呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

「呉のやぶ」展を終えて

はじめに

 

早いもので「呉のやぶ」展(以下、「やぶ展」)が終わり、2ヶ月が過ぎました。

8月29日から10月8日までの会期中、総計3,167人もの方が足を運んでくださり、その反響ぶりに誰よりも筆者自身が驚いています。

また、嬉しいことに575人もの方が芳名カードに記帳してくださいました。

大半がこの度の企画に対する好意的な感想でしたが、多数の質問や要望なども寄せられています。

本稿では、それらに可能な限りお答えし、ご来場くださった方との最後の「対話」に代えさせていただきます。

 

振り返り

 

さて、本題に入る前に、やぶ展に来られなかった方のために、やぶ展そのものを簡単に振り返っておきます。

やぶ展における主要な展示物は写真で、具体的には下記の計135枚(パネル総数38枚)でした。

 

1)筆者が撮った「今の祭り」の写真

①24枚(1枚のパネルに1枚の写真)

②50枚(1枚のパネルに複数枚の写真)

 

2)筆者が集めた「昔の祭り」の写真

61枚(1枚のパネルに複数枚の写真)

 

パネルの一例

...

 

また、これらに加えて、戦前もしくは戦後間もない頃から使用されているやぶの古面15枚と、戦前から使われていた衣装1点の展示も行いました。

 

古面と衣装

...

 

なお、古面に関しては、10月6日から8日までの最後の3日間のみ、1枚ほど入れ替えを行っているので、それも含めると正確な総展示枚数は16枚です。

竹内神社、西谷の三番やぶの面が10月8日の祭りに出されることになっていたので、お返しする必要があった、というのが直接の理由ですが、それと入れ替わりに展示することになったのが、約60年間、行方知れずだった八咫烏神社の旧二番面でした。

実は、昭和34年の祭りを最後に忽然と姿を消した八咫烏の旧一番、二番の両面は、今回のやぶ展をきっかけに見つかったのです。

 

旧一番と旧二番

f:id:shorikai:20181214084527j:plain

 

その詳細な経緯については、既稿「昔の祭り(八咫烏神社編):エピローグ」に記してあるので、そちらをご参照ください。

その意味で、当該面の入れ替え展示は、図らずも「やぶ展」それ自体の″自作自演″の企画となりました。

ちなみに1階入り口に展示してあった「戦前から使われていた衣装」というのは、奇しくも旧二番も袖を通したであろう八咫烏のやぶの昔の衣装です。

まさに偶然が幾重にも重なった展示となりました。

この「八咫烏のやぶ」に関する一連の小話にも見え隠れしているように、筆者が考える「呉のやぶ」の最大の特徴は、ローカル性と多様性であり、そしてそれを強く支えているのが積年の歴史に裏打ちされた変わらぬアイデンティティです。

やぶ展全体を貫くテーマがまさにそれでした。

以下は、やぶ展における「ご挨拶」からの抜粋です。

 

呉育ちの祭り好きの人は必ず「うちのやぶが一番じゃ」と主張します。

これは一体どういうことなのでしょうか。

実は、一口に「やぶ」と言っても、その見た目は旧呉市内と旧警固屋村、旧昭和村とでは随分と異なっています。

また同じ地域でも神社が違えば、面の顔つきや衣装、振る舞い等、その特徴は様々です。

もっと言うと同じ神社であっても奉賛会や地区によって、さらには個々の面によってもなお細やかな違いがあります。

「うちのやぶ」という言い方の背景には、こうした著しいまでのローカル性と多様性があるのです。

しかもそのローカルで多様なやぶの多くは、戦前から一貫して各々のアイデンティティを変えることなく、今日までその歴史を積み重ねています。

そこに「うちのやぶ」に対する深い思い入れと絶対的な自信が宿っているのです。

本写真展では、足かけ6年の取材成果を厳選して展示し、この呉ならではの民俗文化の知られざる歴史、驚くべき多種多様な様をつまびらかにします。

 

 

上記の芳名カードにおける「好意的な感想」の中には、こうしたやぶのローカル性と多様性に対する驚きも多く含まれていました。

もちろん、「うちのやぶが一番」であることに変わりはないのですが、それはさておき、一度、「呉のやぶ」を横断的に見ていただこうというのが、やぶ展の主眼の一つであっただけに嬉しいコメントでした。

一方、芳名カードには、既述の通り、様々な質問や要望なども寄せられていました。

以下、そのご紹介をしながら、答えられる範囲でお答えします。

 

質問と要望

 

1. 質問

 

やぶの雌雄について

1-1 やぶも神社で色々な顔と呼び名があるんですね。雄雌いるんですか?

全てのやぶに雌雄の区別があるわけではありません。

筆者が知る範囲では、宇佐神社の祭りにおける北区のカッパ、中央区のヨダレ、西区のニグロ、高尾神社における東区のガッソーは、基本的には雄1匹、雌1匹のつがいとなっています。

一方、旧呉市内でも、例えば鯛乃宮神社の一番やぶが雄、二番が雌とされているように一部において雌雄の区別がありますが、全てのやぶを雄か雌かのいずれかに厳密に区分しているわけはありません。

 

つがいのやぶ

...

 

1-2 雄、雌の見分け方は?

共通の見分け方というものはなく、個別に判断するしかありません。

例えば、宇佐神社の北区のカッパは、顎に髭があるのが雄、ないのが雌。

中央区のヨダレは、口が開いているのが雄で、閉じているのが雌。

これらは比較的、区別しやすいのですが、西区のニグロは、眉と口の曲がり具合において勢いがある方が雄、そうでない方が雌とされており、丹念に見比べないと分かりません。

また、高尾神社の東区のガッソーは、上下の前歯がくっ付いているのが雌、離れているのが雄とされていますが、こちらもかなりの至近距離で見ないと判別が難しいです。

鯛乃宮神社では、口が閉じている一番が雄、口が開いている二番が雌とされていますが、八咫烏神社ではそれとは逆の基準が伝承されており、同じ旧呉市*1でも地域によってまちまちです。

いずれも「昔からそう言われている」というのが唯一にして絶対的な根拠であり、逆に言うと、「昔の人がそう決めた」に過ぎません。

もちろん生物学ではないので、判別基準の正しさを問うても仕方なく、むしろ忠実にそれが伝承され続けている点に民俗学上の面白さがあると考えています。

 

やぶの分類について

1-3 別名が付いているのはなぜ?ニビキ、ガッソー?なぜそう呼ぶのか?

「別名」というよりも、例えて言うなら「種」です。

ネコ科にライオン、トラ、チーター、ジャガー、ヒョウといった種がいるように、やぶにも様々な種がいます。

例えば、宇佐神社の祭りにおける、カッパ、ヨダレ、ニグロや、貴船神社におけるエンマ、ダンゴ、ニグロなどがそうです。

かつては、ムシクイやスイカと呼ばれる種もいました*2

また、高尾神社の祭りにおける、ガッソー、ニビキ、アカ、アオ、カッパや、向日原神社におけるアカ、シャク、ガッソーなども、同じく特定地域に「生息」する種です。

いずれも由来は不明です。

なお、やぶに「種」という概念が持ち込まれているのは、もっぱら警固屋地区、昭和地区において顕著に見られる傾向で*3、旧呉市内にはこうした文化的慣習は基本的には見られません。

中には、八咫烏神社の祭りで、下記の写真のやぶのことを「般若」とか「ベロ出し」などと呼んでいる事例もありますが、それは「種」というよりも、愛称、俗称の類です*4

 

ベロ出し

f:id:shorikai:20181214085642j:plain

 

1-4 やぶに番号が付いているのはなぜ?

番号は「位」を意味します。

大相撲の世界における横綱大関、関脇、小結といった番付のようなもので、一番やぶが最上位で、以下、二番やぶ、三番やぶといった具合に続きます。

こうした位に基づく分類を行っているのは、主として旧呉市内です。

逆に、警固屋地区や昭和地区のように「種」による分類を行なっている地域では、「位」という概念はありません。

多数のやぶを何によって分類し、どう識別するのかといった点に、各地の文化的特徴が表れています。

 

やぶと鬼について

1-5 吉浦の蟹祭りは鬼なのですが、なぜ、やぶの地区と鬼の地区があるのでしょうか?

呉市内の中でも、①鬼ではなくやぶという呼称が一貫して使われており、②戦前から今日に至るまで長きに亘ってやぶが出続けている、という二つの条件を満たしているのは、旧呉市内と警固屋地区、昭和地区の3地域に限られます*5

西は魚見山トンネルを越えて吉浦へ行くと、東は休山トンネルを抜けて阿賀へ行くと、やぶではなく鬼の地域へと変わります。

一つの可能性として、山という地理的な要因がやぶと鬼の文化圏を互いに隔てていたのかもしれません。

 

やぶ文化が戦前から根付いている地域

f:id:shorikai:20181110154505j:plain

 

1-6 吉浦では「鬼」と言いますが、「やぶ」との違いがありますか?

一言でいうと、顔つきが違います。

やぶは単に鬼の方言ではなく、やぶらしい顔つきをしていて初めてやぶとして認識されます。

その意味で、やぶは鬼と同義ではないというのが筆者の立場です。

詳しくは、既稿「やぶと鬼の違い」を参照いただくとして、ここでは下記の写真をご覧ください。

 

吉浦の鬼

f:id:shorikai:20181214085935j:plain

 

これは、吉浦の祭りに出た「鬼」です。

やぶらしい顔つきの要素は皆無で、どこから見ても鬼そのものです。

やぶ文化圏である旧呉市内、警固屋地区、昭和地区では一匹たりともこのような面は祭りに出ません。

もっとも、吉浦の祭りにおける全ての鬼がこうした顔つきをしているわけではなく、実際はやぶ顔の鬼もいます。

しかし、鬼顔の鬼とやぶ顔の鬼が混在し、かつそれらを鬼と総称しているのは、非やぶ文化圏ならではの特徴です。

言うまでもなく、祭りに出るのが鬼なのか、それともやぶなのかというのは、文化の違いです。

実際、吉浦の祭り関係者の方は「うちらの祭りは、やぶじゃなくて、鬼じゃけえ」と誇らしそうに語ります。

そうした誇りと自信が吉浦の鬼文化を支えているのだと思います。

 

1-7 なぜ鬼をやぶというのか分かりません

1-6に記載の通り、やぶは単に鬼の方言ではないというのが筆者の基本的な立場です。

やぶはやぶらしい顔つきをしていて初めて、やぶとして認識されます。

ではそのやぶの語源は一体何なのかというと、あいにくそれが確認できる史料は筆者が知る限り何もありません。

一説によると「藪の中から突然現れたから」とも言われていますが、俗説の一つに過ぎず、その真偽を確かめる術はありません*6

 

やぶの起源について

1-8 面がいつ頃できたのかとかも知ってみたいです

呉の祭りにやぶが出るようになったのは一体いつ頃からなのか。

その最初の面は何だったのか。

なぜどのようにしてやぶは広まっていったのか。

この一連の謎を明らかにするのが筆者の目指すゴールです。

目下のところ、龍王神社のやぶが写った大正14年の写真が、筆者が収集した最も古い歴史資料で、それ以前の時代の手がかりは得られていません。

 

龍王神社のやぶ

f:id:shorikai:20181214090149j:plain

大正14年撮影

提供:西平信夫氏

 

もっともその面を被っていた西平義三氏が「この当時でも、いつ作られたのかも分からない、『古い面』だった」(明治36年生まれ、平成14年没、享年98歳)という言葉を残していることからも、少なくともやぶはこの時代よりもずっと以前から存在していたものと思われます。

その証拠探しが現在、筆者のライフワークとなっています。

 

やぶの分布について

1-9 やぶは安芸門徒の分布と一致するのでしょうか?

そもそも安芸門徒とは安芸国浄土真宗門徒の総称で、安芸国とは、西は現在の大竹市、東は尾道市の一部にまで及ぶ広島県西部地域全域です*7

一方、やぶ文化は呉固有のもので、それも古くから存していたのは旧呉市内、警固屋地区、昭和地区とかなり限定的です。

このことからも安芸門徒の分布とは無関係と言えます。

 

その他

1-10 やぶになって良かったとか嬉しいことはありましたか?

筆者自身はやぶになったことは一度もありません。

今後もないでしょう。

被り手としてではなく、あくまで、一見物客としてやぶを楽しんでいるに過ぎません。

 

2. 要望

 

取材について

2-1 吉浦のかに祭りを一度見に来てください

2-2 吉浦の「かに祭り」は「やぶ」ではありませんが、「鬼廻り」という風習があります。「馬喰」というちょっと変わったものもいます。是非、見てみてください

吉浦の祭りには、これまで2013年、2015年、2016年、2017年の計4回行っています。

このうち、2015年と2016年については、本ブログにて下記の取材記事を書きました。

 

kureyabu.hatenablog.com

 

kureyabu.hatenablog.com

 

当該記事にも紹介している通り、「かに祭り」と呼ばれる当地の祭りは、迫力ある頂戴*8や他に類例のない馬喰、平日の小学校を午後休にして行う鬼廻りなど見所満載で、呉を代表する祭りの一つと言っても過言ありません。

但し、「鬼廻り」という言葉が象徴しているように、吉浦にはやぶ文化はなく、祭りに出るのはあくまで鬼です。

実際、1-6に記載の通り、吉浦の祭り関係者の方は、「うちらの祭りはやぶじゃなくて、鬼じゃけえ。やぶは呉の祭りじゃろ」と強調します。

言うまでもなく吉浦は現在、呉市の一部ですが、編入されたのは昭和3年で、いわゆる旧呉市内ではありません。

上記の祭り関係者の言葉の背景には、旧呉市内とは一線を画す吉浦独自の文化に対する誇りがあります。

したがって、吉浦の鬼を「呉のやぶ」と一括りにしないということが、当地の文化に対する敬意の表し方と考えており、今回のやぶ展では、敢えて吉浦の祭りの写真は展示しませんでした。

やぶ展は、あくまで筆者の最大の関心事である「呉のやぶ」文化のみを対象としたもので、それと一緒くたに扱うのは差し控えた次第です。

いずれにせよ、やぶという文脈から離れれば、吉浦の祭りに行かずして、呉の祭りは語れないと思っており、今後とも良い写真が撮れるよう毎秋、足を運ぶつもりです。

 

2-3 来年は天応は祭り、やりますので、大西自治会のやぶの撮影、お願いします

天応の祭りには、現在、大浜、大西、下西、三葉、本町、宮町、東久保、伝十原、天応区の計9地区が参加しています。

このうち、筆者がこれまで撮影したことがあるのは、下記の記事にある通り、大浜、三葉、本町、伝十原の4地区のやぶのみです。

 

kureyabu.hatenablog.com

kureyabu.hatenablog.com

 

大西については、だんじりしか撮ったことがありません。

今年は西日本豪雨による甚大な被害が生じたため、祭りの実施が見送られ、復興祈願祭という形で神事だけが執り行われたと聞きましたが*9、来年は盛大に祭りが行えることを祈念しています。

またその暁には大西を含む各地のやぶを、復興の証としてしっかりと写真に収めたいと思っています。

 

2-4 「松ヶ丘のやぶ」も是非観てください

2-5 是非一度ひばりヶ丘も来てください

筆者が、焼山の伝統的なやぶとして、本ブログやこの度のやぶ展などで繰り返し紹介してきたのは、北区のアカ、アオ、東区のガッソー、ニビキ、西区のカッパの計5種です。

3地区とも、明治以降の焼山村やその後の昭和村の時代から集落のあった地域で、焼山の「昔の祭り」はこの3地区の青年団によって行われていました。

しかし、昭和40年代以降、焼山ではあちこちに新興住宅地が開発され、当該地区からも「新種」のやぶが出るようになりました。

筆者がそれを初めて目の当たりにしたのは、昭和50年代の半ばで、当時、小学生でした。

焼山の伝統的なやぶとは随分異なる顔立ちで、その風貌に驚き、「これは一体なんなのか」と強い衝撃を受けたことを今でも昨日のことのように覚えています。

記憶の残像から推察するにあれはおそらく松ヶ丘のやぶだったのだろうと思います。

出で立ちが平原神社のやぶとよく似ていることから、当地の祭り関係者の方が中心になって始めたのかもしれません。

 

松ヶ丘のやぶ

f:id:shorikai:20181214091308j:plain

 

一方、ひばりヶ丘のやぶについては、その存在を知ったのは近年になってからで、未だ一度も実物を目にしたことはありません。

写真*10で見る限り、こちらの衣装は龍王神社のそれとよく似ていることから、こちらは辰川地区のあたりから移住してきた人たちが中心になって立ち上げたのかもしれません。

いずれにせよ、旧呉市内のやぶ文化を源流とする、焼山の新興住宅地のやぶは、まさに相次ぐ団地造成によって急速にベッドタウンとして発展を遂げた焼山の歴史そのものを投影した存在であり、焼山が「文化のるつぼ」であることを象徴しています。

来年以降、撮影の傍ら、そうした文化移入の経緯についてもお話をお聞かせいただけると幸いです。

 

2-6 郷原の新堂平神社にもお越しください

郷原の祭りについては、呉市の市史編さん室で戦前の写真を閲覧したことがあります。

まだ呉市編入される前の郷原村の時代で、そこには鬼らしきものが5匹ほど写っていました*11

この一点を取ってみてもその歴史は古く、もしそれが鬼ではなく昔からやぶと呼ばれ続けているのだとしたら、やぶ文化の東北端ということになります。

あいにく日程が旧呉市内の小祭りと重なっているということもあって、これまで一度も行ったことがありませんが、宵宮祭の日も含めて、一度、機会を作り、その姿をカメラに収めたいと思っています。

 

2-7 仁方皆実町のやぶを見てください

仁方の八岩華神社の祭りには、2012年以降、これまで計4回、足を運んだことがあります。

もちろんその際、皆実町のやぶも見ています。

 

皆実町のやぶ

f:id:shorikai:20181214091415j:plain

 

元々、やぶ文化は阿賀以東にはなく、今でも阿賀や広の祭りでは、「やぶ」ではなく「鬼」が出ます。

 

広の鬼

f:id:shorikai:20181214091437j:plain

 

そうした中、なぜ広よりもさらに東の仁方にやぶがいるのか、一体いつ頃から仁方にやぶが出るようになったのか、常々疑問に思っていました。

これらの取材も兼ねて、再訪の機会を伺っています。

 

2-8 11月3日は赤崎神社の祭りもありますので、是非、取材もよろしくお願いします

赤崎神社は亀山神社の飛地境内社で、同社の兼務社8社*12とともに旧呉市内における小祭りの一角を担っています。

ところが、これまで赤崎神社の祭りに関する情報は全く得たことがなく、やぶについてもいないものと思い込んでいました。

その認識が突然改まったのが今年の小祭りです。

伊勢名神社から長迫方面への移動中、見慣れぬやぶを伴った祭礼一行に遭遇したのです。

近づいてみると、法被に赤崎神社と書かれてあったことから、当地の祭りにもやぶが出ることを初めて知った次第です。

 

赤碕神社のやぶ

f:id:shorikai:20181214091535j:plain

 

最近出るようになったのか、昔から出ていたのか、分かりませんが、存在が確認できた以上、その点も含めて取材を行いたいと思っています。

 

2-9 朝日町廣鈴会も展示してください。見に来てくれたら嬉しいです

朝日町廣鈴会のやぶについては、伏原神社奉賛会のやぶとともに11月3日の15時頃、浜の宮となっている胡町公園に集まっていること、また同日の夕刻、伏原のやぶと合同で伏原神社において俵もみを行なっていることは承知しており、そのとき撮った写真を本ブログFacebookページ「呉のやぶ」に掲載したこともあります。

 

朝日町のやぶ

f:id:shorikai:20181214091647j:plain

 

ところが、同日の15時以前の動きに関する情報は全く掴めておらず、これまでのところ撮影機会が限られていました。

朝日町内に祠があり、そこで独自に神事を行なっているという話を聞いたことがあるのですが、裏付けは取れていません。

当該祠があるのだとしたらそれはどこなのか、またそこは朝日町のやぶにとってどんな意味があるのか、さらにはいつどのような経緯を経て、伏原のやぶと合同で俵もみをするようになったのかについては、大変興味があり、もしご存知の方がいれば取材を行いたいと思っています。

 

2-10 惣付・畝原・西辰川などの地区のやぶの写真を撮っていただけると嬉しいです

龍王神社の祭りには、2012年から「呉のやぶ」を撮り始めて以降、毎年欠かさず、足を運んでいますが、撮影してきたのは澤原家や勝田家、日留田家、鈴木家などの有名な古面が出されている龍王会のやぶのみで、惣付、畝原、西辰川等の各自治会から出ているやぶについては、昨年までは一度も撮ったことがありませんでした。

そうした中、今夏、龍王神社の「昔の祭り」を調査していたところ、昭和30年代前半の畝原地区の青年団が写った下記の白黒写真を入手しました。

 

畝原地区の青年団

f:id:shorikai:20181214094835j:plain

昭和30年代前半撮影

提供:平松数治氏

 

気になったのは、勝田家、日留田家の面とともに写っていたやぶの面で、調べてみたところ、それは平田家の面であること、また今でも当該面は畝原自治会から祭りに出されていることが判明しました。

そこで、今秋は毎年撮っている龍王会のやぶに加えて、畝原のやぶも追うことにし、早朝の神社におけるお祓い時やその後の町回りへの出発時に写真を撮りました。

下記はそのときの一枚です。

 

平田家の面

f:id:shorikai:20181214094920j:plain

 

きっかけは白黒写真で見た平田家の面でしたが、練習段階からの取材を通して感じたのは、祭りに対する熱量の高さです。

とりわけ、子どもたちの本気度は、さすが龍王神社のお膝元と感じ入るほどで、祭り好きのDNAは世代を超えて今なお息づいていることを実感しました。

今年は自治会から出ているやぶは、畝原地区しか撮っていませんが、惣付や西辰川のやぶについても順次撮影を行いたいと思っています。

 

展示写真について

2-11 阿賀がない

阿賀の神田神社の祭りも、吉浦の吉浦八幡神社の祭りと同様、呉を代表する祭りの一つと言っても過言ではありません。

筆者自身、2015年に阿賀の祭りを訪ねたことがあります。

そのときの取材記事がこちらです。

 

kureyabu.hatenablog.com

 

吉浦の祭りの華が頂戴なら、阿賀は太鼓。

とんでもなく古くて大きい太鼓を血で染めながら一心不乱に叩き続ける光景は、圧巻でした。

但し、本稿でも繰り返し述べてきているように、阿賀にやぶ文化はなく、祭りに出るのは鬼です。

やはり吉浦と同様、阿賀の祭り関係者の方も「やぶは呉の祭りじゃろ。うちらは鬼じゃけえ」と言い、やぶと一緒くたに扱われることを嫌う方もいます。

単なる呼称の違いではなく、「やぶは鬼とイコールではない」という立場を取る筆者からすると、「鬼はやぶではない」という阿賀の祭り関係者の方のお気持ちもよく理解できます。

そのため、今回のやぶ展では、阿賀の鬼を「呉のやぶ」と同じ場で展示することは控え、やぶ文化が戦前から根付いている地域の祭りのみを取り上げることとしました。

 

2-12 仁方を入れて欲しかった

2-13 仁方のやぶがなかった

1-5に記載の通り、元々、阿賀以東にはやぶ文化はなく、阿賀や広の祭りではやぶではなく鬼が出ます。

しかし、最近は仁方でもやぶが出ると聞き、2012年以降、八岩華神社の祭りには計4回、新宮神社の祭りには計3回、足を運びました。

 

新宮神社のやぶ

f:id:shorikai:20181214095048j:plain

 

これらの祭りに具体的にいつ頃からやぶが出るようになったのかは把握できておらず、その経緯については、調べてみたいと思っています。

但し、今回のやぶ展では「写真で見るやぶの今、そして昔」という副題にも示した通り、単に現代のやぶを単体で取り上げるのではなく、昔のやぶの写真も併せて展示することで、①ローカルで多様なやぶの多くは、今も昔も各々何ら変わりがないこと、②その変わらなさが各地のアイデンティティとなり、「うちのやぶ」に対する深い思い入れと絶対的な自信をもたらしていること、をお伝えする点に主眼を置いていました。

そのため、対象は、戦前からやぶ文化が根付いている地域に限り*13、仁方のやぶについては、今回はやむなく展示を見送った次第です。

言うまでもなく、やぶの切り口は様々で、この度のテーマはその一つに過ぎません。

今後は別のテーマのもとで、仁方のやぶをご紹介できればと思っています。

 

2-14 音戸町波多見の八幡山神社も載せて欲しいです

最近は音戸でもやぶが出ると言う話は聞いてはいましたが、具体的な情報を何ら持ち合わせておらず、これまで一度も見に行ったことがありません。

近年のやぶ文化圏の拡大を象徴するような事例で、音戸にやぶが出るようになった経緯については関心を持っています。

いずれにせよ、まずは「今のやぶ」を写真に収めることが第一歩だと思うので、今後、情報を集め、訪ねてみます。

 

2-15 吉浦のおにぐろ、きぐろ、あかぐろ、しろぐろの写真を出してください

今回のやぶ展で吉浦の祭りの写真を展示しなかった理由については、2-1に記載の通りですが、「おにぐろ」、「きぐろ」、「あかぐろ」、「しろぐろ」という言葉は初めて聞きました。

吉浦の祭りに出る鬼の種類のことを指しているのでしょうか。

それとも馬喰の呼び名か何かでしょうか。

「きぐろ」、「あかぐろ」、「しろぐろ」については、想像するに「黄ぐろ」、「赤ぐろ」、「白ぐろ」と読み替えられなくもありません。

そうだとして、「ぐろ」は何を意味しているのか、また「おにぐろ」の「おに」は他の三種と違って色ではないようなので、一体何なのか、興味が尽きません。

より詳しい情報をお寄せいただけると幸いです。

 

2-16 宮原3丁目、アカミドウの祭りの「やぶ」は写真作品には見られませんでした。残念です

『宮原3丁目、アカミドウの祭り』と言うのは、室瀬町に鎮座する赤崎神社の祭りを指しているのでしょうか。

また、『アカミドウ』は「赤御堂」で、赤崎神社の社殿か何かの別名でしょうか。

もしそうだとしたら、2-8に記載の通り、そもそも赤崎神社にやぶが出るといった情報はこれまで有しておらず、それが今秋の小祭り時に偶然、当地でやぶと遭遇したことで、突然認識が改まることとなりました。

昔から出ていたのか、あるいは最近出るようになったのか、今日に至るまでの経緯を仔細に調べるとともに、来年以降は事前の情報を集め、計画的に訪ねたいと思っています。

 

2-17 やぶの映像と畝原自治会のやぶも載せて欲しい

『やぶの映像』については、インターネット上でもよく見かけますが、動画には写真とは違った撮影技術上の難しさがあります。

また、写真だと肖像権への配慮から周辺の見物客の顔が映らないよう、後でトリミングを行ったり、また焦点をやぶに合わせることで背景の人の顔をぼかしたりする技も使えますが、動画の場合は、そうした対応が写真に比べて難しく、意図的に使用を避けてきました。

今後もその方針は変わりません。

世の中にはこうした動画の撮影・編集に長けた方が多くいるので、いずれ映像分野でも良質な「やぶ作品」が供給されるようになるのではと期待しています。

また、『畝原自治会のやぶ』については、2-10に記載の通り、今秋、初めて撮影を行いました。

今後とも継続的に足を運び、良い写真が撮れればと思っています。

 

2-18 平原神社の畑のやぶが少な過ぎる

ご指摘の通り、平原神社、畑祭礼委員会のやぶについては、今回のやぶ展では1枚のみの展示となりました。

その最大の理由としては、畑については「昔」の白黒写真が1枚も入手できていなかったことが挙げられます。

2-12、2-13に記載の通り、今回のやぶ展では、ローカルで多様な「今」のやぶと「昔」のやぶを対比し、それぞれがいかに変わっていないかを実感してもらうという点に、一番の重きを置いていました。

その変わらなさこそが、各々のやぶのアイデンティティを形成し、それが「うちのやぶ」に対する自信と誇りをもたらしているというのが、筆者の一貫した主張でした。

ところが、畑に関してはその肝心の「昔」の写真が全く収集できていなかったため、今回の企画テーマに沿った展示が難しかったというのが正直な理由です。

今後は、畑についても「昔の祭り」を掘り起こし、写真と証言を積み上げていくつもりです。

有用な情報があれば是非ともご一報いただけると幸いです。

 

2-19 日神社が少なくて残念

2-20 日神社のは少なかった

日神社のやぶについては、「今」の写真が2枚、「昔」の写真が3枚の展示となりました。

とりわけ、「今」の写真が相対的に少ないとお感じになられてのコメントだと思います。

以下、このような展示枚数となった理由について述べます。

基本的には2-18に記載の畑のケースとほぼ同じです。

一番の理由は、日神社については、「今」のやぶと「昔」のやぶを、筆者の狙い通りに対比させるのが難しかったという点にあります。

上記の通り、今回のやぶ展では、日神社の祭りに関しては「昔」の写真を3枚展示しました。

ところがそこに写っていたやぶは、近年は祭りに出ていません。

当該やぶを出していた地区が現在は日の祭りに出ていないからです。

一方、「今」の写真に写っているのは、同じ日神社の祭りでも別の地区から出ているやぶであり、対比しようにもそもそも両者が歴史的に一本の線で繋がっていないのです。

本来であれば、双方を対比することで、その変わらなさを一目瞭然で示すというのが、やぶ展全体を通しての筆者の狙いであったのですが、日神社の場合、そうした見せ方が難しかったというわけです。

もちろん、「今」の祭りを支えている地区にも、その地区としての祭りとの関わりの歴史があります。

ところが、あいにく今回のやぶ展に際しては、それらを一連の資料として展示できるだけの十分な材料を収集できておらず、「今」と「昔」のやぶを非連続の被写体として扱わざるを得ませんでした。

「今」の写真の展示枚数が相対的に少なくなってしまった背景には、そうした事情があります。

今後は、戦前・戦後から今日に至るまでの日神社の祭りの歴史を仔細に調べ、「今」と「昔」との関連をより生き生きと描き出すことに注力したいと思います。

そのためにも、今回展示した3枚の白黒写真以外にも古写真を探し出し、それらをもとに地道な取材を続けていく必要があります。

お知り合いに「昔」の写真をお持ちの方がいれば、是非ご紹介ください。

 

写真集について

2-21 やぶの写真集が欲しいです

2-22 それぞれの神社で違う「やぶ」。写真集が出たらと思います

実は「呉のやぶ」の写真集は毎年、作成していました。

Apple社のMac上の写真アプリを使って、オリジナルの写真集を簡単に作ることができたので、祭りシーズンが終わる都度、大型ハードカバーと中型ソフトカバーの二種類を製作し、お世話になった祭り関係者の方へお配りしていました。

もちろん、規約上、販売目的ではなく、お礼として差し上げていただけです。

2014年には当時作成したハードカバー写真集を広島県立図書館呉市立図書館にも寄贈しているので、そこで閲覧することもできます。

 

写真集

f:id:shorikai:20181214095550j:plain

 

あいにく、2018年9月末をもって、当該注文プリントサービスが終了してしまったため、今はもうApple社純正の写真集を作ることはできなくなってしまいましたが、他社製の類似サービスもあるようなので、追々、作ってみようとは思っています*14

 

その他

2-23 新型の面も見たかった

今回のやぶ展では、戦前もしくは戦後間もない頃から使用されている古面に絞って展示を行いました。

理由は、「今」と「昔」のやぶの変わらなさを端的に示す上で、長年使われている古面は最も説得的な展示物だったからです。

一方、新しい面については、昨今、各地で急増しており、祭りに出されていないものも含めると、膨大な数の面が毎年、彫られ続けています。

 

新しい面の一例

f:id:shorikai:20181214095650j:plain

提供:高尾神社の祭り関係者

 

それらについては、今後、別のテーマのもとで紹介できればと思っています。

 

2-24 やぶグッズが欲しい

あいにく、筆者自身にそういったものを製作するスキルがありません。

また、関心の対象は、あくまで①やぶの撮影や②「呉のやぶ」史の掘り起こし、並びに③それらの記録化にあり、グッズの開発については含まれていません。

そのため、今後とも扱う予定はなく、ご要望にお応えできそうにありません。

但し、最近は亀山神社の祭りにおいて「やぶグッズ」を販売するブースが出店し、大変な盛況を見せています。

インターネット上でも販売されているようなので、そちらをご覧になられてみてください。

 

2-25 第2回もやって欲しい

嬉しいお言葉、本当にありがとうございます。

筆者はこれまでインターネット上においてのみ、自らの写真や記事を投稿・掲載していましたが、この度、ギャラリーに立ち、ご来場者の方と数々の言葉を交わしたことで、作品・著作の出し方や活動のあり方について、視界が大きく広がりました。

仕込みに時間を要すので来年というわけにいきませんが、また数年後にこのような場を開けるよう、今後とも地道にやぶの「今」を撮り、「昔」の写真を集め、「呉のやぶ」史を調べ続けたいと思っています。

 

芳名カードに書かれていた質問や要望については以上です。

なお、やぶ展の会期中、ギャラリー内にて直接伺った要望として、次のようなものがありました。

これについても回答と併せてご紹介させていただきます。

 

2-26 これまでの調査結果をまとめた資料が欲しい

「今の祭り」についても「昔の祭り」についても、筆者が取材を通じて知ったことの多くは、基本的には本ブログに記事として掲載しています。

このうち、「昔の祭り」については、これまで八咫烏神社、鯛乃宮神社、亀山神社、大歳神社、宇佐神社の計5編の記事を書いており、下記からもPDFデータをダウンロードできます。

 

八咫烏神社編

https://drive.google.com/open?id=1TmcM99-0LY_GIY7RTiMlSVFHXejVsZnc

 

鯛乃宮神社編

https://drive.google.com/open?id=1zijKSJQpW4vfaACzfc4F0YzOUxDb3lr1

 

亀山神社編

https://drive.google.com/open?id=1K2Dety5zQmXJKzIYN5UAz0TFF1Bo2h7N

 

大歳神社編

https://drive.google.com/open?id=1_V64ZAeM0htRAFXAcNgX2ytT98R55sk-

 

宇佐神社編

https://drive.google.com/open?id=1Z7z0IXT8jBftYcGfLRWq1gAHls_bRRuC

 

f:id:shorikai:20181214103658j:plain

 

上記の5編以外にも、各地の「やぶ史」を調べており、いずれはその全てにおいて同様の形で記録化したいと思っています。

あいにく現時点では、写真や証言が十分集まっておらず、調査途上の段階にありますが、今回のやぶ展では、その一部を資料として展示しました。

写真については、古ければ古いほど資料的価値があり、もし「実家のアルバムにやぶの写った白黒写真がある」、「あの人が昔の祭りの写真を持っている」といった情報があれば、是非、ご一報ください。

 

お礼状

 

なお、芳名カードに記帳してくださった575人のうち、住所の記載のあった522人の方に下記のお礼状を送らせていただきました。

f:id:shorikai:20181214145248j:plain

これが今回のやぶ展、最後の「作品」です。

ポストカードの裏面の写真は、全てギャラリーで展示したもので、計20箇所の神社の祭りを盛り込んでいます。

住所を書かれていなかった方や、やぶ展には行ったものの芳名カードを書かれなかった方で、上記のポストカードが欲しいという方は、下記に宛先等をご入力ください(締切/2019年2月28日)。

https://form.os7.biz/f/093a0f0b/

 

数には余裕があるので、追送させていただきます。

もちろん、「やぶ展に行きたかったけど、諸事情で行けなかった」といった方にも差し上げます。

 

最後に

 

今回のやぶ展を通じて強く感じたことが二つあります。

一つは、呉の人は本当にやぶが好きな方が多いということです。

最近、やぶを観光資源として活用しようという声を耳にすることがありますが、筆者が思うに、やぶを楽しむマーケットは、何よりも地元の人たちの中にあります。

しかもそのマーケットは、想像していたよりも遥かに大きいというのが、今回のやぶ展を行なって感じた一番の所感です。

それは単にご来場くださった3,167人という数だけではなく、「うちのやぶ」について熱っぽく語る人たちの老若男女ぶりや、たまたまギャラリーの前を通りかかっただけの人が「あっ、やぶじゃ」と言って、入って来られるケースの驚くほどの多さに直に接することで、思い知らされました。

「文化の地産地消」とも言うべき状況が筆者の認識を大きく上回る規模で起きていたというわけです。

やぶ展で実感したもう一つの点は、呉の人にとってやぶは昔から日常の一部であり続けているということです。

決してイベントの一幕ではなく、むしろごく当たり前の「日常」だからこそ、終戦を迎えて僅か80日しか経っていない中でも、祭りを行なっていたわけであり*15、また「日常」そのものだからこそ、それをことさら市外や県外、海外の人に対して知らしめようという意識も希薄だったと理解できます。

そう考えると、今回のやぶ展で行なったことは、「今」と「昔」の呉の人々の日常の一部を切り取って見せたことに他なりません。

但し、やぶが多少なりとも特異なのは、長い年月を経てもやぶそのものは何ら変わりがないという点です。

一口に「日常」と言っても、時代の推移とともに変わりゆくものが大半を占める中、一貫して変わらないものに対する敬意が、今回のやぶ展の底流にありました。

それを100年先まで変わらぬものとして伝承していくことが、今を生きる我々の務めであり、その一部において貢献したいというのが筆者の切なる願いです。

今回のやぶ展はその一つであり、何年か後に再びギャラリーでお会いできる日を心より楽しみにしています。

*1:明治35年10月、和庄町(明治25年に町制施行)・荘山田村・宮原村と、吉浦村から川原石・両城地区が分離してできた二川町が合併し、旧呉市が誕生。

*2:ムシクイは宇佐神社の祭りにおいて第2分団(現・中央区)から、スイカは第3分団(現・西区)から出ていた。

*3:昭和地区でも竹内神社や多賀雄神社、神山神社では、「種」ではなく、後記1-4の「位」による分類が行われている。

*4:類似の事例として、他にも平原神社、鹿田迫奉賛会では、四番やぶのことを「般若」とも呼んでいる。

*5:但し、苗代の多賀雄神社の祭りにおいては、やぶではなく、鬼という呼称が一般的。

*6:やぶの語源については、他にも諸説あるものの、何らかの出典に依拠しているわけではなく、あくまで口伝の域を出ない。

*7:下記を参考に記述。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E9%96%80%E5%BE%92

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E5%9B%BD

*8:だんじり

*9:朝日新聞』2018年10月10日朝刊, 第13版, 広島県版, 32面。

https://www.asahi.com/articles/ASLB93HLCLB9PITB00C.html

*10:下記を参照。

https://ameblo.jp/komainu7788/entry-11937162215.html

*11:あいにく写真が不鮮明のため、細部の確認は困難。

*12:具体的には、八咫烏神社、日神社、平原神社、龍王神社、鯛乃宮神社、大歳神社、照日神社、恵美須神社の8社。

*13:例外として「苗代の鬼」を展示したのは、昭和地区とともに平安期の旧養隈郷を構成していた天応、小屋浦、坂、矢野の祭りを紹介し、当地のやぶ(天応)や鬼(天応以外)と、昭和地区のやぶ(苗代以外)や鬼(苗代)との類似点を示すため。「養隈の祭り」については、下記の既稿を参照されたい。

http://kureyabu.hatenablog.com/entry/2016/10/31/224117

*14:後日、試みに作成した写真集については、下記より閲覧可能。
https://www.mybook.co.jp/gallery/viewer.html?albumid=015G9NgY

*15:例えば、八咫烏神社の祭り。