呉のやぶ

呉の祭礼民俗、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

田中八幡神社の祭り

大正元年」と書かれた幟の傍らに見える「大屋村」の文字。

この大屋村こそが、現在の天応の町*1です。

 

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星山武士氏提供

 

その由来となった大屋大川の下流付近に鎮座する田中八幡神社を訪ねました。

お目当ては、10月第一日曜日の例大祭

何せ100年以上前から続いている祭りです。

伝統とこだわりを感じるにはもってこいです。

事前に得た情報によると、10時30分からおよそ一時間半をかけて、計9地区が順々に宮入し、奉納行事が行われるとのこと。

 

最初に上がってきたのは、大西地区。

 

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だんじりは、一気に社殿を目指すのではなく、独特の唄に合わせて、参道の石段を上がり下りします。

下りるときの「戻せや、戻せや」の掛け声が不思議と耳に残ります。

これを何度か繰り返した後、本殿前に着くと、辺りは拍手と歓声に包まれました。

最後にだんじりを高々と掲げる姿は、実に壮観な眺めです。

 

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続いて、宮入したのは下西地区。

 

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大西地区に勝るとも劣らない勇壮な奉納行事にしばし目を奪われます。

途中、だんじりが左右に大きく揺さぶられても、中央で太鼓を叩く4人の乗り子は、常に一定のリズムで叩き続けていました。

 

その後、場所を変えて、神社前を流れる大屋大川沿いの県道へ移動。

すぐに目に留まったのが、大浜地区のちょうさい。

 

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勇ましい掛け声とともに、一行は鳥居をくぐり、社殿へと向かいます。

 

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指揮棒を振るう先導役の所作が男っぷりに満ちており、祭りの空気が一気に高まります。 

 

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最後の石段を登ると、熱気は最高潮に達しました。

 

なお、「ちょうさい」というと天応の東に位置する吉浦の祭りも有名ですが、西にそびえる天狗城山越しに隣り合う、小屋浦や坂、矢野においても祭りの見所の一つになっていると聞きます。

この東西約14kmに及ぶ海岸沿いに、旧呉市内には見られない「ちょうさい文化圏」が形成されているのは、決して偶然ではなく、何らかの歴史的経緯があったとしてもおかしくありません。

実際、昔、大浜で使われていた初代ちょうさいは、矢野地区から譲り受けたという言い伝えもあります*2

こちらがその写真です*3

 

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提供してくださったのは、大浜に住む地元の方。

ちょうさいの背後に見える建物は、昭和13年に新築された大屋村役場です*4

提供者の話では、「写真に写っている人が今も生きていたら、皆、百歳を超えている」とのこと。

おそらく「大人」を指しているものと思われますが、そうだとすると、新築後間もない昭和10年代半ば頃の写真と推測されます。

時代柄か子どもたちも草鞋や下駄を履いています。

このちょうさいが矢野から譲り受けたものという言い伝えは、今となってはその真偽を確かめようもありませんが、あながち間違った話ではないように思われます。

というのも、元々、天応の地は矢野村の一部で、それが江戸時代の初期に分立し、大屋村となったという歴史があるからです*5

いわゆる旧安芸郡同士*6という関係以上の縁の深さが天応と矢野との間にはあるのです。

 

さて、大西、下西、大浜のいずれにおいても、だんじりが主役としての存在感を放っていましたが、もちろん天応の祭りにも昔からやぶはいます。

例えば、こちらの写真。

 

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星山武士氏提供

 

先ほどの一枚と同様、大浜地区の写真で、こちらは人々が身にまとっている衣服から推測するに、戦後に撮られたものと思われます。

背後に写っている大屋村役場の建物は、昭和37年、当地に天応支所庁舎が建てられるまで存在していたことから*7、少なくともそれ以前の写真であることは確かです。

そして、この前列右から三番目に写っているのは、紛れもなく大浜のやぶです。

下の写真はそれを拡大したもの。

 

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一方、下記の写真は、先日撮った大浜のやぶ。

 

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面の顔つきや髪の長さ、衣装の柄、紅白布で巻いた竹。

どれをとっても半世紀以上に亘って、先人の作った「型」を頑なに守り抜いていることが分かります。

大浜においては、祭りの花形はちょうさいと言われていますが、「やぶも欠かせない存在」というのがこの写真からも伺えます。

 

大浜の紹介が続きましたが、言うまでもなくやぶは他の地区からも出ています。

この日、五番目に宮入りした三葉地区もやぶがしっかり睨みをきかしていました。

 

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そして、やぶの数という点で最も目を引くのが、三葉の次に宮入りした本町地区。

本町の奉納行事を盛り上げるのはやぶで、旧呉市内において伝統的に行われている俵もみが見物人を大いに沸かせていました。

 

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とりわけ、二箇所ある石段に続いて行われた本殿前での俵もみは、一際激しく、ただでさえ暑かったこの日の体感温度をさらに引き上げる勢いでした。

 

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面の顔立ちも様々です。

 

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その後、一旦、天応を離れ、吉浦へと向かい、14時過ぎに再度、天応入り。

その際、偶然にも昼休みを終えて、浜の宮*8(大浜第一公園)へと移動する本町の一行と遭遇しました。

 

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元々、漁師町とあって、海辺の「浜の宮」というのも頷けます。

神幸祭が行われるのは、15時からと聞いていましたが、天応に戻るや否や一時間程度、落走地区にも足を伸ばしていたため、大浜第一公園に着いたときは、既に神事が始まっていました。

烏帽子岩*9と向き合いながらその様子を見守る子どもたちの姿は、これぞまさに天応の風景。

 

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しばらく一緒に見入った後、海風が運ぶ磯の香りを嗅ぎながら、「伝統とこだわり」に満ちた天応の町を後にしました。

 

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*1:昭和26年11月、大屋村が町制施行・改称され、天応町となる。

*2: 長年使われた初代ちょうさいは、経年劣化と損傷等によって使用が困難となったため、代わりに俵みこしを製作し、使用。その後、今から三十数年前に二代目ちょうさいを作り、現在はこれを使っている。

*3:冒頭の写真に写っているちょうさいも同じもの。

*4:呉市史編纂室編(1993)『呉市史第7巻』呉市役所。

*5:広島市役所編(1980)『新修矢野町誌』広島市役所。

*6:現在の安芸郡は、府中町海田町熊野町、坂町の4町のみで、地方自治体としての権能はなく、地理的区画としての位置づけに過ぎない。元々は、明治11年に行政区画として発足。当時の区域は、現在の広島市東区・安芸区や呉市の大部分を含むなど、広範囲に及ぶ。その後、大正11年の群制廃止を経て、昭和31年に天応町は呉市に、昭和50年に矢野町は広島市にそれぞれ編入される。

*7:天応町郷土史研究会編(1981)『呉市合併25周年記念誌天応町』天応町郷土史研究会。

*8:一般的には「御旅所」と呼ばれ、渡御に際して神様を仮に奉安する場所のことを指す。

*9:既述の天狗城山と、烏帽子岩山の特徴については下記参照。

http://homepagemt.travel.coocan.jp/newfolder8/newpage13-tenngujyouyama-eboshiiwayama.html