呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

養隈の祭り

焼山で生まれ育った自分にとって、地元、高尾神社の祭りは子どもの頃、一年で最も待ち遠しい特別な日でした。

今日の"やぶ好き"の原点はあの時代にあると言っても過言ではありません。

そんな私も今や焼山だけでなく、呉市内各地の祭りにすっかり魅せられ、毎年、秋になるとカメラをぶら下げ、方々を奔走しています。

しかし、各地の祭りを知れば知るほど、地元、焼山の伝統的なやぶについて、次のような素朴な疑問を抱くようになりました。

 

  • 焼山のやぶは、なぜ面の系統が著しく異なっているのか
  • 焼山のやぶは、なぜ髪が長いのか
  • 焼山のやぶは、なぜ子どもを追いかけ、ときに叩いたりするのか

 

とりわけ、旧呉市*1各地の神社のやぶと比較したとき、その違いは顕著で、「呉のやぶ」の代表的な見せ場でもある俵もみのような奉納行事もありません*2

そのため、焼山のやぶは本当に「神様の警護や道案内」を役目としているのだろうか、と訝しんだこともあります。

一体なぜこうも違っているのでしょうか。

本稿では、この疑問に対して「養隈の祭り」という視点から答えを探ってみることにします。

 

さて、「養隈」というのはおそらく多くの人にとって聞きなれない地名でしょう。

これは、平安期の和名類聚抄*3に記された郷名で、安芸国安芸郡十一郷の一つとされています。

読み方は「やくま」ではなく、「やの」*4

十一郷とは、安芸、船木、養隈、安満、駅屋、宋山、漢辨、彌理、河内、田門、播良で、このうち養隈は、現在の矢野、熊野町、押込、苗代、栃原、焼山、天応、坂町のあたりであったと言われています*5

結論を先取りすると、焼山のやぶは旧呉市内各地のやぶと比較すると、その特殊性が際立ちますが、かつて養隈と呼ばれていた地域のやぶや鬼と比較してみると、実に似通った部分が多いのです。

それを示すため、2016年から2019年にかけて呉市外である矢野や坂、小屋浦、熊野*6の祭りにも足を運んでみました。

以下では、その一連の取材結果をもとに、旧養隈郷であった焼山、栃原、苗代、押込、天応、矢野、坂、小屋浦、熊野の9地域*7の共通点を探ります。

比較のポイントとして、次の4点を挙げてみました。

 

  1. 呼称
  2. 面の顔立ち
  3. 髪の長さ
  4. 振る舞い

 

まずは、「呼称」について。

本ブログでも繰り返し紹介してきたように*8、焼山の伝統的なやぶは、北区のアカ、アオ、西区のカッパ、東区のニビキ、ガッソーの5種類に分類できます。

一方、他の地域ではどう呼ばれているのでしょうか。

そもそも「やぶ」という呼称があるのは、呉市内の押込、栃原、天応の3地区だけで、矢野ではアゴ、坂ではガッソー、小屋浦ではマッカと呼ばれています。

但し、押込のやぶについては、アカ、シャク、ガッソー*9の3種類があり、栃原には、旧呉市内のように一番やぶ、二番やぶ、三番やぶといった呼ばれ方をするやぶの他に、爺鬼、婆鬼と呼ばれているものもいます。

ここで注目すべきは、二点あります。

一つは、やぶや鬼といったいわゆる一般的な呼称とは別に、独特の呼び名や分類名が多く見られること。

単にやぶや鬼としか呼ばないのは、天応(やぶ)、苗代(鬼)*10、熊野(鬼)のみで、他の6地区はそれらとは別の名称や総称が根付いています。

もう一つは、ガッソーという呼び名が焼山、押込、坂の三地域に亘って存在していることです*11

とりわけ、焼山のガッソーと坂のガッソーは、二つ目の比較ポイント、「面の顔立ち」も酷似しています。

 

f:id:shorikai:20161031183753j:plain

焼山、東区のガッソー

 

f:id:shorikai:20161031183806j:plain

坂のガッソー

 

また、顔立ちという点では、呼称こそ異なるものの小屋浦のマッカも、瓜二つです。

 

f:id:shorikai:20161031183826j:plain

小屋浦のマッカ

 

いずれも伝承上は相当古い歴史があると言われていますが、文献などでその正確な年代を特定するのは困難です。

但し、歴史の古さをある程度裏付ける写真は残っています。

その一部を紹介すると、下記の写真は昭和14年10月に撮影された焼山の祭りです。

 

f:id:shorikai:20161031183855j:plain

提供:脇屋昭三氏

 

写っているのは、東区のガッソーで、いずれの面も現存しています*12

また、下記の写真は昭和20年代以降に撮られた小屋浦の祭りです*13

 

f:id:shorikai:20161031183932j:plain

 

現在の祭り関係者の方に提供いただいたもので、左右の端にマッカが二匹、写っています。

同じく、現在も使用されている面です。

 

なお、今回の主題、「養隈の祭り」からは脱線しますが、旧呉市内にもこれらとよく似た面の存在が確認されています。

一つは高日神社のかつての三番やぶ*14

下記の写真は、昭和27年頃に撮影されたものです。

 

f:id:shorikai:20161031183954j:plain

提供:木本敏数氏

 

まさに焼山、東区のガッソーと見紛うようなやぶが、右端に写っています。

また、平原神社の祭りでは、鹿田迫奉賛会から、般若と呼ばれる"ガッソー似"のやぶが今も出ています。

 

f:id:shorikai:20190425154905j:plain
鹿田のやぶ*15

 

これらのルーツと「養隈のガッソー」との関連については、今後の課題です。

 

話を「養隈」に戻します。

面の顔立ちという点では、似ているのは焼山、坂の両ガッソーと小屋浦のマッカだけではありません。

押込のアカやガッソーも「酷似」とは言えませんが、焼山のガッソーにやや近い系統です。

 

f:id:shorikai:20161031184033j:plain

押込のアカ

 

f:id:shorikai:20161031184053j:plain

押込のガッソー

 

天応、大浜地区*16のやぶは、ガッソー以外の焼山のやぶに比較的似ています。

 

f:id:shorikai:20190426132855j:plain
天応、大浜地区のやぶ

 

f:id:shorikai:20190426100338j:plain
焼山、北区のアカ

 

栃原のやぶは、独特の顔立ちをしていますが、立体的な彫りの深さという点では、旧呉市内よりもどちらかというと焼山のやぶに近いと言えます。

 

f:id:shorikai:20161031184142j:plain

栃原のやぶ

 

また、栃原の爺鬼は、焼山、東区のニビキとそっくりです。

 

f:id:shorikai:20171031101353j:plain

栃原の爺鬼

 

f:id:shorikai:20180823113425j:plain

焼山、東区のニビキ

 

髪に隠れて分かりにくいですが、面同士を比較するとその酷似性は一目瞭然です。

 

f:id:shorikai:20180823115652j:plain

左:爺鬼(栃原) 右:ニビキ(焼山) 

 

「面の顔立ち」の最後は、苗代、矢野、熊野。

苗代の鬼は、焼山のどのやぶとも似ていませんが、面白いことに矢野のアゴとは瓜二つです。

 

f:id:shorikai:20190425155021j:plain
苗代の鬼*17

  

f:id:shorikai:20161031184237j:plain

矢野のアゴ

 

また、熊野の鬼も下顎や舌の作りが苗代の鬼や矢野のアゴによく似ています。

 

f:id:shorikai:20190425155052j:plain

熊野の鬼

 

ちなみに旧焼山村の一角を成していた神山のやぶもこれらと同系統の顔立ちをしています。

 

f:id:shorikai:20190425155145j:plain
神山のやぶ*18

 

「呼称」、「面の顔立ち」に続いて、三番目の比較のポイントは、「髪の長さ」。

焼山のやぶは、分かりやすく言うと「ロングヘアー」です。

 

f:id:shorikai:20190426133003j:plain

焼山、北区のアカ

 

他の地域はどうでしょうか。

栃原、苗代、坂、小屋浦については、素材が麻ではなく、和紙という決定的な違いがありますが、長さについては、焼山同様、「ロング」です。

 

f:id:shorikai:20190426133028j:plain

栃原のやぶ(左上)、苗代の鬼(右上)、坂のガッソー(左下)、小屋浦のマッカ(右下)

 

一方、天応、矢野、熊野については、肩にかかる程度の言わば「セミロング」。

 

f:id:shorikai:20190426133129j:plain

天応のやぶ(左)、矢野のアゴ(中央)、熊野の鬼(右)

 

押込については、それら3地区よりもさらに短いものの、旧呉市内各地の神社のやぶに比べると明らかに長く、言わば「ショート」(押込)と「ベリーショート」(旧呉市内)くらいの違いがあります。

 

f:id:shorikai:20190426133205j:plain

押込のシャク(左)、旧呉市内のやぶ*19(右)

 

以上を踏まえると、養隈のやぶや鬼は、総じて髪が長いと言っても過言ではないでしょう。

 

続いて、四つ目の比較のポイント、「振る舞い」。

焼山のやぶは、よごろの日に子どもを追いかけ、ときに叩くのを伝統としています。

 

f:id:shorikai:20190426133245j:plain

焼山、北区のアカ

 

同じく、押込のやぶや小屋浦のマッカも同様の振る舞いをします*20

 

f:id:shorikai:20190426133324j:plain

押込のガッソー(左)、小屋浦のマッカ(右)

 

また、今でこそ見られなくなりましたが、栃原の爺鬼、婆鬼や熊野の鬼もからかう子どもたちを境内で追いかけ、ときに叩くのを習わしとしていたと言います。

 

以上の比較をまとめたものが、下記の表です。

 

f:id:shorikai:20190425155224j:plain


これから明らかなように、旧呉市内各地のやぶと比べてその特殊性が際立つ焼山のやぶも、「養隈の祭り」という枠組みでとらえ直すと、実に共通する点が多く見られます。

もちろん、9地域のやぶや鬼の特徴が上記の4項目において、全て一致しているというわけではなく、項目ごとに分類できる組み合わせがいくつかあるというのが実際です*21

しかし、そうした分類間の差異があるにしても、旧養隈郷であった地域には、祭り文化の近似性が一定程度存在すると言っても概ね間違いではないと思われます。

実際、本稿ではやぶや鬼に的を絞って検証を行ってきましたが、他にも例えば頂戴(ちょうさい)と呼ばれる山車も養隈の祭りに比較的多く見られる共通項として挙げることができます。

具体的には、天応、矢野、坂、小屋浦においては、やぶや鬼に勝るとも劣らず、当該地区の祭りを象徴する見所の一つとなっています*22

 

f:id:shorikai:20161031184406j:plain

天応、大浜地区の頂戴

 

f:id:shorikai:20161031184425j:plain

矢野の頂戴

 

f:id:shorikai:20161031184439j:plain

坂の頂戴

 

f:id:shorikai:20161031184450j:plain

小屋浦の頂戴

 

このように養隈の祭りには、旧呉市内の祭りとは異なる要素が多分にあります。

 

最後に、以上の検討を踏まえて、焼山のやぶについて大胆な仮説を提示します。

それは、焼山のやぶは、元々はアカ、アオ、カッパ、ガッソー、ニビキであり、その昔はやぶとは呼ばれていなかったのではないか、と。

これらをやぶという概念で括るようになったのは、もっと後の時代になってからのことではないのかという可能性です。

歴史的にも焼山が呉市編入されたのは昭和31年と比較的、最近のことです。

呉市が誕生した明治35年以降も焼山は54年間に亘って安芸郡焼山村や安芸郡昭和村であり続けました。

そして遥か昔は養隈郷の一部であり、旧呉市を含む安満郷や船木郷*23とは別の郷だったのです。

そのため、旧呉市内と異なる文化圏であったとしても何ら不思議はありません。

焼山と旧呉市の隔たりを象徴する言葉に「呉へ下りる」という表現があります。

呉市編入されてから60年が経った今でも焼山の人は、旧呉市内へ行くことを「呉へ下りる」と言います。

そうした意識の壁が、今なお異なる文化圏の境界になっているのかもしれません。

それでも矢野や坂、小屋浦、熊野と違って、やぶという言葉が少なくとも戦前の昭和村時代から使われていたのは、地理的に旧呉市と隣接していたからではないかと考えることもできます。

あくまで推論ですが、昔の焼山の人たちが普段、アカ、アオ、カッパ、ガッソー、ニビキと呼んでいたものが、ある時期、旧呉市内の祭りで言うと「やぶ」に相当すると考えられるようになり、以降、これらがやぶとして上書き認識されるようになったのではないか、と。

海水と淡水が交わる水域を汽水域と呼びますが、焼山はまさに養隈の文化と旧呉市の文化の汽水域だったのかもしれません。

上記の仮説は、同じく旧養隈郷の一部であり、アカ、シャク、ガッソーの3種のやぶがいる押込においても当てはまる可能性があります。

さらに議論を拡張すると、養隈とはまるで別域にある警固屋地区も、宇佐神社のカッパ、ヨダレ、ニグロや、貴船神社のエンマ、ダンゴ、ニグロのように地区ごとに多様なやぶが存在していること、さらに地理的には旧呉市外であり、歴史的にも呉市編入されたのは旧呉市が誕生して26年後の昭和3年であることから、条件面では焼山と比較的似ています。

そのため、警固屋地区においてもやぶという言葉が使われるようになった時期が分かれば、その結果次第では、上記の推論の傍証に繋がるかもしれません。

このあたりについても、今後の課題です。

 

今回は、限られた取材結果をもとに試論を奔放に述べましたが、今後さらに取材を重ね、「養隈文化圏」という概念の妥当性、有効性を引き続き、検証してみようと考えています。

本稿はそれに向けた第一歩と位置づけています。

 

(2017年10月31日、一部改訂)

(2018年08月23日、一部改訂)

(2019年04月26日、一部改訂)

 

Copyright(c)2019, kureyabu All Rights Reserved

*1:明治期の宮原村・和庄村(明治25年より和庄町)・荘山田村の呉浦3村、並びに吉浦村から川原石・両城地区が分離し誕生した二川町が、明治35年に合併してできた地区。

*2:但し、呉市文化振興課市史編纂グループが所蔵する昭和26年当時の焼山の祭りの写真(2枚)には俵みこしが写っている。これがどう使われていたのかについて現在調査中。また、昭和45年に造成された焼山の新興住宅地、松ヶ丘団地は隔年で高尾神社にて俵もみを行っている。

*3:巻六から巻九までの四巻に、古代における全国の郷名が列記され、それらに訓が付されている。このうち、巻八に安芸国の郷名が群別に列挙されている。

*4:平安末期の写本、高山寺本の訓は「夜乃」、室町中期の写本、東急本の訓は「也乃」。芸藩通志は「隈」は「濃」の誤りとしている。

*5:角川日本地名大辞典(34)広島県、及び下記を参考に記述。

矢野 (広島市) - Wikipedia

*6:熊野町は、かつて熊野村、川角村、平谷村であった3地区から成る。このうち、今回訪ねたのは旧熊野村に鎮座する熊野本宮神社の祭り。同神社の関係者によると、旧川角村、旧平谷村は、熊野本宮神社ではなく、矢野の尾崎神社の氏子地区となっている。なお、このことと、川角、平谷が江戸時代の初期まで矢野の一部であった(『廣島縣矢野町史』参照)こととの関連は不明。

*7:具体的には、高尾神社(焼山)、竹内神社(栃原)、多賀雄神社(苗代)、向日原神社(押込)、田中八幡神社(天応)、尾崎神社(矢野)、八幡山八幡神社(坂)、小屋浦新宮社(小屋浦)、熊野本宮神社(熊野)の祭り。なお、熊野では春に熊野本宮神社の例大祭が行われ、秋に榊山神社例大祭が行われる。熊野本宮神社は、榊山神社と同じ敷地内にあり、春秋ともに鬼が出る祭りが行われている。

*8:例えば、下記の記事(「高尾神社の祭り」2016年10月22日掲載)。

http://kureyabu.hatenablog.com/entry/2016/10/22/195753

*9:但し、押込のガッソーについては、年配の地元関係者はクロと呼んでいる。

*10:苗代は呉市内でありながら、やぶという呼称は使われておらず、古くから鬼と呼ばれている。

*11:岡山の方言に「がっそー」という言葉がある。意味は、『髪がぼさぼさであるさま』。また奈良には「がっそ」という方言があり、『頭髪がぼうぼうとしている状態』という意味で使われている。但し、焼山、押込、坂の「ガッソー」の由来や、これら岡山、奈良の方言(下記参照)との関連は不明。

https://dictionary.goo.ne.jp/srch/dialect/%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%9D/m0u/

*12:但し、向かって右の植野家の面(雌)は、平成15年を最後に祭りに出されていない。

*13:提供者によると、撮影年月は戦後であることしか分かっていない。

*14:和庄通4丁目自治会から出ていたやぶ。

*15:四番やぶ。

*16:天応においては、大浜地区の祭りの歴史が最も古いとされている。

*17:一番鬼。

*18:神山神社の祭りにおける神山地区の一番やぶ。当地の祭りでは、他にも三ツ石地区、南ハイツからもやぶが出ている。

*19:伏原神社奉賛会の一番やぶ。

*20:中でもマッカについては、近年では「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)や「俳句王国がゆく」(NHK)といったテレビ番組でも取り上げられるなど、今や全国区の知名度になりつつある。

*21:当該4項目以外にも衣装や襷、あるいは竹に巻く布の柄といった点でも共通項が多く見られる。

*22:この内、天応(大浜地区)と小屋浦における初期の頂戴は、矢野から譲り受けたものという言い伝えがある。なお、矢野の頂戴の歴史については下記参照。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/yano-k/town/rekisikouza.chousai.pdf

*23:呉市制100周年記念版 呉の歴史」(呉市史編纂委員会)を参照。