大辞林によると、「苗代」とは『稲の種をまいて苗を育てる所』とあります。
まさにその意の通り、苗代は平地に恵まれ、緑豊かな水田が広がっています。
その苗代の祭りを初めて訪ねたのは昨年のこと。
黄金色の稲穂を背景にしたやぶは、これ以上はないほど「秋」の要素が詰まっており、祭りの原風景を感じさせます。
2017年10月撮影
しかし、苗代の祭りの魅力はこうした牧歌的な秋景色だけではありません。
それを知るきっかけとなったのは、苗代の自治会長を務める原田武典さんたちとお会いしたときのこと。
今年の6月、事前に約束し、当地を訪れると、原田さんに加え、苗代内5地区の各総代長さん、さらに多賀雄神社の宮司さんが揃って出迎えてくれました*1。
原田さんたちのお話で最も興味深かったのは、祭り当日に至るまでのおよそ1週間に亘る「準備」です。
苗代は、上条、岡条、原条、下条、西条と5つの地区から成り立っています。
いずれも現在の住居表示では使用されていない地名ですが、苗代では昔からの集落を表す単位として、日常的に使われています。
そして、祭りの準備もこの5つの地区を基本単位として行われます。
具体的には、各地区が毎年、順番に祭りの準備を担当するのです。
例えば、今年であれば岡条がその役目を受け持ち、来年は原条、再来年は下条、以降、西条、上条と続き、5年後はまた岡条の番となります。
また、各5地区の総代長の中でも、当番地区のそれを「頭家総代」と呼び、祭りの実際の準備はこの頭家総代の自宅を舞台にして行われます。
今年は岡条の青戸登さん。
2018年の頭家総代になるのは、5年前に決まり、以来、その年々の頭家総代を見ては習い、当年を迎えたそうです。
まさに5年がかり。
その大役ぶりが伺えます。
金木犀の香りが漂う10月の初旬、お招きを受け、その青戸家を訪ねてみました。
当番地区としての本格的な準備は、祭りの8日前から始まります。
その前日には、「太鼓降し」という重要な行事があり、大太鼓や小太鼓など、祭りの囃子に必要な多くの物を神社から頭家総代の家に移します。
頭家総代宅で囃子の練習をし、諸々の道具に新しい飾り付けをするためです。
そして太鼓降し当日は、自治会長や岡条の人たちに食事を振る舞い、これから始まる準備の景気付けを行うそうなので、実質的には頭家総代の大仕事は9日前から始まっていると言っても過言ありません。
訪ねたのは、準備も大詰めを迎えた5日目と最終日の7日目*2。
玄関は開けっ放しで、たくさんの靴が所狭しと並んでいました。
作業中と思われる部屋から大勢の声が漏れ聞こえる中、「ごめんください」と何度か大きな声で呼びかけたものの、反応はなし。
事実上、出入り自由の状態のため、わざわざ玄関先で当家の人の応対を受けて家に上がる人はいないのかもしれません。
しかし部外者の自分がさすがに勝手に上がるのは憚れます。
そこへたまたま廊下を通りかかった方がいたので、声をかけ、来意を告げると、奥様が出て来られ、床の間のある部屋に案内されました。
そこに飾られていたのは、祭りに使われる鬼面6枚。
その側には、一番鬼から六番鬼までの衣装が箱ごとに収められています。
実は、苗代では「やぶ」とは呼ばず、「鬼」と言います。
苗代と平地で隣接する栃原では「やぶ」と言われるだけに、目と鼻の先で呼称の違いが生じたのは不思議でなりません。
これらの鬼面を祭りの約1週間前から床の間に飾り、来訪者に見てもらうのが習わしだそうです。
どれも艶々しているので新しい面に見えますが、そうではありません。
実際は、いつ作られたのか分からないほど古いものとのこと。
新しく見えるのは、近年、色を塗り替えたためです。
実際、面の裏を見ると、年季が入っているのが分かります。
一番鬼の面の裏
ちなみに塗り替える以前の姿がこちら。
提供:伊藤隆氏
撮影年月は昭和55年10月とのこと。
こういうのを目にすると、もっと昔の写真も見たくなります。
幸いにも最初に青戸家を訪ねた際、懐かしい白黒写真を持った女性が隣室にいると聞き、お会いすることができました。
作業中、昔話に花を咲かせようと持って来られていたとのこと。
拝見させてもらったのがこちら。
提供:上野恵美子氏
提供:上野恵美子氏
いずれも撮影年月は昭和38年10月。
今から55年前です。
「これは凄い」と思わず感嘆の一言を漏らすと、「他にもまだ家にある」と言われ、二度目の訪問時に見せてもらいました。
全部でなんと28枚。
以下はその一部です。
提供:上野恵美子氏
提供:上野恵美子氏
提供:上野恵美子氏
3枚とも同じく昭和38年10月に撮影されたもの。
鬼の変わらなさと言い、苗代の原風景と言い、いずれも見応えたっぷりの写真です。
さらなる収集・調査を行い、「昔の祭り」シリーズの一編に加えたいところです。
話を「今」に戻します。
鬼面が飾られた床の間の部屋を出て、声がする部屋を覗くと、大勢の女性が作業をしていました。
皆、何かを作っています。
壁には製作物リストと工程表が貼られていました。
聞くと岡条内の全35世帯が毎夜、青戸家に集まり、これらを作り続けている、と。
壁には、その一つである鬼のシャガマ(髪)が吊り下げられています。
しばらくすると庭から太鼓の音が聞こえてきました。
外へ出てみると、テントの下に太鼓が2台置かれています。
「巫女の舞」の練習が行われていた、岡条内の近隣住宅からちょうど戻ってきたところだったようです。
そこには子どもを含む大勢の人の姿があり、太鼓の練習をしている若者もいれば、パイプ椅子に座ってビールを飲んでいる大人たちもいます。
庭にいる人たちは岡条だけでなく、5地区全てから集っているとのこと。
既に祭りが始まっているかのような雰囲気で、6夜連続でこれが続くと言います。
昨今では、祭りの練習は自治会館や神社などで行われるケースが大半となっている中、実に「昔」ながらのスタイルがここ、苗代では続いています。
準備の最終日には、鬼面を被る若者が集まり、「鬼の心得」について説明を受けます。
鬼は今も昔も全部で6匹。
一番と四番の被り手は、当該年の当番地区、つまり今年であれば岡条から選ばれるのが長年の習わしです。
一番はともかく、なぜ四番もなのかというと、四番には「神輿付き」*3という他の鬼にはない重要な役目があるからです。
具体的には、終始神輿の側に控え、神輿の安全を守るという務めで、とりわけ本殿からお旅所に向かう途中、神輿が乱舞するという見せ場があり、その際、荒ぶる神輿を抑えるのは四番にのみ許された行為とされています。
但し、「鬼の心得」によれば、『神輿は鬼が神輿に触れることを大変お怒りになるので絶対に触ってはいけない』とあることから、まさに指一本触れずして「荒ぶる神輿を抑える」という、極めて高等な技が求められます。
こうした特別な役目を負っているからこそ、四番は一番に勝るとも劣らず、名誉ある重要な鬼と位置付けられているのです。
四番を被れるのは、頭家総代を輩出する当番地区の人間のみとされているのは、そのような事情が背景にあります。
一方、一番と四番を除く残り4匹の鬼の被り手は、他の4地区から選ばれるというのが、昔からのしきたりとなっています。
「鬼の心得」の説明を受けた後は、いよいよ鬼面、並びに衣装等の一式が被り手に引き渡されます。
床の間に飾られるのも、よごろの前夜が最後。
小道具類も全て完成し、あとは祭り当日を迎えるだけです。
既に時刻は21時を回っていましたが、およそ1週間に及ぶ準備・練習を名残惜しむかのように、青戸家の庭で太鼓の音が鳴り続けていました。
その2日後の10月7日、日曜日。
いよいよ例大祭の日が訪れました。
この日は13時に祭礼一行が青戸家を出発。
一路、神社を目指します。
道中の交通整理も鬼の重要な役目。
とりわけ目に付いたのが二番鬼です。
一つ一つの所作に切れがあり、ベテランの妙を感じます。
行列の中に鬼の姿を見つけ、父親の足にしがみつく子どももいました。
お馴染みの光景です。
行列の先頭は常に一番鬼。
背景の稲穂が今年も美しく、苗代ならではの秋の眺めにしばし見入ってしまいます。
既述の通り、宮入りしてからの見所の一つは、荒ぶる神輿を四番やぶが抑えるところ。
触らずに鎮めるという「難題」を必死に果たそうとする四番を静かに、そして威厳を持って見守る一番にはオーラが漂っています。
そして二番も然り。
その後、鳥居をくぐり、お旅所へ移動。
ほどなくして、御神幸祭が始まりました。
宮司による祝詞が始まると、一同脱帽し、静粛にしなくてはいけません。
それを促すのも鬼の役目です。
こうして、およそ1週間に及ぶ、昔ながらの「苗代の秋」が今年も幕を閉じようとしています。
文字通り当地の人たちが全員で作り上げているという祭りに、どこか懐かしさの入り混じった感銘を受けながら、木陰に覆われた神社を後にしました。