呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

高尾神社の祭り

多くの場合、地元の祭りへの愛着は、子どもの頃の原体験から発しています。

私もその一人。

具体的には昨年の記事に余すところなく綴っているので、詳細はそちらに譲るとして、今回は子ども時代の郷愁が今の撮影にどう影響しているのかなどの話を交えながら、2016年の10月第3土日を振り返ります。

 

私が小学校時代を送った昭和50年代の焼山は、既にいくつもの新興住宅地が開発され*1、人口も3万人を超えるなど、ベッドタウンの町として急速な発展を遂げていました。

しかし、その一方で明治以降の焼山村*2やその後の昭和村*3の面影のあるのどかな風景も多数残っていました。

その最たる場所が、焼山村の当時から人々が暮らしていたエリアで、それが今でいう北区、西区、東区の3地区です。

現在の焼山の世帯数で言うとほんの2割に過ぎない地域ですが、結局のところ、焼山村時代の集落はこの3地区しかなく、「昔の祭り」はこの3地区の青年団によって行われていました。

このブログにおいて、北区のアカ、アオ、西区のカッパ、東区のガッソー、ニビキを、焼山の伝統的なやぶとして繰り返し紹介してきたのはこのためです。

詳しくは、回を改めて「昔の祭り」(高尾神社編)で取り上げますが、下記の写真は焼山に新興住宅地ができ始めるずっと以前の時代に撮られたものです。

 

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北区青年団

 

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東区青年団

 

前者は北区で、撮影年は昭和30年代前半。

後者は東区で、昭和30年代後半の写真です。

いずれも各地区の青年団に受け継がれている、昔懐かしい写真ですが、そこに写っている北区のアカ、アオ、東区のガッソー、ニビキは、紛れもなく今も使われている古い面です。

私が小学生だった昭和50年代においても、これら北区、西区、東区には、昔ながらの家屋や風景がまだ多く残っており、その記憶のせいか、今なお、焼山の祭りの写真を撮るときは、そうした「背景」をつい探してしまいます。

例えば、こちら。

 

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場所は高尾神社の付近で、いわゆる東区。

昔はこの辺りは田畑しかありませんでしたが、今では新しい家が多く建っています。

そうした中にあっても今も当時のまま残っている田んぼは、稲刈りを終えた時期にやぶに追いかけられていた子ども時代の記憶を思い出させてくれます。

また、神社の近くに昔からあった家も、お気に入りのスポットです。

 

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こうしたシーンはまさに子どもの頃に見ていた光景そのもの。

 

写真を撮る上で「背景」とは別にもう一つ重視しているのが「状況」です。

逃げ場の少ない小道でやぶに遭遇した、あの恐ろしくも楽しい記憶が忘れられず、今でもそうした「状況」を探しては、好んで撮っています。

今年だと、例えばこちら。

 

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曲がりくねった小道は遠方の視界が開けていないため、突如としてやぶに出くわすことがあります。

この写真のように前方から数匹のやぶがこちらに向かって歩いてくるといった場面は、子どもの頃の自分にとっては恐怖で声も出ない情景以外のなにものでもなく、腰が抜けそうになりながら逃げていたものです。

小道の恐ろしさはこれだけではありません。

やぶに遭遇し、慌てて一方向に向かって駆けていると、下記の写真のように突然、反対方向からもやぶが迫ってくることもあります。

これはもう恐怖というよりも絶望のレベルです。

 

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私たちは子どもの頃、こうした「状況」を挟み撃ちと呼んでいました。

やぶ同士が顔を近づけあって何か話しをしていると、挟み撃ちの作戦を立てているのではないかとよく疑ったものです。

実際、やぶが集まる神社周辺の東区は、偶発的にせよ計画的にせよ挟み撃ちが発生しがちな小道の宝庫だったため、そうした悲劇に出くわさないよう、歩く道については慎重にも慎重を期して選んでいました。

 

では、そもそも子どもの頃に抱いていたやぶへの恐怖心は、一体どこから来ていたのでしょうか。

焼山のやぶに関して言うと、やはり近づくと「叩かれる」というのが意識の根底にあったのは事実ですが、下記の写真のように「追いかけられる」という点も、ある意味「叩かれる」ということ以上に恐怖を誘発するパフォーマンスでした。

 

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当時は「スリリング」(thrilling)という言葉を知りませんでしたが、『恐怖や興奮でぞくぞするさま』(大辞林)とはまさにこうした場面であったと言えます。

また、叩かれもせず、追いかけれもしなければ怖くなかったかと言うと決してそうではなく、たとえじっとしていても「見据えられる」と身動きできない恐怖を感じていました。

もしかして、今、自分は狙われているのではないか、と。

 

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上の写真の北区のアカは、そうした子ども目線の恐怖を十二分に知り尽くした上で、まさに計算づくで見据えているものと思われます。

まさにベテランのなせる業。

以上、ご紹介した6枚の写真はいずれも子ども時代の体験をなぞるようにして撮ったもので、毎年、よごろの日は、一年で最も楽しかったあの頃のことを思い出しながらカメラを構えています。

 

ここで一つ、今年撮り損ねた珍しいやぶについて触れておきます。

撮り損ねたというのは、東区のカブレ。

下記の写真がそれです。

 

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焼山の「昔の祭り」で使われていた面と聞いていますが、私自身は生まれてこの方、一度も目にしたことがありません。

その面が、今年、出されていたことを祭りが終わった数日後、知ったのです。

祭り関係者によると、近年では22年前に一度、出ており、それ以来とのこと。

惜しい機会を逸しました。

来年以降の楽しみにとっておきます。

 

さて、ここまでよごろの話に終始しましたが、例大祭の日の写真も紹介します。

基本的に私は東区育ちなので、小学生当時は東区の祭礼一行に付いて歩いていました*4

 

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上の写真はその頃のもので、法被を着た少年が私です。

35年くらい前でしょうか。

一緒に写っているやぶは、植野家所蔵のガッソーで、富永家のガッソーとつがいをなす、冒頭の白黒写真にも写っていた東区の歴史的、代表的な面です。

そうした東区との縁が深いということもあって、今年の例大祭の日は久々に東区の祭礼一行にほぼ付いて回り、写真を撮っていました。

一行に合流したのは、14時30分頃。

ちょうど広島銀行の焼山支店前に、北、西、東の各青年団が集まっている時間帯でした。

 

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最初に目に留まったのは富永家のガッソー。

惚れ惚れするような立ち姿にシャッターを切る手がしばし止まりませんでした。

ここから高尾神社までわずか350mですが、この距離を一時間以上かけて移動します。

この間、何をするのかというと、小刻みな移動を繰り返しながら、恒例の場所でひたすら太鼓を叩くのです。

太鼓のリズムは、神社への往路は「行き」、復路は「帰り」の二種類あり、いずれも旧呉市内各地の神社の祭りとは全く異なる焼山独特の拍子。

ひとしきり広銀前で太鼓を囃すと、一行は次のポイント、脇田医院の駐車場へと移動を開始します。

 

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上の写真はそのときとらえたニビキ。

前髪のかかり具合が完璧です。

関係者の相当なこだわりがこういったところにも表れています。

続いて、昭和市民センター前やパチンコ店コスモ前などでしっかり太鼓を囃し、いよいよ神社に到着。

宮入の順番は毎年、交代で変わることになっており、今年は、東区を先頭に、西区、北区と順に宮入しました。

そして、境内に着いてからもひたすら太鼓を叩き続けます。

それも北、西、東の各太鼓が至近距離で叩くので、音が混ざり合い、社殿の周辺は独特の雰囲気に包まれます。

この頃になると、境内は人で埋め尽くされており、その中には年配の青年団OBをはじめ、地元の祭り好きの顔が多く混じっています。

子どもの頃、通った理髪店の店主とも年に一度、この日のこの時間帯だけ顔を合わせます。

私を含め彼らはここで一体何をしているのかというと、太鼓が叩かれるのを「観ている」わけでもなく、「聴いている」わけでもなく、一年でこの日限りのこの場の雰囲気に「浸っている」のです。

おそらく2匹のガッソーも我々と同じく浸っていたに違いありません。

 

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郷愁を誘う場がここにあります。

 

なお、焼山独自の太鼓のリズムは、下記の動画の冒頭、30秒に収録されています。

映像自体は20年前のものと古いのですが*5、太鼓の音は今も昔も変わりません。

ご興味のある方はこちらでお聴きください。

 

www.youtube.com

 

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*1:昭和39年に桜ヶ丘団地、昭和41年に此原団地、昭和42年に第2労住協団地、昭和43年に宮ヶ迫団地、昭和45年に松ヶ丘団地、昭和46年に政畝団地、泉ヶ丘団地、ひばりヶ丘団地、昭和47年に第3労住協団地、昭和52年に本庄ハイツの開発完了。詳細は下記参照。

https://www.city.kure.lg.jp/uploaded/attachment/3773.pdf

*2:明治22年、町村制が交付され、焼山村となる。

*3:昭和6年、焼山村と本庄村(うち苗代、栃原、押込地区のみ)が合併し、昭和村となる。その後、昭和31年に呉市と合併。

*4: 但し、子供会としての参加だっため、午前中のみ。

*5:制作は2010年11月。