初めて訪ねる祭りには、言いようのない高揚感を覚えます。
今回、足を運んだのは、栃原の里に鎮座する竹内神社*1。
毎年、10月第2月曜日の体育の日に例大祭が行われています。
この日、栃原入りしたのは、午後2時頃。
やぶや太鼓が宮入する少し前です。
一足先に境内に足を踏み入れると、長さ13m以上もあると言われる、とんでもなく大きな幟が目に飛び込んできました。
見ると、「昭和三十年」と書かれたものもあり、60余年の年月が醸し出す風合いのせいか、風情に満ちた光景が広がっています。
倉庫の中には明治時代の幟も残されているとか。
そう教えてくださったのは、地元の自治会長さん。
栃原の祭りに最も詳しい方と聞き、声をかけさせていただきました。
そうこうしているうちに、祭礼一行が神社に到着。
瞬く間に境内は法被を着た人たちでいっぱいになりました。
しかし、それにしても幟の美しいこと。
秋の日差しが透けて通るせいか、南に向いて立つと絵幟の美しさが際立ちます。
「幟祭り」という異名をとるのも頷けます。
さて、初めての地で感じる「高揚感」の源泉は、やはり何と言ってもやぶ。
歴史がある祭りではなおのことです。
ここで目の当たりしたのは、隣町の焼山、高尾神社の伝統的なやぶ*2に比較的よく似たやぶ、四匹。
「よく似た」と言うのは、旧呉市内各地の神社のやぶに比べて、髪の長さや衣装の柄が特徴的な点。
但し、焼山のやぶと違って、髪の素材は和紙のようで、この点は大きな相違点となっています。
そんな中、一匹だけ明らかに顔立ちが異なるやぶがいました。
それがこちら。
まるで牛のように角が長く、湾曲しており、この一匹だけは焼山のやぶとも似ても似つかない面立ちをしていました。
こうした独特の特徴を持つ栃原のやぶは、一体どういった歴史を経て、今日に至っているのでしょうか。
先ほどの自治会長さんにこの点を尋ねてみると、元々は西と東の二地区からやぶが四匹ずつ出ていたとのこと。
そう言えば、先の幟に「西谷」、「東谷」と書かれてありました。
西、東というのは、そのことを指しているものと思われます。
また自治会長さんによると、各地区からそれぞれ出ていた四匹のやぶのうち、三匹についてはいずれも、一番やぶ、二番やぶ、三番やぶというのがその呼称。
そして、残る一匹ずつについては、西は「爺鬼」、東は「婆鬼」と呼んでいたそうです。
なぜ、爺、婆なのか、由来は不明ですが、その振る舞いは一番から三番までのやぶとは明らかに異なっており、祭りの最中、やぶをからかう子どもたちを境内で追い回し、ときに竹で叩くのは、もっぱらこの爺、婆の二匹だったようです。
「だった」と過去形で書くのは、この数十年、爺、婆のいずれも祭りに出ていないからです。
一方、一番から三番までは子どもを追いかけ回したりせず、一体何をしていたのかと言うと、祭礼の最中、子どもたちが甲手山八幡宮(こてやまはちまんぐう)の敷地内に立ち入らないよう、見張っていたそうです。
それは爺、婆なき今の時代にも受け継がれており、この日も四匹のやぶがしっかりとその役を果たしていました。
ところでこの「甲手山八幡宮」というのは、竹内神社の敷地内に設けられたいわゆる境内社で、あくまで竹内神社とは別の神社です。
そこをなぜ見張り、守っているのかと言うと、実はこの地こそ、呉浦3村の総氏神であった亀山神社が入船山に遷座される前に鎮座していたとされる「特別な場所」だったからです。
実際、明治初期に既に失われていたという古文書に、次のようなくだりがあったと言われています*3。
安藝国 栃原村甲手山に天降り給ひ、後、
呉宮原村字亀山 (素は入船山と称せしも御遷座の時亀山と名付く)の地に鎮座せり
これによると、亀山神社は筑紫国姫島(現在の大分県東国東郡姫島村)から白鳳8年に栃原村甲手山へ遷座されたとあります。
白鳳8年というのは、西暦で言うと668年。
大化の改新の立役者、藤原鎌足が生きた飛鳥時代という気の遠くなるような「昔」の時代です。
その後、亀山神社は大宝3年(癸卯)、西暦703年に入船山へと再び遷座され、以後、明治19年に呉浦に海軍鎮守府が設置されることが決まるまで、1,200年近くに亘って、当地に鎮座し続けました。
そうした歴史的経緯を踏まえ、後世になり甲手山八幡宮が祀られ、さらにその後、竹内神社の境内に境内社として建立されたのが、上の写真のやぶが見張り、守っていた場所だったのです*4。
このように甲手山八幡宮というのは、亀山神社が当地に鎮座していたとされる時代にまで遡ると、伝承記録に残る社としては県内でも五本の指に入るほど古い歴史を持つ神社と言われています*5。
こうした由緒ある地を守る象徴的行為が、東西の各一番から三番までの六匹のやぶが担っていた重要な役目であり、それが東西合わせて四匹となった今も受け継がれているというのです。
事実この日も、そのような事情を知らない子どもたちが、この地へ立ち入ろうとした際、それを制止していました。
郷土の誇りを後世に伝承する一つの知恵なのかもしれません。
ちなみに当地の警備に際しては、鳥居のある表側に三匹が居並び、一方、盲点となりがちな裏口についてもきちんと一匹が目を光らせて立っていました。
全くもって隙がありません。
また、他にも竹内神社の祭りで目を引いたものをもう一つ挙げるとすると、こちらの傘。
もちろん、これが実際のところ「傘」なのかどうなのかは不明ですが、秋の日差しが強い中、祭礼一行の女性の何人かがこの中に収まっていたことから、機能的には日傘の役目を果たしているようにも見えました。
参考までにこれを何と呼ぶのか、中の女性に尋ねてみたところ、どの方も名称は分からないとのこと。
ただ、笛太鼓の囃子が始まると、この「傘」をぐるぐると回すことで、祭りの賑わいに一役買うといった役割もあると伺いました。
確かにこれが勢いよく回ると、色の豊かさもあってか、場が華やぎます。
その後、一行は神社を出て、神幸祭の場所へと移動を開始。
道中の小道にやぶや「傘」、神輿が連なり、その様子が絵になります。
神幸祭が行われた場所は、神社の裏地。
厳かに執り行われる神事を傍らから見学した後、「高揚感」覚めやらぬまま、栃原の里を後にしました。
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