呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

昔の祭り(八咫烏神社編)

やぶの誕生と普及の歴史を探るのは、ピースが揃っていないジグゾーパズルを組み立てるようなものです。

どれだけピースを集めてみてもパズルの完成には程遠く、全容が浮かび上がってきません。

できることと言ったら、埋まらない隙間を眺めながら、精一杯の想像力を働かせることくらいです。

そんな中、先日、その「未完のパズル」に新たなピースをはめ込むことができました。

提供してくださったのは、八咫烏神社の祭りを運営している坪之内青年団の方々。

元々は、撮影当時の青年団の方が所蔵されていた写真で、今は現役の青年団が管理されているとのこと。

見せていただいたのは白黒写真15点。

以下、その全てをご紹介します。

 

写真1

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まず一枚目はこちら。

場所は正園寺支坊。

撮影年月日は不明ですが、左端の男性にご注目ください。

着用している衣服は、戦時中の国民服のように見えます。

調べてみると、これは国民服の甲号と呼ばれるもので、昭和15年に国民服令によって定められ、昭和19年頃に爆発的に普及し、流行したとあります*1

このことからこの写真は、昭和19年、もしくは終戦直後の昭和20年に撮影された可能性が高いと考えられます。

やぶについては、前列の左が当時の一番やぶ、右が二番やぶです。

八咫烏のやぶ特有の布が巻かれていない剥き出しの青竹を持っているのもこの当時からの様式であったことが伺えます。

両面ともに昭和34年まで祭りに出ていましたが、その年を最後に見られなくなったとのこと。

実際、写真からも姿が消えています。

なぜ出なくなったのか、今どこにあるのかは謎で、八咫烏の祭り関係者の方にとっては「伝説の面」となっています*2

残る三匹については、衣装の柄が一番、二番とは違っており、面の顔立ちも雰囲気を異にしています。

 

写真2

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続いて二枚目。

こちらは撮影年月日が昭和20年11月23日と明記されています。

終戦から僅か三ヶ月余りの混乱期にも関わらず、祭りが滞りなく行われていたことが確認できます。

興味深いのは日付です。

現在、呉市内の祭りシーズンはいわゆる「小祭り」と呼ばれる、11月3日の祭りで幕を閉じます。

八咫烏神社の祭りもこの日に行われています。

ところが、この写真によると11月23日に祭りが行われていることが分かります。

八咫烏神社の宮司を兼務している、亀山神社の宮司、太刀掛祐之さんにこの点について尋ねてみると、「おそらくこれは新嘗祭(にいなめさい)」とのこと。

新嘗祭とは古くから営まれていた五穀豊穣を祝う祭りで、明治41年になると皇室祭祀令によって大祭に指定。

同法が廃止される昭和22年5月まで11月23日は、今日の「勤労感謝の日」ではなく、「新嘗祭」という祝日でした*3

そのため、この写真が撮られた昭和20年はまだ11月23日に祭りが行われていたというわけです。

やぶについては、計5匹のうち前列左端と右から二番目が、それぞれ一番やぶと二番やぶ。

写真1と写真2の両方に共通して写っているのは、この一番と二番のみで、残る三匹のやぶはいずれも違って見えます。

このことから写真1は、少なくも写真2が撮られた昭和20年11月23日とは別の日に撮影された可能性が高いと言えます*4

 

写真3

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三枚目は俵もみの写真。

撮影年月日の記載はありませんが、手前の見物客に占領軍の兵士が多く含まれていることから、終戦後の写真であることが伺えます。

呉に占領軍が進駐していたのは昭和20年10月から昭和31年3月の期間。

最初はアメリカ軍が占領していましたが、昭和21年2月以降はアメリカ軍に代わって英連邦軍が進駐していました*5

写真に写っている兵士は、当時のアメリカ軍に固有の帽子を被っていることから、この写真が撮られたのは昭和20年秋と断定してほぼ間違いないと思われます*6

つい三ヶ月前まで敵国として戦っていたアメリカ人と肩を並べて俵もみを見物する。

現代を生きる私たちにその空気感を想像することは容易ではありません。

とんぼ(俵みこし)同士をぶつけ合う八咫烏スタイルは、このとき既に行われていたことが分かります。

 

写真4

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四枚目の写真は昭和21年11月3日に撮影されています。

最前列の左が一番やぶで、その左斜め後ろ(第二列の左端)が二番やぶです。

これまでの写真に比べると、その他のやぶの顔つきもより鮮明に写っています。

 

写真5

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五枚目は、やぶが弓で矢を射っている写真。

撮影年月日は裏面に昭和21年11月23日と記されています。

場所については、背景に八咫烏神社が写っており、その位置関係から当時の坪内国民学校(現在の坪内小学校)の校庭ではないかと推測されます。

やぶと弓矢という、今では見られない組み合わせで、野性味あふれるその非日常ぶりには鳥肌が立ちますが、これは四方祓いという神事とのこと。

神社での奉納の後、浜の宮(御旅所)で一番やぶが東西南北の四方に向かって矢を放ち、邪気を祓い、清めるという儀式です。

写真だけを見ると、あたかもやぶが祭礼の主役かのように思えますが、そうではなく、八咫烏の祭りでは「あくまで祭礼全体を護るのがやぶの役目」と青年団の方は語ります。

儀式の意味を聞くとそれも頷けます。

ここでお気づきの方もいるかと思いますが、写真4の撮影日は昭和21年11月3日、写真5は昭和21年11月23日

同じ年に二回、祭りが行われているのです。

前述の通り、皇室祭祀令が廃止された昭和22年5月まで11月23日は「新嘗祭」という祝祭日でした。

当時は、新嘗祭新嘗祭として行いつつ、今日と同様、11月3日も祭りを行っていたことをこれらの写真は物語っています。

但し、翌年、同法が廃止されたこともあって、11月23日に祭りが行われたのは、この年が最後になりました。

 

写真6

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六枚目の写真は、昭和22年11月3日に撮られたもの。

場所は、断定はできませんが、坪内小学校の講堂前ではないかとのこと*7

左端に写っているのが二番やぶ、その右隣が一番やぶです。

 

写真7

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七枚目の写真が撮られたのは、時代が少し飛んで昭和27年11月3日。

右端に立っているのが一番やぶで、左端に写っているのが二番やぶです。

中央で座り込んでいる二匹のやぶは、一番、二番とは衣装が異なっています。

 

写真8

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八枚目の写真はやぶだけが写ったもの。

裏面に撮影年月日が昭和28年11月3日と記されています。

場所は正園寺支坊。

俵に寄りかかっている中央左手が一番やぶ、右手が二番やぶです。

 

写真9

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九枚目も八枚目と同様、昭和28年11月3日に撮影されたものであることが裏面に記されています。

場所も同じ正園寺支坊です。

ただ、不思議なことに一番やぶ、二番やぶ以外はやぶが一致していません

写真9をよくご覧ください。

前列左が一番やぶ、右が二番やぶです。

この二匹はこれまでと同じです。

残る三匹の面は、現在の八咫烏神社の祭りでも使用されているものです。

具体的には、中央奥が三番(現在の一番)、右奥が般若*8で、中列左も特定の呼称こそありませんが(以降、面Aと仮称)、年によっては使われています。

一方、同じ日に撮影されたはずの写真8には、三番も般若も面Aのいずれも写っていません。

これは一体どう解釈すればよいのでしょうか。

あくまで一つの推論に過ぎませんが、写っているやぶが違うとすれば、どちらかの撮影年が誤って表記されている可能性が考えられます。

その場合、間違っているのは写真8の方で、実際は昭和27年以前に撮られたものなのかもしれません。

見た目の写真の古めかしさも理由の一つですが、写真9以降は登場するやぶが安定しているからです。

写真10と写真11を見ると、それが明らかです。

 

写真10

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写真11

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写真10の撮影年月日は昭和29年11月3日、写真11は昭和30年11月3日です。

いずれも写っているやぶは、一番やぶ、二番やぶ、三番やぶ、般若、面Aの五匹で、その構成は写真9と全く同じです*9

このことから、八咫烏神社のやぶは昭和28年から「安定」するようになったことが伺えます。

実際、写真上、昭和28年に初登場した三番やぶは、面の裏に「昭和28年吉日 坪之内青年団」の文字が記されています。

これらの事実を踏まえると、明らかに面の構成が異なる写真8は、それよりも以前の時代に撮られたものと考えると筋が通ります。

もっと絞り込むとすれば、写真が残っていない昭和23年から昭和26年の間のものという可能性も十分にあります*10

こうした推論は、冒頭のパズルの例えのくだりで述べた「埋まらない隙間を眺めながら、精一杯の想像力を働かせる」行為そのものです。

それ自体が楽しみでもあります。

 

写真12

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さて、昭和31年に撮影された写真12になると、昭和28年以降続いた「安定」の五枚の面にまた一つ新たな面が加わっています。

後列の左端に写っているやぶがそれです。

この面も面Aと同様、特定の呼び名はありませんが(以降、面Bと仮称)、今日の八咫烏神社の祭りで時折、使われているお馴染みの面です。

また、八咫烏と言えば、「子やぶ」が真っ先に浮かびますが、そうした伝統が始まったのもこの昭和31年からであったことをこの写真は教えてくれます。

 

写真13

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写真13は昭和32年に撮られたもの。

場所は現在の万惣呉坪ノ内店前。

この年はどういうわけか、子やぶしか写っていません。

ただ、子やぶの数は前年よりも増え、面も最初は紙製の張りぼてだったのが、この年はセルロイド製に改まっています。

 

写真14

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写真14も写真13と同じ場所で撮られています。

撮影年は昭和33年。

この年は、写真12の昭和31年から始まった「新・安定」の六枚(一番、二番、三番、般若、面A、面B)が揃って写っています。

 

写真15

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そして写真15。

これが最後の写真です。

撮影年月日は昭和34年11月3日。

写っているのは、左側の三匹が手前から奥に向かって、一番、面A、三番。

右手の三匹は、奥が面B、手前の左が般若、右が二番です。

同じく「新・安定」の六枚ですが、前述の通り、この一番と二番が祭りに出たのはこの年が最後となっています。

消えた一番、二番の面は一体どうなったのでしょうか。

およそ60年が経過した今、その行方を知る人は誰もおらず、こうして写真を通して対面するしかありません。

今回取材をさせてもらった坪之内青年団のお二人はこう語ります。

 

一番(阿形)の威嚇するような怒り顔は写真によっては悲しげな顔にも見えます。

二番(吽形)のニヤリとした笑い顔は、何を考えているのか分からない怖さがある一方、どこか寂しげな表情も垣間見えます。

どちらも見る角度によって全く違った表情に映り、神秘的で他にはない独特の顔つきには彫り手のとてつもない拘りを感じます。

 

「ただ怖いだけやかっこいいだけでは魅力がない」と語るお二人にとってもこの一番、二番は別格の面のようです。

何度も復刻を試みようとしたものの、オリジナルには到底及ばないと断念されたとのこと。

歴史的にも精神的にも八咫烏の祭りの原点はこの二枚の面にあると言っても過言ではないでしょう。

そうした中、昭和28年以降、あの一番、二番とともに肩を並べあった三番(現在の一番)、般若、面A、面Bの存在はこの上なく貴重です。

 

三番(現在の一番)

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般若

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面A*11

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面B

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これらの古い面が、今日の八咫烏の祭りの「顔」となっているのです。

古いものが大事にされているのは面だけありません。

衣装もそうです。

八咫烏には、戦前から使用されていた衣装が今でも数着、残っています。

一番、二番もきっと袖を通したことでしょう。

 

戦前から使われていた衣装

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今は後世に残すことを第一に考え、極力これらは使わないようにし、30年から40年前に作られた後継衣装を着用しているとのこと。

もちろん柄のテイストは同じです*12

これだけ古いものに拘るのも「昔の祭りがしたい」という青年団の方々の強い思いがあってのこと。

剥き出しの青竹や、俵と俵をぶつけ合うスタイルが今でも見られるのは、先人たちの作った「型」に敬意を払い続けてきた結果でもあります。

たくさんの白黒写真が大切に保管されているのも頷けます。

昨今では、地元の坪内小学校に青年団の方がゲスト講師として招かれることがあり、そこで「昔の様式を守って祭りを行う大切さ」を伝えているそうです。

ここで重要なのは誰がそれを「守る」のかという点です。

坪内地区では、昭和32年以降、子どもたちも主役として参加する祭りが行われてきました。

今でも子どもたちの参加率は6割から7割に及んでいるそうで*13、その意味でも昔の様式を守る次代の担い手は子どもたちを置いて他にいません。

だからこそ、八咫烏の祭りでは子どもたちが大事にされてきたわけです。

今の青年団の方々もかつてはそんな子どもの一人だったのでしょう。

思いは確実に受け継がれています。

もし仮に昭和34年から「伝説」の一番やぶ、二番やぶがひょっこり帰ってきても、何ら戸惑うことなく溶け込むに違いありません。

そんな祭りを行っているのが坪内の人たちの誇りでもあります。

 

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*1:下記の資料参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%9C%8D

井上雅人(2001)『洋服と日本人:国民服というモード』廣済堂出版

*2:この一番やぶと二番やぶは、「呉市制100周年記念版 呉の歩み」(呉市史編さん室)のpp.110に掲載された写真「八咫烏神社の祭」(撮影日:昭和15年11月3日)にも写っています。

*3:新嘗祭については下記を参照。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%98%97%E7%A5%AD

*4:一つの可能性としては、同じ年の昭和20年11月3日が考えられます。写真1、写真2ともに青年団幹部と思われる同一人物が同じ服装で写っているからです。具体的には、写真1の前列左端の男性と写真2の一番やぶの右隣の男性。一年の間に11月3日と11月23日の二回に亘って祭りが行われていた点については、後記の写真5の箇所で詳しく触れます。

*5:呉市制100周年記念版 呉の歴史」(呉市史編纂委員会)を参照。

*6:2016年6月6日、呉市文化振興課市史編さん室にて確認。

*7:昭和28年3月、火災によって当時の校舎は消失。

http://www.kure-city.jp/~tubs/zenntaih28/syoukai/ayumi.html

*8:ベロ出しとも呼ばれます。

*9:写真10については、右側に並んでいる三匹が上から順に般若、二番、三番、中央よりに写っているのが一番、太鼓の後ろにいるのが面A。写真11については、左側に並んでいる三匹が上から順に般若、面A、一番、右側にいる二匹が上から順に三番、二番。

*10:写真7(昭和27年撮影)の中央左手のやぶが写真8の右後ろのやぶに酷似していることも、その可能性を傍証しています。

*11:傷みが酷く、補修中。

*12:但し、一番と二番は約20年前に専用の別柄の衣装を復元、制作し、それを使用しています。

*13:参加対象は坪内小学校に在籍する三年生以上の児童で、約100人。そのうち、60人~70人が稚児や巫女、子やぶ、笛吹きなどとして参加しているとのこと。