第六潜水艇殉難之碑が奉られている鯛乃宮神社。
116段の石段を登ると、元文5年(1740年)に再興されたという慎ましやかな趣きの社殿が視界に飛び込んできます。
足を踏み入れると、中には恵比須さまと大黒さまの木彫りの面が奉納されていました。
奉納したのは鯛乃宮青年団。
その世話人として中央に名前が記されているのが山本武義さん。
昭和12年7月6日生まれ、現在79歳。
どこの祭りでも「昔の祭りのことを尋ねるならこの人」といった方がいます。
鯛乃宮の祭りであれば、この人を置いて他はいないと紹介してもらったのがこの山本さんでした。
山本家は、鯛乃宮神社の社殿が最初に造営されたという1500年頃、既に当地で暮らしていたと伝えられるいわゆる「地の人」。
7月の梅雨間の晴れの日、祭り関係者の方の案内でご自宅を訪ねると、白黒の顔写真が数枚飾られていました。
そのお一人が山本さんのお爺さん。
今から140年前の1876年、明治9年生まれ。
その翌年に西郷隆盛が旧薩摩藩士に担がれて西南戦争を起こすという、まさに「幕末維新期」末期の時代です。
聞くと、お爺さんは昔の写真を大切に残し、その保管を孫の武義さんに託していたそうです。
もちろん、その中には山本さんが生まれる昭和12年よりも前の写真もあります。
こちらがその一つ。
写真1
縦21cm、横27cmのいかにも古めかしい台紙に焼き付けられた写真には、鯛乃宮神社の社殿を背景にチャンギリ、太鼓が写っています*1。
ただ、山本さんもこの写真がいつ撮られたものかは皆目見当がつかず、「こんなことなら爺さんにちゃんと聞いておくんじゃったがのう…」、と。
そこで後日、「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)で古写真の鑑定を担当されているという日本カメラ財団の谷野啓さん*2に鑑定を依頼。
すると、『この写真はシルバーゼラチンプリントと思われ、大正から昭和初期の写真と推測できます』との回答をいただきました。
ちなみに台紙の片隅には「呉五番町 増井」と記されたスタンプが押してあります。
これについて何か心当たりがないか、呉の写真館の老舗、稲田写場の稲田整一さんに尋ねてみたところ、「これは写真館の印」とのこと。
戦前は、山に囲まれた旧市街地だけで約40軒の写真館があったそうです。
増井もその一つだったのでしょう。
また、このタイプの台紙は明治から昭和初期にかけてよく使われていたというお話も伺うことができました。
この点については、谷野さんの鑑定結果を支持しています。
これらのことから、この写真は約90年前のものと見てほぼ間違いないでしょう。
だとすると、ここからある重要な事実が浮かび上がってきます。
太鼓の背後をよくご覧ください。
正面右の柱の側に写っているのは紛れもないやぶです。
下の写真はその部分を拡大したものです。
これは、現時点で(私が)確認できている中では最古のやぶの写真です。
つまり、少なくとも約90年前には呉にやぶがいたことが伝承ではなく写真によって示されたことになります。
ただ、よく見ると、この写真に写っているやぶは、今の鯛乃宮のそれとは顔立ちが少し異なって見えます。
後で紹介する昭和10年代から昭和40年代にかけての写真においても、これと同じやぶは見当たりません。
これは一体どういうことなのでしょうか。
その謎を解いてくださったのが山本さんと同い年の中田貢さん。
疑問に思った祭り関係者の方が「もしかしたらあの人なら知っているかも」と聞いてくださったのです。
その中田さんによると、この面は、山伏が付ける烏面に似た、通称、「キツネ面」と呼ばれていた面で、戦時中の空襲で消失してしまったとのこと。
いわゆる一番やぶから始まる上位の面ではなく、十代の子が被るような下位の面として使われていたそうです。
そうだとすると、この写真の視界の外に上位の面のやぶが立っていたとしてもおかしくありません。
写真の右隅を拡大すると、小さな子どもが写っているのが分かります。
この少年の目に他のやぶは写っていたのでしょうか。
できることなら尋ねてみたいところです。
「この日、やぶは何匹いたの」、と。
続いて、二枚目の写真。
写真2
この写真には、山本さんの伯父さんが写っています。
左から三番目の眼鏡をかけ、下駄を履いた洋装の男性がその方です。
1907年、明治40年生まれ。
存命であれば109歳という計算になります。
伯父さんの見た目の年齢、そして人々の衣服や履物などから推測して、昭和10年代前半の写真ではないかと思われます。
ちょうど山本さんが生まれた頃です。
場所は県立呉第一中学校(現・呉三津田高校)の裏門入口下。
祭りの日にこの場所で記念撮影をする慣習は今日まで営々と続いています。
右端に写っているのは一見、現在の一番やぶのようにも見えますが、拡大してみると頬のあたりが明らかに違っています。
祭り関係者の方の話では、やはりこの面も写真1のやぶと同じく、「これまで一度も見たことがない」、と。
実際、これ以降、それが使われたことが確認できる写真は残っていません。
だとすると、この面は一体何だったのでしょうか。
実はこの疑問を解き明かしてくださったのも先ほど紹介した中田さんでした。
答えを先に言うと、この面は昔の鯛乃宮の一番やぶとのこと。
中田さんの言葉をそのまま借りれば、この当時は「一番が二枚あった」のです*3。
もう一枚の一番が現在使われている一番で、これらの両面はいわゆる「阿吽」の組み合わせになっていたそうです*4。
あいにくこの写真の一番も写真1のキツネ面と同様、先の大戦で消失してしまったという話です。
当時は地元で鉄工会社を営むある個人の方の自宅に全ての面が保管されており、その一部が空襲*5によって焼けてしまった、と。
(参考)呉市戦災概況図
実際、そのご本人から「空襲から逃れる際、面を担いで走った」という話を聞かれたことのある祭り関係者の方もいますが、戦火から全ての面を守りきることはできなかったようです。
この一番もそうした運命を辿った一枚だったわけです。
ただ、面そのものは残っていなくても、頬被りの締め方や鉢巻の巻き方といった面の付け方は今のやり方と全く同じであることがこの写真から伺えます。
些細なことのように思えても、そうした慣わしの一つ一つを守り継いでいるからこそ、「伝統」と感じられる何かがそこに息づいているのでしょう。
(あいにく左端の二匹は画質が不鮮明のため判別難*6)
なお、写真1と同様、チャンギリ、太鼓の担い手は今の高校生くらいの年齢に見えます。
戦後のある年からこれらの役を担うのは中学生以下の子だけになったそうですが、この時期はまだそうなる前の頃です。
続いて三枚目。
写真3
ここに当時7歳くらいだった山本さんが写っています。
前列左端の帽子を被ったあどけない子どもが山本少年です。
場所は同じく現・呉三津田高校裏門入口下。
写っているやぶは、中央が二番、左端が三番で、面も位*8も今と同じです。
ちなみにこの写真には、キツネ面や昔の一番について貴重な証言を寄せてくださった中田さんの12歳年上のお兄さんも写っています。
中央列の右から四番目の鉢巻を巻いた方がお兄さん。
今もご健在で御年91歳とのこと。
そして時代は戦後へ。
写真4をご覧ください。
写真4
この写真と後ほど紹介する写真11は、山本さんではなく、同じ地元育ちの萩原孝正さんが提供してくださったもの。
祭り関係者の方のご配慮でこれらの写真も預かった上で、山本さん宅を訪問しました。
写真4については、撮影年月日は不明ですが、写真に写っている人たちが着ている服装などから推定するに、昭和20年代中頃の写真ではないかと思われます*9。
山本少年が小学校高学年から中学生の頃にかけての時代です。
やぶについては、左から順に二番、一番、三番、六番、四番、五番。
鯛乃宮の伝統的な面は今でもこの六枚です。
この時点でそれらが全て揃っていることが確認できます。
場所は三条通りで、祭り関係者の方、曰く、おそらく下記の写真のあたりではないか、と*10。
「三条銀座」の看板は今なお健在です。
続いて、写真5。
写真5
この写真は昭和29年11月3日に撮影されたものです。
山本さん、当時17歳。
大勢の人が見入っているのは、第43代横綱吉葉山の土俵入りです。
この年、1月場所で全勝優勝を遂げた吉葉山は、場所後、横綱に昇進します。
土俵入りは不知火型。
同じ不知火型の土俵入りを行う第69代横綱白鵬は吉葉山の孫弟子にあたります*11。
その横綱の背後に写っているのは鯛乃宮の三番やぶ。
巡業が呉で行われたわけもなく、呉市の記念事業で招聘されたわけでもなく、まさに鯛乃宮神社の祭りのために横綱が来呉したのです。
これは驚くべきこと。
山本さんによると、元々、鯛乃宮神社では祭りのときに地元の人たちによる相撲を行って祭りを盛り上げていたそうです。
さらに、当時、祭り関係者の中に「やじさん」と呼ばれる元力士の方がいて、その縁もあって、横綱を呉に招くことになったとのこと。
写真6
写真6は、土俵入り後の記念撮影。
やぶは左から順に三番、二番、六番。
横綱に抱かれている子どもも今や還暦を過ぎています。
時代の隔たりを感じる一枚です。
それにしても、呉のやぶと横綱が一緒に収まった写真など、後にも先にもないでしょう。
まさに唯一無二の記念写真です。
続いて、写真7。
写真7
山本さんも二十歳を過ぎ、青年団の一員として祭りに参加するようになりました。
獅子を被っているのが山本さん。
ご本人曰く、二十代前半の頃の写真だ、と。
昭和30年代半ばの写真と思われます。
場所は、鯛乃宮神社の境内へと上がる階段下。
やぶは、左から順に五番、六番、四番、三番。
もちろん、面も位も全て今と同じです。
ちなみに六番は現在、黒っぽい色をしていますが、この当時は「青面」と呼ばれていたとのこと。
色を塗り直したわけではなく、時代の経過とともに今の色に変化していったそうです。
この証言も中田さんによるもの。
写真8
写真8も同じ頃に撮られたもの。
中央手前で一番やぶと一緒に収まっているのが山本さんです。
写真9
写真9も同じく同年代の写真。
真ん中に立って三番やぶと肩を組んでいるのが山本さんです。
やがて、時代は「白黒」から「カラー」へと移ります。
写真10
写真10には、年配の方にとっては昔懐かしい呉の路面電車の線路が写っています。
廃線になったのが昭和42年12月。
写真を見る限り、線路が錆びてないことから、路面電車がまだ現役で走っていた頃に撮られたものと思われます*12。
呉三津田高校の校舎も昔の建物です。
近隣住民の方に写真を見てもらったところ、おそらく昭和30年代末期、今から約五十数年前の写真ではないか、と*13。
ちなみに、手前右のやぶの衣装は今でも現役とのこと。
子やぶ用に使われているそうです。
その数年後の昭和40年代初頭に撮られたと思われるのが写真11。
写真11
一番やぶと一緒に写っている稚児は、鯛乃宮の祭りでは「舞子」と呼ばれています。
獅子を舞わせるというのが呼称の由来。
チャンギリや太鼓と同様、今も昔も鯛乃宮の祭りに欠かせない重要な役回りです。
中でも舞子は一番の花形。
ちなみに、写真の舞子も今や56歳とのこと。
まさに半世紀前の祭りの一コマです。
以上、11点の写真を紹介しましたが、これだけ貴重な写真が多く残っているのも、山本さんご自身が鯛乃宮の祭りに深い思い入れがあったのはもちろんのこと、その山本さんに昔の写真を託したお爺さんの存在も大きかったといえるでしょう。
写真12
写真12もお爺さんが残した一枚です。
撮影年月日も場所も不明*14。
お爺さんがここに写っているかどうかも不明。
ただ、この写真も「大切な一枚」として孫の武義さんに託したところ見ると、この中にお爺さんご本人が写っていたとしてもおかしくありません。
そう思えるからか、写真を前に思わずこう問いかけたくなります。
「貴方が子どもの頃からやぶはいましたか」、と。
19世紀を生きたお爺さんは、この問いに一体、何と答えてくれるでしょうか。
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*1:チャンギリとは金属製の打楽器の一種。鯛乃宮の祭りでは、「チャンギリ」「太鼓」というと、楽器そのものの呼称としてではなく、当該楽器を演奏する役回りの人を指して使われることが多い。
*2:谷野啓さんは日本カメラ財団の常務理事。下記の記事で古写真の鑑定をされていることを知り、2016年7月5日、鑑定依頼。
http://www.excite.co.jp/News/bit/00051075257499.html
*3:「一番が二枚あった」という証言はもう一人別の方からも得られています。
*4:口が開いているのが写真2の方の一番で、閉じているのが現在の一番。
*5:「呉市制100周年記念版 呉の歴史」(呉市史編纂委員会)によると、呉への空襲は、昭和20年3月19日(呉軍港)、5月5日(広工廠・11空廠)、6月22日(呉工廠)、7月1日~2日(呉市街地)、7月24日(呉軍港)、7月28日(呉軍港)の計6回に及ぶ。このうち、市民にとって最も大きな被害をもたらしたのが、7月1日夜半から2日の未明にかけての焼夷弾攻撃で、死者1,949名、負傷者2,138名、全焼全壊住宅22,954戸、半焼半壊住宅735戸と記録されている。
*6:輪郭から推察すると、現在の二番、三番の面のようにも見えます。
*7:2000年に発刊された「月刊くれえばん」の記事、「わた史の懐かしい写真」(取材:高橋美樹氏)にこれと同じ写真が掲載されており、当該記事に『昭和19年頃撮影』と記載あり。
*8:一番やぶ、二番やぶ、三番やぶといったやぶの序列。ここではそれを「位」と仮称。
*9:2016年7月5日、呉市文化振興課市史編さん室にて確認。
*10:写真4の左上に写った銭湯の煙突も手がかりの一つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%BD%A4%E4%B9%8B%E8%BC%94
*12:2016年7月5日、呉市文化振興課市史編さん室にて確認。
*13:横山建築研究所の事務所や「休山せんべい」の暖簾を掲げている菓子店などを参考に推定。
*14:唯一の手がかりである旗の文字についても「呉○○仲買同業組合」の○○の部分が判読困難。