前編・中編からの続き
11月3日
この日は小祭り。
小祭りの厳密な定義は、亀山神社の兼務社8社*1と飛地境内社1社*2の祭りで、いわゆる「小宮の祭り」を指します。
決して「小さい祭り」の意ではありません。
一方、同日は旧呉市内において、亀山神社とは直接繋がりのない3社の祭りも行われます。
これらのうち、今年訪ねたのは10社の祭り。
但し、これはあくまで神社を基準に数えた数字です。
例えば、平原神社の祭りのように鹿田迫奉賛会のやぶと畑祭礼委員会のやぶを個々別々に違う場所で撮るケースもあり、やぶを奉賛会や保存会、地区などといった単位でとらえると対象は計14になります。
そのため今年もよごろの日も含めて分刻みの計画を作成し、それに基づいて順次予定地を回りました。
訪問箇所が多いので、以下にその行程を箇条書きで記します。
11月2日
09:00 鹿田集会所(平原神社/鹿田迫奉賛会)→鹿田地区内
10:00 伏原神社(伏原神社奉賛会)→中通商店街
11:10 三宅本店(平原神社/鹿田迫奉賛会)
12:30 長迫小学校(平原神社/鹿田迫奉賛会)→本通7丁目交差点
13:50 クレイトンベイホテル(恵美須神社)→川原石商店街
11月3日
06:50 髙日神社(髙日祭礼奉賛会、髙日神社祭礼保存会)
07:40 胡町公園(龍王神社/龍王会、伏原神社/朝日町廣鈴会)
09:15 宮原2丁目自治会館(赤崎神社)→室瀬地区内
10:10 神原公園(伊勢名神社)
10:55 ガスト呉店(龍王神社/郷町自治会)
12:20 ピュアークック長ノ木店(平原神社/畑祭礼委員会)→ギャラリー三宅屋商店
12:50 本通7丁目交差点(平原神社/鹿田迫奉賛会)
13:10 三条商店街(鯛乃宮神社)→二河川公園
13:45 三津田橋(鯛乃宮神社、出穂金神社)
14:40 八咫烏神社
16:00 龍王神社(龍王会)
全体を概観しやくするためにエリアごとに括ると、次のようになります。
まず旧呉市とは、明治35(1902)年10月発足当初の呉市のことで、当時の宮原村、和庄町、荘山田村、二川町から成り立っています。
ちなみに和庄町は、元々は和庄村で、明治25(1892)年に町制施行。
二川町は、明治35(1902)年4月に吉浦村から川原石・両城地区が分離され、設置されました。
これら呉浦3村と二川町の位置関係を示したのが下記の地図です。
地図
呉市入船山記念館編(1993)「『呉浦』の絵図:『村絵図』のなりたち」『館報 入船山 第5号』を参考に作成
この地図が示す通り、旧宮原村の祭りは、八咫烏、伊勢名、赤崎の3神社。
旧和庄村の祭りは、亀山神社を除くと、髙日、平原の2神社。
旧荘山田村の祭りは、伏原、龍王、出穂金、鯛乃宮神社の4神社。
旧二川町の祭りは、大歳、照日、恵美須の3神社となります。
なお、このうち大歳と照日の2神社だけは、上記の行程に含まれていません。
旧宮原村の祭り
八咫烏神社
八咫烏神社の社殿は実は遥拝所で、本殿は今も高烏山にある。
この事実を初めて知ったとき、一体何を言われているのかさっぱり分かりませんでした。
「遥拝」というのは、『遠く離れたところから神仏などをはるかにおがむこと』(大辞林)の意で、「遥拝所」とは、そのために設けられた場所を指します。
簡単に言うと、八咫烏神社は、元々は現在の場所(宮原11丁目)ではなく、休山の南西に位置する高烏山の山中にありました。
それが、昭和15(1940)年に本殿を高烏山に残したまま、現在の場所に遥拝所を設ける形で移転したと由緒に記されています。
由緒
本殿については、奥の院と呼ばれ、今でも小さな祠があります。
八咫烏の祭りで育った地元の青年団にとっては慣れ親しんだ場所のようで、近年は例大祭の前に、その年の稚児と巫女は同所へ参拝に行くのが慣例になっているそうです。
目的は、彼ら・彼女らが今年、氏子の代表として神様のお遣いを務めることの報告と、関係者の安全祈願です。
祭り本来の意味や祭りの中での自分たちの役割などを体感的に理解する有用な機会になっているのかもしれません。
今年の参拝日は10月19日。
午前に巫女、午後に稚児と2班に分かれて行き、私は午前の班に同行させてもらいました。
途中までは車で行き、降車地からは大人が先導しながら細い山道を通り、慎重に子どもたちを目的地まで誘導。
着いた先には、話に聞いた通り、小さな祠が鎮座していました。
人里離れた山中とあって、その様はどこか神秘的で幻想的。
小雨の降る中、子どもたちが拝礼する姿を見届けて、奥の院を後にしました。
奥の院参拝
...
祭りの本質が自然の恵みやそこに宿る神様への感謝だとすると、八咫烏の祭りはもうこのときから静かに始まっていたのかもしれません。
...
伊勢名神社
伊勢名神社のお膝元、神原には比較的古い番の面があります。
ところが、これらよりもはるかに古い面が、その昔、当地の祭りに出ていた可能性が浮上しました。
そのきっかけは写真や証言ではなく、下記の面に記された「伊勢名神社」の文字です。
面の裏
「はるかに古い」と称したのも、これを見ればうなずけるでしょう。
あいにく面の表は、綺麗に上塗りされているため、古面の片鱗はもうどこにも見当たりませんが、裏側にはこの面の本当の姿が今なお刻まれています。
面の表
実はこのやぶ、かつては髙日神社の祭りで和庄4丁から出ていました。
少なくとも昭和32(1957)年頃から昭和52(1977)年頃の間、髙日の祭りに四番やぶとして出ていたことが複数枚の写真によって確認されています*3。
和庄4丁のやぶ①
昭和43(1968)年撮影
右から順に四番、二番、一番、三番
提供:佐竹美余二氏
また、昭和27(1952)年の写真には一番から三番までの3匹しか写っていないことから、おそらく翌昭和28(1953)年から昭和32(1957)年頃の間のいずれかの年以降、髙日の祭りに出るようになったと考えられます。
なぜ、伊勢名神社と書かれた面が髙日の祭りに出ていたのか、またどういう理由でそう書かれていたのかは不明ですが、元々、伊勢名神社の祭りに出されていた当該面が、昭和30(1955)年前後に和庄4丁の祭り関係者へ何らかの形で譲渡されたと考えるのが自然でしょう。
その理由は、第一にこの面がいわゆる髙日顔(詳細後記)には程遠いこと。
第二に(神原を含む)旧宮原村に隣接する警固屋地区では、この種のやぶが昔は複数匹出ていたことです。
その一枚が下記です。
スイカ
この面は、かつて宇佐神社の祭りにおいて第三分団(現西区)から出ていた、「スイカ」と呼ばれていた面の一枚と考えられ、現在は大歳神社(呉市三条)に保管されています*4。
上塗りされ、素顔が分からなくなってしまった髙日保管の面と比較しても、その酷似性は一目瞭然でしょう。
さらに裏に至っては、同じ時期に同じ人が彫ったのではないかと思わせるほど、よく似ています。
スイカの裏
この系統(以下、スイカ系と表記)の面は、警固屋地区では第三分団だけでなく、その隣の第四分団(警固屋)からも地元、貴船神社の祭りに出ていました。
貴船神社の祭り
昭和25(1950)年撮影
右端は現在のエンマ系、中央と左端がスイカ系のやぶ
提供:沖野進氏ご遺族
今はもうスイカ系のやぶは警固屋地区からは出ていませんが*5、昔は当地の一主流派を成し、隣接する旧宮原村にも影響を与え、その結果、当該種のやぶが神原からも出ていたのかもしれません。
それが訳あって、さらに隣地の旧和庄村の和庄地区に流れ着き、そこで20年余りの間、四番やぶとして祭りに出ていた、と。
あくまで可能性の範疇に過ぎませんが、状況証拠からはそのような仮説が浮かび上がってきます。
あとは、実際にこの面が伊勢名神社の祭りに出ていたことを裏付ける古写真が揃えば、パズルは全て埋まるのですが、その一枚のピースが中々見つかりません。
...
赤崎神社
赤崎神社と切っても切り離せない関係にあるのが、クレトイシ*6の創業家である高橋家。
先の大戦で焼失した社殿の再建に尽力したのが、創業者、兼吉氏の子息である定、満、弘の3兄弟でした*7。
昭和32(1957)年のことです。
ちなみに同社の2代目社長となった、次男の満氏は、呉市体育協会会長(昭和38年-昭和46年)や呉商工会議所会頭(昭和46年-昭和49年)も歴任するなど、戦後の呉を代表する財界人の一人です。
その満氏は、社殿再建の3年後の昭和35(1960)年にはやぶの面の寄贈も行いました。
寄贈されたのは3面で、以来、当地の祭りで使われ続けています*8。
満氏の3面
収納箱に書かれている「奥田龍王」は、本名奥田秀雄*9で、奈良県を代表する彫刻家の一人です。
収納箱
実はこのとき、満氏だけなく、長男の定氏と三男の弘氏もそれぞれ3面ずつ、やぶの面を龍王に発注していました。
このうち弘氏の3面は、平成に入ってから高橋家の蔵で発見され、その後、赤崎神社に寄贈されています。
弘氏の3面
収納箱
満氏の3面と比較すると、互いによく似た作りではあるものの、部分部分では異なっていることが分かります。
一方、定氏の3面については、2015年7月にインターネット上でオークションにかけられ、その数日後に落札されていることが確認されています*10。
オークションに出されるに至った過程や、出品者や落札者については分かっておらず、現在、その所在についても不明です。
但し、当該3面の写真はその収納箱*11とともにインターネット上に掲載されていました*12。
満氏、弘氏の各3面と比べてみると、やはり雰囲気はよく似ているものの、細部は違っています。
高橋家はその後、代替わりを重ね、現在は赤崎神社との縁は薄くなっているようですが、当家がこの地に残した功績は大きく、今年も満氏、弘氏の6面のやぶが室瀬の秋を彩っていました。
...
旧和庄村の祭り
髙日神社
髙日神社の祭りは、現在、寺西地区を地盤とする髙日祭礼奉賛会(以下、寺西と表記)と、寺迫・登・古江の3地区を母体とする髙日神社祭礼保存会(以下、寺迫と表記)によって行われています。
その寺西と寺迫において近年起きた最も大きな変化は、一番やぶの面が変わったことです。
正確に言うと、寺西においては2016年より宮入時の一番が変わり、寺迫においては2017年より一番、二番が変わりました。
奇しくもほぼ同時期ですが、双方が示し合わせたわけではなく、偶然の一致です。
では各々、どう変わったのかというと、寺西も寺迫も新たな一番は、かつて髙日の祭りに出ていた和庄通4丁目自治会(以下、和庄4丁と表記)の一番の言わば復刻版です。
また、寺迫の新二番も同じく和庄4丁の二番のリメイクです。
和庄4丁は髙日の祭りの源流と言っても過言ではなく、昔の白黒写真に写っている髙日のやぶは全てこの和庄4丁のやぶです。
和庄4丁のやぶ②
昭和32年、もしくは33年撮影
右から順に二番、一番、三番、四番
提供:佐竹美余二氏
中でも一番、二番は、他の旧呉市内では見られない顔立ちで、一目で髙日のやぶと分かります。
ところが、少子高齢化などを背景に和庄4丁は2005年を最後に祭りに出なくなり、以来、当地の祭りは寺西と寺迫のみによって行われています。
いずれも昭和50年代の半ばに自治会の子ども祭りとしてスタートし、和庄4丁に比べるとその歴史は浅いものの、今日まで約40年の歴史を積み重ねてきました。
もちろんやぶに関しても各々その顔となる面がありました。
例えば、寺西であれば、昭和26(1951)年に警固屋地区の方から譲り受けたとされる紺村家の番の2面や、昭和55年から昭和62年にかけて順次製作された永島家の4面。
寺西のやぶ
昭和61(1986)年撮影
左から順に二番(昭和60年製の永島家の面*13)、一番(昭和61年製の永島家の面*14)、三番(紺村家の雄の面)、四番(紺村家の雌の面)
提供:髙日祭礼奉賛会
一方、寺迫であれば、1989年に和庄4丁の後竹登氏が彫ったという西本家の面や、当地区の祭礼保存会の立ち上げにも尽力した石崎家の面です。
寺迫のやぶ
1994年撮影
左が石崎家の面、右が西本家の面
提供:中島大介氏
こうした面を差し置いて、寺西で一番が、寺迫で一番、二番が、かつての和庄4丁の復刻版に改まったのは、それなりの理由や背景があります。
一つは、寺西の祭り、寺迫の祭りではなく、あくまで「髙日の祭り」という意識が関係者の間で芽生えたこと。
もう一つは、和庄4丁の一番、二番こそが、髙日本来の顔と再認識されるようになったことです。
実際、寺西、寺迫の両実行委員長は、「和庄4丁の面は、以前はピンとこなかったが、いざ出なくなると寂しい」(寺西)と言い*15、「昔はかっこ悪いと思っていたが、年を重ねるにしたがって、あれが良いと思うようになった」(寺迫)と振り返っています*16。
各々の地区に伝わる面の系譜を大事にしながらも、地区という枠組みを超えた、言わば神社の顔ともいうべき面を祭りのど真ん中に持ってきた寺西、寺迫の両地区。
新たな髙日の源流が生まれようとしています。
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平原神社
呉のやぶで一番古い面はどれなのか。
あいにく、この素朴で深淵な問いに対する答えを私自身は持ち合わせていません。
もしかすると、それが分かればやぶの起源の謎に迫ることができるかもしれません。
しかし、一番古い面がどれなのかは分からないまでも、外見上、その古さが際立っている面であれば、何枚か頭に浮かびます。
その一つが鹿田迫奉賛会の二番です。
鹿田の二番
積年の傷は見るものを圧倒する風貌を形作り、滲み出る気高さゆえか、どれだけ見続けても見飽きることがありません。
とんでもなく古い面であることは外観から伺えますが、具体的にいつ頃彫られたのか、一体誰が彫ったものなのかについては、面の裏側にも何ら手掛かりがなく、謎のままです。
面の裏
この鹿田の顔ともいうべき二番が、実は昔は、一番だったという事実は意外と知られていません*17。
そもそも現在の一番が祭りに出るようになったのは、昭和30年代から40年代にかけてのことです。
鹿田の祭り関係者同士のちょっとした会話が発端で、誰かが「うち(鹿田)にも口閉じの面がある」と言い、「じゃあ、それを一番で出してみようか」となったとのこと。
これが口開きの面であれば、今も二番が一番のままだったかもしれません。
歴史のちょっとした綾です。
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旧二川町の祭り
恵美須神社
昨年のやぶ展で恵美須神社の古面を展示した際、総代長の宇土原孝志さんから「(展示してあった)三番やぶが五番やぶという表記になっていた」と後で指摘を受けました。
慎重を期して何度も確認していたので誤表記はないはずと思っていましたが、宇土原さんの真意は、当該面は元々は三番だったということ。
その「元々」というのは、今から半世紀以上前のことです。
当時の恵美須神社のやぶは計4匹*18。
現在の二番は当時も二番で、現在の五番は当時は三番だったと言います。
では一番と四番は今どうなっているのかというと、いずれもその行方は分からなくなっているとのこと*19。
現在までのところ、当該2面が写った写真も見つかっておらず、一体、昔の一番、四番がそれぞれどんな面だったのか、宇土原さんのように当時を知る人以外、思い浮かべることさえできません。
なんとも口惜しい限りです。
1枚でも良いのでそれらの写った白黒写真の発見が待ち望まれます。
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旧荘山田村の祭り
鯛乃宮神社
やぶを撮る上で一番重視しているのは背景です。
絵になるかどうかは背景の良し悪しで半分以上決まると言っても過言ではありません。
もちろん「良し悪し」というのは個人的な心象や好みに過ぎませんが、それでも自分なりの基準があります。
それは、その地元らしい風景です。
やぶそのものが究極のローカリズムを体現したような存在なので、その背景についても当地を代表、象徴するような風景の方が、やはり相性が良いのです。
では、鯛乃宮のやぶの場合、それはどこなのでしょうか。
写真を撮り始めて早8年目になりますが、私自身は、それは三条商店街だと思っています。
とりわけ三津田方面を背にした鯛乃宮のやぶはよく映えます。
考えてみると、この場所は鯛乃宮のやぶにとって1丁目1番地のようなものなので、当然と言えば当然ですが、実際にその絵を撮れたのは今年が初めてだったかもしれません。
これまでとの違いは、例年より20分早く、現地入りしたことだけですが、僅か20分とは言え、それだけで撮影地点は案外と変わるものです。
やはり、毎年同じところへ行って同じ絵ばかり撮っていたのでは、中々良い写真は撮れません。
...
出穂金神社
初めてこの写真を見たとき、今との違いに驚きました。
山手の一番やぶ
昭和55(1980)年頃撮影
提供:匿名
やぶというのは、概ね不変性があるというのが、これまでの取材や調査から得られた、私なりの一つの結論です。
不変性というのは、例えば、古くから同じ面が使われているとか、その他の外見的要素も同じであるとか、あるいは祭礼における振る舞い、所作が一定であるとか、要は、今と昔を様々な点で比較したときのその変わらなさを指します。
ところが、山手のやぶに関してはどうもその法則が当てはまりません。
もちろん、100か0かといった極端な話ではないのですが、山手のやぶは他所のそれと比べて不変性の度合いが低いのです。
確かに一番やぶについては、面そのものは変わっていないのですが、(1)衣装の柄、(2)「股立」と呼ばれる袴の裾をたくし上げる履き方、(3)頭に巻いた綿布の色、(4)竹に巻かれたビニールテープ、(5)綱の太さなど、今は全く見られない特徴が写真のやぶには散見されます。
聞くと、2004年頃に現在のスタイルに刷新されたとのこと*20。
まさしく「刷新」という言葉が相応しい変化です。
刷新の背景には、「綺麗な祭り」、「ちゃんとした祭り」、「見てもらえる祭り」への憧れがあったと言います。
昔の様式の是非については、当事者でないと分かり得ませんが、少なくとも祭りのあり方そのものを「変えたい」と思う気持ちが集団単位で生じていたのは事実なのでしょう。
だとすると、外見的特徴の刷新は、過去との連続性を断とうとする意も暗黙裡に込められていたのかもしれません。
ここで行われていることは、伝統を繋ぐというよりも、繋ぐに値する(と考える)伝統を自分たちの代で創るという営みなのかもしれません。
その意味で山手のケースは、呉のやぶの中でも異色の系譜とも言えます。
...
伏原神社
伏原の二番と言えば、大島家の面です。
その大島家を訪ねた昨年の6月、興味深い話を聞きました*21。
あの面を彫ったのは長ノ木の彫り師で、発注したのは、現当主の伯父(大正15年生まれ)だったそうです。
時期は昭和23年頃。
そのとき、叔父と一緒に発注した人が一人いました。
その人物とは、宇土勝俊氏(大正14年生まれ)。
当時、伏原の祭りの頭役の一人でもあった宇土氏は自分自身が被るために面を製作したそうです*22。
しかし、伏原の祭りは昭和30年代以降、子やぶのみの祭りとなり、宇土家の面は歴史の谷間に埋もれていきました。
中にはその存在を知る関係者もいましたが、宇土家を訪ねてもそれらしき面は見当たらず、もはや発見は困難と思われていたとのこと。
そんな中、昨秋、当該面が見つかりました。
故・勝俊氏の兄の家にあったのです。
およそ60年ぶりに伏原の祭りに戻ってきた宇土家の面は、早速、四番やぶとして登場。
二番と四番
2018年撮影
右:二番、左:四番
やはり兄弟は良いものです。
...
龍王神社
龍王神社の祭りは、現在、5自治会1団体が計55匹のやぶを出しています。
また、当該祭り区域には、これら以外にも祭りに出されていない個人所有の面が多く存在しています。
正確な数の把握は困難ですが、少なく見積もっても現在祭りに出されているものと合わせて100枚は下らないと見込まれています。
当地の世帯数は約3,000世帯なので、世帯あたりの面保有数は呉市内で最も高いと推定され、こうした際立った特徴を背景に、面の所有者の名前で個々のやぶを呼ぶという独自の文化が根付いているのかもしれません。
なお、数ある面の中でも、龍王神社の祭りを代表する最も伝統的な面は、澤原家の面です。
龍王神社のやぶ
昭和17年頃撮影
右端と右から3番目の面が澤原家の面
提供:二十歩幸雄氏
言わずと知れた呉の旧家ですが、その足跡や史実について正確かつ具体的に説明できる人は多くはいません。
私もその一人でした。
以下、その概略をご紹介します。
澤原家は、宝歴2(1752)年に初代澤田屋八左衛門巨清(1704−1773)が屋号、澤田屋のもと酒造業を開始したのがその始まりです。
江戸時代後期には4代目八左衛門為清(1799−1867)が庄山田村、和庄村、宮原村、栃原村、呉町などの庄屋や安芸郡浦組割庄屋を務め、天保12(1841)年には藩主から苗字を許され、このときから澤原姓を名乗るようになりました*23。
また、大正6(1917)年に呉秀三によって編纂された下記の史料が示す通り、澤原家には本家筋と分家筋があります*24。
澤原家の歴代当主(江戸期から明治期)
出所:呉秀三編(1917)『呉黄石先生小伝』, pp. 137-139から一部抜粋*25
本家筋の5代目となる澤原為綱(1839−1923)は明治期に安芸郡長、貴族院議員を務め、6代目の澤原俊雄(1865−1942)は明治から大正にかけて貴族院議員、呉市長を歴任しました。
海軍鎮守府の設置に伴い立ち退きを命ぜられた住民の困窮を、海軍省と掛け合い、解決に導いたのが当時安芸郡長だった澤原為綱で、また市制施行以降、海軍と縁の深い市長が続いていた中、初めて地元から市長に選出されたのが澤原俊雄でした*26。
映画「この世界の片隅に」でも描かれた、いわゆる「三ツ蔵」で有名な旧澤原家住宅(長ノ木町)は、この本家筋の方です。
一方、初代澤田屋平次郎(1773−1814)を祖とする分家筋(旧草里町)の7代目、澤原精一(1871−不明)は大正14(1925)年に呉商工会議所の初代会頭に就任。
海軍の拡張に伴い伸長する市勢を背景に、地域経済の振興発展に貢献しました*27。
そんな旧家の歴史に思いを馳せながら、今年もレンズ越しに澤原家の面を追いました。
...
最後に
今秋の祭り紀行を最後まで読んでくださった方は不思議に思われたかもしれません。
一体どうやってこれだけの行程を回りきったのだろうか、と。
とりわけ祭りがいくつも重なる日は分刻みの移動が必要です。
ところが、呉は、中心市街地はともかく、それ以外のほとんどは駐車場も限られています。
そのため、都合よく近くにさっと停めて、パッと撮るというわけにはいきません。
実際、一昨年までは駐車場所の確保に苦労し、そこからの徒歩移動にも少なくない時間を要していました。
それがどういうわけか昨年から家内が運転手役を買って出てくれるようになり、撮影巡りが効率よく行えるようになりました。
お陰で今年も全日程、全行程を家内の運転で移動し、限られた時間の大半を撮影に当てることができました。
それだけではありません。
昨年のやぶ展で展示した資料パネルも全て家内との共作で、自分一人では到底あのような展示物は用意できませんでした。
DM、お礼状の製作も然りです。
凝り性の夫が没頭する趣味を陰で支えてくれている妻には感謝の気持ちしかありません。
本当にありがとう。
【注記】
本稿では、没後50年が経過した人名は歴史上の人物として扱い、敬称は使用していません。
また、平成以降の年代表記は、西暦のみとしています。