呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の魅力をお伝えします。

昔の祭り(大歳神社編)

のどかさや檐端の山の麥畠

 

明治28年3月、「呉港」と題し、この句を詠んだ俳人正岡子規は34年の生涯で一度だけ呉を訪れています。

宇品で乗船した子規が最初に着いた場所は、当時の「呉の玄関」、川原石でした。

その川原石を一望する、かつて「城山*1と呼ばれていた小高い丘に鎮座しているのが大歳神社

社殿には子規の句が奉納されています。

 

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さらに奥へ進むと、大きな写真が2枚、掲げられています。

 

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木製の淵には「遷宮式記念」とあり、昭和2年5月27日に撮影されたことが記されています。

元々、大歳神社は和庄村字堀に鎮座していたのですが、明治43年9月に現在地(三条1丁目)に遷座されたという経緯があります。

その背景には明治期になってからの呉のまちの急激な変容がありました。

かつて半農半漁の寒村でしかなかった呉浦歴史の表舞台に立ったのは明治19年のこと。

この年、当地に第二海軍鎮守府が置かれることが決まり、明治22年には鎮守府開庁、明治36年には海軍工廠が設立されるに至りました。

こうした経緯を経て、旧呉市*2の人口は、明治20年は僅か1万5千人に過ぎなかったのが、明治40年には9万3千人へと約6倍に急増*3

その結果、和庄村の大歳神社周辺も人家が増え、次第に境内地も手狭になったことから、明治43年に旧有崎城跡地の現在地に遷座されることになったのです*4

ちなみにこの年は、既に開業していた県下最初の路面電車*5が西本通1丁目(現・海岸1丁目正円寺前)まで延伸開通した年でもあり、旧二川町川原石・両城・三条地区)の住民にとっては記念すべき年になりました。

その後、昭和2年5月には、移転した大歳神社の目と鼻の先にあった金比羅が当社と合祀されることになりました。

金比羅宮というのは、元々は明治期に旧有崎城下に住む、斎藤貞弥という讃岐出身の海軍職工が故郷の金比羅さんを祀ろうと、小さな社を自作し、毎朝夕の参拝を行ったことに端を発します。

それが次第に遠方から参拝に来るほど人々に知られるところとなり、いつの間にかこの城山自体が金比羅と呼ばれるようになったといいます。

上の2枚の写真にある「遷宮式記念」というのは、その金比羅宮が大歳神社との合祀によって「遷宮」されたことを地元の人たちが大々的に祝って行った式典だったというわけです*6

さて、ここで注目したいのは向かって左の一枚。

 

写真1

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大勢の人で賑わっている沿道に紛れもなく一匹のやぶを確認することができます。

下の写真は、その部分を拡大したもの。

 

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見物客が前に出ないよう竹を横に構える姿や亀甲柄の衣装は、まさに現代のやぶと見紛いそうですが、写っているのは正真正銘90年前のやぶです。

この一点からも「大歳のやぶ」の歴史の古さが伺えます。

ところが、これだけの歴史を有していながら、現在、大歳神社の祭りには大人のやぶは出ておらず、子ども主体小規模な祭りとなっています

もちろん子ども主体の祭りもそれはそれで賑やかで盛り上がりがあるのも事実ですが、長い歴史に裏打ちされた、大人のやぶならではの「空気」を今やこの地で感じることができなくなってしまっているのは、一抹の寂しさがあります。

今回は「かつて両城・三条地区にこんな祭りがあった」という歴史を掘り返し、「呉のやぶ」史の記録として後世に残すこととします。

 

さて、大歳神社の「昔の祭り」を取材する中で今回得られた最も古い証言は、昭和22年11月3日の出来事に関するものです。

時は、今からちょうど70年前にさかのぼります。

語ってくださったのは現在、大歳神社の総代長を務める荒谷一さん*7

昭和9年10月生まれの荒谷さんは、13歳だった当時、ある現場を目撃しました。

それは大歳神社のやぶ鯛乃宮神社のやぶとの間で起きた激しい喧嘩で、そのとき大歳側のやぶの面が目の前で何枚も割れてしまったのです。

正確な枚数は定かではありませんが、荒谷さんは、大歳からは4、5匹のやぶが出ていたと記憶しており、割れたのは、そのほぼ全てであったと振り返っています。

当時、中学1年生で一見物客でしかなかった荒谷少年は、喧嘩の原因や細かな経緯など知る由もありませんでしたが、鯛乃宮の祭り関係者の一人で、昭和12年生まれ中田貢さんによると*8、昔は鯛乃宮と大歳の祭り区域の境界線上*9で双方が対峙し、音頭に合わせて一番やぶから五番やぶまでがそれぞれ互いに竹を重ね合わせるという「儀式」を行っていたそうです。

その際、勢い余って「竹が滑った」と言い、激しい喧嘩に発展することが珍しくなかったとか。

実際、荒谷少年が目撃した昭和22年の出来事の他にも、昭和20年代後半、鯛乃宮の六番やぶの面が大歳との喧嘩で割れてしまったことを、その当時中学生だった中田さんが記憶しています*10

戦後間もない昭和20年代の話しなだけに、「時代」が感じられる証言です。

 

続いての手がかりは次の一枚。

 

写真2

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写真を所有していたのは昔の祭り関係者(故人)で、地元の方の協力を得て、ご提供いただきました*11

撮影年月日については、裏面に「昭和28年11月3日」と記されています。

場所は、大歳神社の少し手前にある金比羅山公園の入口。

石垣が特徴的です。

よく見ると後の列にやぶが7匹写っているのが確認できます。

当該箇所を拡大したものがこちら。

 

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手前に3匹、奥側に4匹います。

昭和30年生まれで、かつての大歳の祭り関係者の一人、岡田美鶴さんから得られた証言*12をもとにこれらのやぶを写真鑑定した結果、写っているのは前列右から一番、二番、三番、後列右から四番、七番、五番、六番であることが判明しました*13

この写真2の二年後、昭和30年*14に撮られたのが下記の写真3です。

 

写真3

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提供者は昭和18年12月生まれ仁井谷敏隆さん*15

前列左の獅子を担いでいる少年が当時小学6年生*16だった仁井谷さんです。

あいにくやぶは写っていませんが、この写真をもとにこの頃の稚児の役回りについて、貴重な証言を得ることができました。

仁井谷さんによると、写真3の最後列に立っている4人の稚児は「太鼓」、その前の4人は「ヂャンギリ*17」、さらにその前の6人は獅子の前で踊る「獅子舞」、そして最前列で獅子を持った2人は「獅子」と呼ばれていたそうです。

小学3年生のときから大歳の祭りに参加するようになった仁井谷さんは、獅子舞、ヂャンギリ、太鼓の順に経験を積んで、最後に獅子の役を任されたとのこと。

下の写真4も仁井谷さんから提供いただいたもので、向かって左が「獅子舞」、右が「ヂャンギリ」です。

一口に稚児と言っても役回りによって衣装が全く異なっていること、そして当時の衣装が今では見られないような本格的重厚なものであったことが伺えます。

 

写真4

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ちなみに仁井谷さんに昭和28年の写真2を見てもらったところ、最前列中央の位置でしゃがんでいる男性がこの当時の大歳の祭り事情に最も詳しいとのことでした。

おそらく青年団だったのでしょう。

写真3の最後列左端にも写っているこの男性は、三条通りで駄菓子店を営んでいたというオオタ マサルさん*18

残念ながらこの度の取材では所在が確認できず、インタビューは叶いませんでしたが、昭和20年代の「大歳のやぶ」を知る貴重な証人のお一人なだけに、引き続き、何とかして会ってお話しを伺いたいと考えています。

 

続いての写真提供者は昭和24年生まれ片本清二さん*19

片本さんが初めて祭りに参加したのは、昭和34年小学4年生のとき。

以降、昭和63年までの30年間、大歳の祭りに携わってきました。

 

写真5

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写真5で獅子の右隣に写っている少年が片本さんです。

場所は両城小学校で、ここが浜の宮だったとのこと。

続いて、写真6。

 

写真6

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最前列左端に座っているのが中学生だった頃の片本さんです。

場所は大歳神社の社殿前で、昭和30年代後半に撮影されたもの。

やぶは向かって左端が一番、右端が三番、その斜め左奥が二番です。

 

写真7

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写真7はそれからさらに数年が経った頃のものでしょうか。

やぶの左隣に写っているのが片本さんで、写真6よりもさらに大人びて見えます。

場所は呉陸橋北詰付近で、右端のやぶは三番です。

片本さんによると、この頃もやはり鯛乃宮神社の祭礼一行と決まった場所で対面、対峙していたそうです。

具体的には、まず13時に海岸交番付近で、続いて15時に呉陸橋北詰付近で合流していたとのこと。

但し、前記の戦後間もない昭和20年代の頃とは違って、この当時は両者の睨み合いが喧嘩に発展するといったことはもはやなく、どちらかと言うと友好的な関係にあったそうです。

 

時系列で見ていくために、ここで別の方から提供いただいた写真も一枚紹介しましょう。

 

写真8

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上記の写真8の元々の所有者は、長らく大歳神社の氏子総代を務めていた田妻千之さん(故人)で、この度、ご家族の方からご提供いただきました。

撮影年は今からちょうど半世紀前昭和40年代前半で、場所は呉陸橋の下あたりです。

やぶは、向かって右から順に四番、七番、一番、六番

この頃からカラー写真が普及し始めたため、歴史に埋もれていた「大歳のやぶ」の姿が白黒時代よりも鮮明に浮かび上がってきます。

 

再び、片本さんの写真。

 

写真9

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こちらは鳥居前での俵もみの様子を写した一枚です。

撮影年月日は昭和48年11月3日と記されています。

見物客も多く、賑わっています。

 

そして写真10。

 

写真10

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場所は社殿前で、昭和50年11月3日に撮られたもの。

やぶは向かって右から一番、三番、二番、五番で、法被を着ている男性が片本さんです。

ここまで来ると、「大歳のやぶ」がどんなものだったか、ほぼ全容が見えてきます。

写真8と写真10によって、昭和28年の写真2に写っていた7匹のやぶ全てがはっきりと確認できるからです。

その後、昭和54年以降になると片本さんが彫った面が2枚加わり、計9枚体制となりましたが、戦後における大歳の祭りは、長年、上記のやぶが「不動の7面」だったと言えます。

しかし、こうして祭りを賑わした「大歳のやぶ」も文字通り昭和時代の最後の秋昭和63年を境に姿を消しました。

振り返ってみると、昭和33年呉中央桟橋ができ、「呉の玄関」が川原石から宝町へと変わったこと、それに伴って人の流れも変わってしまい*20、地元商店街からかつての賑わいが次第に失われていったこと。

さらにこうした経緯を背景に少子高齢化人口減少が徐々に進展していったこと、その結果、祭りを運営する予算が年々確保しにくくなったことなどが遠因として挙げられます。

平成の時代になってからは、やぶも出なければ太鼓や笛の音も聞こえない、この土地の人たちにとっては寂しい時期が続きました。

そうした「冬の時代」に風穴が開いたのが平成14年の秋です。

この年、大歳の祭りが子ども祭りとして復活したのです。

14年ぶりにやぶも出ました。

但し、被っていたのは子どもです。

 

写真11

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写真12

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そのため、本格的な着こなしとはなりませんでしたが*21、こと面に関しては紛れもなく写真11には手前から二番、四番が、写真12には七番が写っています*22

しかし、これらの木彫りの面は子どもが被るには重すぎたということもあって、翌平成15年以降紙製の面を作り、それらが使われるようになったといいます。

写真13はその一つ。

木彫りの一番を模したもので、中々の出来栄えです。

 

写真13

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ともあれ、昭和を沸かせた「不動の7面」の復活は、この平成14年の一年限りとなりました。

その場に立ち会えなかったのは残念ですが、大歳の熱気は、今なお地元の子どもたちを通して感じることができます。

 

エピローグ

 

ところで現在、あの7面は一体どうなっているのでしょうか。

この度の取材に際して、この点を荒谷さんに尋ねてみたところ、何と今でも神社の蔵に大切に保管されていることが分かりました。

そこで見せていただいたのがこちらの7枚*23

 

写真14

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写真14の上段が左から一番、二番、三番、四番

下段が五番、六番、七番です。

あたかも封印されていた「昭和の歴史」が平成の世に突如として現れたかのようです。

これだけでも十分衝撃的な「発見」だったのですが、現存する面からさらに詳細な事実を得るべく、八咫烏神社の祭り関係者でやぶの面に造詣の深い大林鉄兵さん黒田哲仙さんのお二人の協力を得て、荒谷さんの立会いのもと面の表裏をつぶさに鑑定しました*24

 

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その結果、意外なことに一番、二番よりも三番から七番の方が明らかに古い時期に作成されていると思われること*25、そしてさらに三番から六番までの4枚ははっきりと割れた跡が確認でき、丁寧に修正が施されていること判明したのです*26

具体的には下記の写真15から写真18に緑の点線で表示している部分がその割れた箇所です。

 

写真15

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写真16

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写真17

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写真18

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ここで思い出されるのは、昭和22年11月3日、当時13歳だった荒谷さんが目撃した出来事です。

荒谷さんはこう証言していました。

大歳神社のやぶと鯛乃宮神社のやぶとの間で起きた激しい喧嘩で、大歳側のやぶの面が何枚も割れてしまった』と。

そう、ぴたりと符合します。

ものの見事に割れた痕跡は、まさに昭和22年のあの日の傷跡だった可能性が極めて高いと言えます。

そして、さらに驚くべき「可能性」が歴史の闇に埋もれていたのですが、この点については、次作「昔の祭り(宇佐神社編)」で披露します。

 

謝辞

本稿を作成するにあたり、荒谷一氏、仁井谷敏隆氏、片本清二氏には、長時間に亘るインタビューにご協力いただきました。岡田美鶴氏、中田貢氏にも貴重な証言をお寄せいただきました。中富隆雄氏、伊原直昭氏、大森栄作氏にはご自身の人脈を駆使し、各方面の取材先のご紹介や貴重な資料のご提供をいただきました。大林鉄兵氏、黒田哲仙氏には、面の鑑定に多大な協力をいただいたばかりか、新たな情報を得る度に何度となく貴重なご意見をお聞かせいただきました。亀山神社の太刀掛裕之氏(宮司)、呉市文化振興課市史編纂グループのスタッフの方々には、いつもながら筆者の煩雑な質問に対し、丁寧かつ細やかな応対をしていただきました。ここに記して感謝の意を表します。

なお、本稿の記述における誤謬の責は筆者にあります。

 

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*1:この場所が旧有崎城跡地であったことに由来。

*2:明治35年、宮原村・荘山田村・和庄町・二川町が合併し、旧呉市が誕生。

*3:人口統計値については下記を参照。

http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-5378.html

*4:大歳神社の由緒書きより。

*5:明治42年に西本通3丁目(現・三条2丁目)から本通9丁目(現・本通4丁目)までの区間で開通。

*6:金比羅宮については、「ふたかわ:歩けば歴史が見える」(二川ふれあいクラブ編)、並びに当地区の旧家、末永家所蔵の資料を参考に記述。

*7:2016年12月17日、取材。

*8:2017年1月22日、取材。

*9:具体的には、現在の呉陸橋北詰付近にあった下駄屋店前。

*10:面の右こめかみのあたり。

*11:2017年3月21日、取材。

*12:2017年1月22日、取材。

*13:但し、各面の順位は岡田さんが祭りに参加していた昭和40年から昭和63年の間のもので、当該写真が撮影された昭和28年当時も同じ順位であったかどうかは不明。

*14:もしくは三年後の昭和31年。

*15:2017年4月8日、取材。

*16:もしくは中学1年生。

*17:金属製の打楽器の一種。隣接する鯛乃宮神社の祭り区域では「チャンギリ」と呼ばれている。

*18:荒谷さんの証言によると、昭和4年生まれ。

*19:2017年1月26日、取材。

*20:荒谷さんの証言。

*21:例えば、写真11では靴や靴下、短パンを履いていたり、写真12ではTシャツ、法被を着ている点。

*22:写真11、及び写真12については、写真8と同様、田妻千之さん(故人)のご家族より提供。

*23:2016年12月17日、並びに2016年12月26日、境内にて撮影。なお、一番については、現在の祭り関係者に一時的に貸し出されていたため、2016年12月26日、当該関係者と個別に面談し、その場で撮影。

*24:2017年2月4日、鑑定。

*25:既述の通り、一番については、現在の祭り関係者に一時的に貸し出されていたため、ここでの鑑定作業は行えなかったものの、それに先立つ2016年12月26日、当該関係者と面談し、鑑定を先行実施。なお、鑑定の協力者は、高尾神社の祭り関係者でやぶの面に造詣の深いH. Mさん。

*26:五番については、一部剥げかけている塗装の下に別の塗装が確認できることから、いずれかの時期に塗り直されていること、また七番のみ杉または檜で作られており、他は全て楠製であることも判明。