元々は展示される予定はなかったのですが、筆者の訪問に先立って佐藤さんが関係者の方に打診してくださった結果、急遽、公開展示が決まったというのが真相です。

言うまでもなく本稿で紹介・引用した文献も佐藤さんから教えていただいたものばかりです。

お忙しい合間を縫って多数の資料を出し惜しみなく提供くださり、また理解の覚束ない筆者からの再三再四の質問、愚問にも懇切丁寧に回答・指南いただいたお陰で、初の県外取材を拙いながらも本稿にまとめることができました。

貴重な古写真を数多く提供くださった蝙蝠團の黒田輝義さん、越智登志正さん、高橋清志さん、近藤仁さんにもこの場をお借りして感謝申し上げます。

佐藤さんが半世紀をかけて積み上げてきた研究成果の足元にも及びませんが、筆者も「呉のやぶ」史の調査をライフワークとして続け、『天と地と伝統と共同体に対する共感こそが祭り』*93をモットーにその成果を今後の呉の祭りに少しでも役立てていければと思っています。

昭和の末期に佐藤さんが投げかけた『祭やその風流*94が時代と共に変貌することは否み得ないとしても、(中略)何を残し、何を加えるのかの選択に、地域社会の人々の良識が働くことを切望する』*95という訴えは伊曽乃祭礼に限った話ではなく、呉を含む各地において『地域社会の人々の良識』が今なお問われ続けていることを忘れてはいけません。

 

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*1:赤崎の初代面とその発見経緯については下記拙稿に詳述。

昔の祭り(赤崎神社編)

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2022/03/19/113953

*2:大正8(1919)年、広島県呉市創業の工業用研磨砥石の大手メーカー。現在、本社は東京都港区浜松町。

https://www.kgw.co.jp/company/outline/

*3:他にも天保5(1834)年の生まれで明治32(1899)年に歿した宮大工、岡本伊三郎が八咫烏神社(呉市宮原)に自らの彫ったやぶの面を奉納したという話が岡本家で伝承されているが、肝心の当該面が見つかっていない。

*4:藪医者の語源については、下記を参考に記述。

「やぶ医者」の「やぶ」って何のこと?/言葉のトリビアの館/日本漢字能力検定協会

https://onl.tw/ZdnYAjK

神永曉/「ヤブ医者」の「ヤブ」って何?/知識の泉/ジャパンナレッジ

https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=399

*5:人口については呉市統計書、並びに下記を参考に記述。

広島県教育委員会(2014)「富国強兵とひろしま:軍港 呉」『郷土ひろしまの歴史Ⅱ』pp. 8-13.

https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/164433.pdf

*6:その前年の明治19(1886)年、安芸郡呉港が第二海軍区鎮守府の建設地に決まる。

*7:その後も人口の増加は続き、昭和18(1943)年には404,257人(全国第7位)とピークに達する。

*8:呉新興日報社編(1943)「大呉市民史(明治篇)」呉新興日報社.

*9:伊曽乃神社は昭和15(1940)年に国幣中社に列格した。国幣中社とは明治4(1871)年に制定された近代社格制度において、神社の社格を表すものの一つ。但し、同社格制度は終戦後、GHQが発した神道指令によって昭和21(1946)年、廃止された。

*10:西条藩の歴史については、下記を参考に記述。

データベース『えひめの記憶』/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)/五 一柳氏の伊予就封

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8048

データベース『えひめの記憶』/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)/1 松平頼純の就封

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8089

データベース『えひめの記憶』/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)/2 藩域

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8090

*11:次男直家は2万8,000石(内、5,000石は播磨国小野)、三男直頼は1万石を分与され、それぞれ川之江藩、小松藩の大名となった。なお、川之江藩は寛永19(1642)年、直家の急逝に伴い、翌年、天領編入され、松山藩預所となった。

*12:西条藩主は参勤交代のない定府であったため、ほとんど江⼾におり、⼀度も封地に来ない藩主もいた。

*13:その他に石岡、村山、黒嶋、一宮、周敷の5神社が西条藩祈願所六社に指定された。

*14:2023年2月18日、宮司の堀川修巧氏、権禰宜の髙橋政裕氏と面談。

*15:正確には福原敏男氏(武蔵大学)が伊予史談会文庫本を底本として翻刻し、一部伊曾乃文庫本で補ったもの。

*16:呉のやぶを数える際の助数詞は「匹」を用いるのが一般的であるが、本稿における鬼は花見日記にならい「人」で統一する。

*17:下記における福原敏男氏の現代語訳(要約)に筆者が加筆し、全訳の形に改めたもの。

福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版, p. 262.

*18:本稿では下記に示された時代区分法にならい、江戸中期を享保から寛政まで(1716-1800)、江戸後期を享和以降(1801-1867)とする。

田中克佳(2002)「都市江戸の成立:一般的背景」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学心理学教育学』, 54. pp. 1-11.

https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000054-0001.pdf?file_id=39067

*19:例えば、福原敏男氏は『見物衆を数万としている』点を指して、花見日記には『数の誇張もある』と以下で指摘している。

福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版, p. 276.

*20:下記を参考に記述。

福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版, p. 276.

*21:東京国立博物館研究情報アーカイブズにおいて公開されているデジタルコンテンツについては、非商業目的で同博物館の定める「デジタルコンテンツ無償利用条件」を満たす利用については、特別な手続きを経ることなく無償で複製、加工、出版物やウェブサイトへの掲載等を行うことができるとされている。本稿ではこれに則って掲載。

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1841

*22:当地の祭礼研究者、佐藤秀之氏による分析。具体的には、文政9(1826)年製作の喜多浜のみこしが描かれている一方、天保11(1840)年製作の神拝古屋敷の屋台が細見図絵巻におけるそれとは異なっていることから記載の考察に至ったもの。

*23:厳密には鬼と天狗は同種ではないが、伊曽乃祭礼では両者の役割や衣装などに大きな差異が見られないことから、本稿では天狗も広義の鬼として扱う。

*24:伊曽乃神社宝物館展示キャプションより。

*25:前記の佐藤秀之氏によると、略図絵巻は屋台やみこしが一台一台詳細に描かれている細見図絵巻とは対照的に装飾的であるため、屋台についても全て三層式として描かれるなど、大胆にデフォルメされている。そのため、厳密な年代鑑定が難しい。

*26:烏天狗も当地では鬼と呼ばれており、両者の間に階級差もない。

*27:但し、細見図絵巻では見られなかった烏天狗が略図絵巻に描かれているという一事実をもって、前者の時代に烏天狗は「存在しなかった」と断定できるわけではない。絵巻である以上、あくまで絵師の主観に基づいて表現されたものであり、記録としての客観性が100%担保されているわけではないことを付言しておく。

*28:昭和8(1933)年1月廃刊。この間、通巻457冊、ほかに約150冊の臨時増刊号が発行された。

*29:但し、大正期以降は大衆向けの娯楽雑誌となる。

*30:文芸倶楽部については下記を参考に記述。

文芸倶楽部 明治篇/ジャパンナレッジ

https://japanknowledge.com/contents/bungeikurabu/

文芸倶楽部 明治篇 刊行にあたって/ジャパンナレッジ

https://japanknowledge.com/contents/bungeikurabu/preface.html

*31:基本的に鬼(頭)に御神輿を担ぐ役目はないので、御神輿を警護している姿を、担いでいると誤認した可能性がある。

*32:左側の橋上にも中折帽を被った「鬼」が数人、確認できる。

*33:寺川が明治35(1902)年に撮ったという伊曽乃祭礼の二枚の写真は当該稿の掲載号に口絵として掲載されている。また当該写真は伊曽乃神社ホームページ上の「古写真アルバム」にも「寺川機山写」として紹介されている。

http://www.isonojinja.or.jp/oldalbum/

*34:後掲の写真28の一部を拡大したもの。

*35:写真7に写る「鬼」のタスキは既掲の写真3(明治末期)、写真4(明治末期)、写真5(明治35年)、写真6(大正10年)においては見られないことから、大正末期から昭和初期にかけて装着されるようになったと考えられる。

*36:このように六尺棒を持ち、帽子を被った姿で祭礼行事の警護を行う民俗は女木島(香川県高松市)の住吉神社大祭でも見られ、当地では「取締」(別名ボウツキ)と呼ばれている。

*37:2023年6月28日、前記の佐藤秀之氏よりオンラインにて聞き取り。

*38:天狗、烏天狗も含む。但し、子鬼(キャプションでは『小鬼』と表記)は除く。

*39:「背負う」と「腰に提げる」は同義ではないが、前者の姿をとらえた古写真は確認されておらず、寺川が後者の様子を前者のように表現した可能性もある。

*40:世襲家の出身であっても最初は見習いから始まる。また見習いの間は赤のタスキをかけない。

*41:毎年9月に開催されている伊曽乃神社鬼頭・屋台総代総会における配布資料の一つ。下記よりダウンロード可能。

http://www.isonojinja.or.jp/category/2-oni/

*42:見習い1名を含む。

*43:世襲家出身ではない氏子が新たに鬼頭になる場合も新面を製作している。

*44:栗田勝次氏による奉納面。

*45:2023年2月18日、代表理事・館長の真鍋和年氏、高橋亜弓氏と面談。

*46:下記には明治34(1901)年以降の60枚余りの守り札が付いた鬼面の写真が掲載されている。

久門範政編 (1966)「西條市誌」西条市, p. 976.

*47:福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版, p. 275.

*48:下記を参考に記述。

佐藤秀之(1979)『改訂版 伊曽乃祭礼楽車考』佐藤秀之, p. 7.

*49:寛永16(1639)年に風伯神社と今磯野神社が合祀。所在地は朔日市であるが、氏子区域は現在の西条校区、神拝校区、玉津校区にまたがる。これらの地区は伊曽乃神社の氏子区域でもあり、いわゆる二重氏子の祭りとして5月に祭礼が行われている。

*50:他にも鬼面とは別に鼻高の白色の古面が二枚ある。

*51:三嶋神社は伊曽乃神社の堀川宮司の実家でもあり、宮司職も兼務していることから、伊曽乃神社の古面見学に際して、三嶋神社の古面も併せて用意くださったことによる。

*52:明治11(1878)年に発足した新居郡の一角を占め、藩政時代の西条藩領、小松藩領、天領の一部からなる。

*53:2023年3月29日、大島八幡神社関係者にオンラインにて確認。

*54:新居浜市坂井町。2022年12月23日−2023年3月25日の間、大島の屋台とともに当該二面が同ミュージアムにて特別展示された。

*55:下記によると大島の人口は、昭和25(1950)年の1,838人をピークに減少の一途をたどり、平成27(2015)年度の国勢調査においては190人となっている。

新居浜市(2018)「離島の振興を促進するための新居浜市における産業の振興に関する計画」p. 1.

https://www.city.niihama.lg.jp/uploaded/attachment/35989.pdf

*56:2023年6月29日、大島八幡神社関係者にオンラインにて確認。

*57:提婆とも書く。

*58:下記を参考に記述。

大本敬久(2001)「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号, p. 19.

https://www.i-rekihaku.jp/research/kenkyu/detail/06-2.pdf

*59:牛鬼は『顔は牛とも鬼ともつかない形相で、胴体は牛を象った作り物』(下記, p.19)であるため、外見上、これを鬼ととらえることについては若干疑問の余地がある。但し、祭礼において『神輿渡御の先導を務めたり、地区内の家々をまわったりして、露払い、悪魔祓いをする』(下記, pp. 19-22)などその役割は鬼頭やダイバ・ダイバンと変わりないことから、下記においては鬼の一種として分類されている。

大本敬久(2001)「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号, p. 20.

*60:下記を参考に記述。

大本敬久(2001)「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号, p. 22.

*61:他にもハナタカとも呼ばれる猿田彦やホタ(宝多)と称する獅子の頭に似たものが御神輿渡御の先導や露払い役で祭礼に登場するところもあるが、これらは以下において鬼とは別のものとして分類されている。

大本敬久(2001)「愛媛の祭礼風流誌」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号, p. 20.

*62:例えば、古くから神楽が盛んで、明治末期において6番目に呉への転入人口が多かった島根など。

*63:棟梁と呼ばれる大工のもとで彫刻の下絵を描くのが絵師。下絵をもとに彫刻を彫るのが彫刻師。彫刻に色を付けるのが塗師。また布団締や水引幕に立体刺繍を施すのが縫師。以上は下記を参考に記述。

LOVE SAIJO編集部/西条まつりに息づく先祖の思い【前編】~だんじりに彫られた江戸の粋~

https://www.lovesaijo.com/news/saijobase_danjiri01/

LOVE SAIJO編集部/西条まつりに息づく先祖の思い【後編】~金色に輝く刺繍飾り編~

https://www.lovesaijo.com/news/saijobase_sishukazari/

*64:一般に「オミコシ」と呼ばれる「御神輿」とは異なる。

*65:西条町、玉津村、神拝村、大町村、神戸村。

*66:このうち1地区は、令和4(2022)年は統一運行に参加せず、町廻りのみを行った。なお、伊曽乃祭礼における「統一運行」とは、10月16日の祭礼日に御旅所を起点に決まった巡行路を決まった順番で行列運行することを指す。

*67:下記を参考に記述。

佐藤秀之(1984)「西条祭の御輿楽車について」『瀬戸内産業文化研究』№8, pp. 1-20.

佐藤秀之(1999)「西条のだんじり」『愛媛民俗伝承の旅 祭りと年中行事』愛媛新聞社, p. 24.

佐藤秀之(2023)「郷土芸能探訪91 西条祭」『文部科学教育通信』, № 554, p. 28.

*68:西条校区の紺屋町屋台、神拝校区の辯財天屋台、氷見校区の寺之下屋台(石岡神社)も市指定有形民俗文化財となっている。

*69:他にも嘉永6年(1853)年製作の東光の屋台がSAIJO BASEに展示されている。

*70:下記を参考に記述。

佐藤秀之(1997)「西条・新居浜 だんじり、太鼓台と祭りの風流化」大石慎三郎監修『江戸時代 人づくり風土記 愛媛』農山漁村文化協会, p. 254.

*71:写真の当時は中野東光屋台。

*72:但し、明治31(1898)年に三層屋台を売却し、二層屋台を新調した古町(石岡神社/現・氷見校区)や、昭和3(1928)年に三層屋台を新調しながらも戦後、これを売却し、一時期、二層屋台を購入・使用した喜多町(現・西条校区)など、逆方向の事例もある。

*73:子どもだんじりは除く。なお、傘鉾(笠鉾)は正徳元(1711)年から享保(1717)年にかけての新居浜・一宮神社や宝暦7(1757)年の石岡八幡宮(現・石岡神社)の祭礼記録においても見られ、練り物の一つと考えられている。しかし、伊曽乃祭礼における天明6(1786)年の北川村傘鉾がその後、喜多川村の下喜多川みこしに発展したように、傘鉾は『後に御輿太鼓(太鼓台、布団太鼓)にとってかわられていった』(下記, p. 271)。

福原敏男(2003)「『伊曽乃祭礼細見図』考:瀬戸内祭礼文化圏の一事例」薗田稔・福原敏男編『祭礼と芸能の文化史』思文閣出版.

*74:江戸期から昭和54(1979)年までの地区分化の系譜は下記に詳述されている。

佐藤秀之(1979)「改訂版 伊曽乃祭礼楽車考」佐藤秀之, p. 114-120.

*75:昭和30(1955)年頃から昭和48(1973)年頃まで。

*76:但し、だんじりの主な売却先は伊曽乃神社の祭礼地区内であったり、あるいは石岡神社の氏子区域など近隣エリアであったため、西条市とその周辺部における大人だんじりの総数は必ずしも減ったわけではない。また、子どもだんじりも含めると、当該期のだんじり数は増えている。

*77:昭和53(1978)年にだんじりの運行が校区別編成による順番に改まった際に、当時、大人だんじりの欠番を有していた地区が大人だんじりの復活・奉納を慫慂されたのもその一因となった。

*78:下記によると、昭和40年代にだんじりが『少人数で楽に長時間の運行ができるようになった』技術革新が起きたことも、後の新調ブームを誘発する一因になったと分析している。

佐藤秀之(1991)「ふるさとの祭り:祭礼風流『西條祭だんじり・みこし・太鼓台』」『西条市生活文化誌』西条市, p. 900.

*79:当地では新調に伴って先代のだんじりが他地区に譲渡(売却)されるケースが多い。

*80:佐藤秀之(1975)「伊曽乃祭礼『楽車』考」『伊予の民俗』第10号, pp. 1-21.

*81:西条市(行政)は旧西条市内に鎮座する石岡神社(10月14日・15日)、飯積神社(10月16日・17日)、嘉母神社(スポーツの日の前々日・前日)の祭礼と併せて「西条まつり」と総称している。

https://www.city.saijo.ehime.jp/soshiki/kanko/maturi2.html

*82:高橋彦之丞。

*83:昭和48(1973)年には略図絵巻を参考にだんじり好きの友人5人と「新伊曽乃宮祭礼屋台絵巻」を制作。幕の模様や色彩など、逐一写真にあたり、当時のだんじりを中学生なりに記録した絵巻は、平成12(2000)年に愛媛県歴史文化博物館で開催された企画展「愛媛まつり紀行:二十一世紀に伝えたい郷土の祭礼」において資料として展示された。

*84:佐藤秀之(1991)「ふるさとの祭り:祭礼風流『西條祭だんじり・みこし・太鼓台』」『西条市生活文化誌』西条市, pp. 891-999.

*85:各校区(旧町村)の代表。

*86:既に役を離れた元常務総代や元屋台・みこし総代を含む。

*87:他にも先々代屋台の正面に彫られていた「勧進帳」の武者絵も別の図柄ながら新調屋台に引き継がれた。

*88:北之町上組の先々代屋台は、昭和32(1957)年に常盤巷(現・西条校区)へ売却された。その後、隅障子は損壊し、昭和40年代に唐獅子牡丹に彫り直されたため、「常盤巷屋台」の古写真が発掘・分析されるまで、従前の図柄が分からなくなっていた。なお、当該屋台は、その後も船元町(現・西条校区)へとオーナーが変わり、元々は素木だったのが黒塗りへ、さらに二層式だったところを一階部分を付け足し、三層屋台へと改造されている。

*89:但し、傷みが激しく、全ての撮影が終わり、蝙蝠團に披露されたのは平成12(2000)年。

*90:旧・丹原町

*91:春は恵美洲神社(4月第3日曜日)、秋は福岡八幡神社(10月15日-16日)の祭礼に出る。なお、福岡八幡神社は旧丹原町の総氏神で、恵美洲神社は丹原の中心地である上町、下町の氏神

*92:佐藤秀之(1988)「新居大島秋祭の一考察:祭礼風流の伝播試論」『文化愛媛』第18号, p. 25.

*93:下記に対する松友孟氏(愛媛県社会経済研究財団専務理事)の講評からの引用(下記, p. 4)。

佐藤秀之(1988)「新居大島秋祭の一考察:祭礼風流の伝播試論」『文化愛媛』第18号, pp. 25-46.

*94:風流とは、下記において、⑴趣向をこらした人工的な細工物、⑵とりわけその華美な様子、⑶それらによって特色づけられる祭礼もしくは芸能、と定義されている。

守屋毅(1987)「近世の都市生活と風流の展開」『国立歴史民俗博 物館研究報告』第15集, p. 142.

*95:佐藤秀之(1988)「新居大島秋祭の一考察:祭礼風流の伝播試論」『文化愛媛』第18号, p. 40.