はじめに
やぶの取材をしていて一番困るのは、自分が何者かを名乗る時です。
誰かの紹介があれば、特に問題はないのですが、難しいのは一見の取材のとき。
新聞記者や大学の先生であれば、「取材をしたい」と申し入れても怪しまれることはありませんが、私の場合はただのやぶ好き。
「ただのやぶ好きに過ぎないのですが、お話を聞かせてもらえませんか」とか、「昔の写真をお持ちであれば、見せてもらえませんか」と突然言うと、怪しさ満載です。
新聞記者や大学の先生と違って、仕事上の名刺を出しても「やぶの取材」とは全く関連がなく、弁解混じりに「これはあくまで趣味でして…」と言うと、見ず知らずの他人の趣味のためになぜ貴重な時間を割かないといけないのかと思わせてしまいます。
実際そうなので、断られても仕方がないのですが、それでも目的があってアプローチしている以上、なんとかして取材の許しを得たいのが人情。
そこでいろんな小道具を用意し、あの手この手で怪しさの払拭に努めます。
例えば、過去に撮った写真で作ったフォトブックや「昔の祭り」に関する既稿、あるいは最近だと昨年の「呉のやぶ」展(以下、やぶ展と表記)のお礼ハガキなど。
フォトブック
昔の祭り
やぶ展のお礼ハガキ
これらを総動員しながら「決して怪しい人間ではありません」と訴えます。
そんなことを繰り返していると、胡散臭さを拭い去るのに何が一番効果的か、経験上分かってきました。
それは、マスメディアの記事です。
「第三者が書いた活字の記事」は、私が行なっていることに怪しい点はないことをある程度保証してくれる効果があるようで、過去に取材された新聞記事などを見せると、ガードが下がったという一定の手応えを感じます。
そうした中、今年、地元タウン誌「くれえばん」から取材を受け、趣味でやぶの写真を撮ったり、昔の写真を集めたりするようになったきっかけや、それらを通じて気づいたことや発見したこと、今考えていることなどが、見開き2ページの記事になりました。
くれえばんの記事
出所:くれえばん2019年10月号, pp. 42-43(許可を得て転載)
既に今年の祭りでも「くれえばん、見たよ」とか、「貴方がくれえばんに載っていた人ね」などと多くの方から声をかけられました。
今後の取材時の必携品の一つになりそうです。
さて、前置きが長くなりましたが、本題の今年の祭り。
今秋は、かれこれ25箇所の祭りを巡りました。
このうち、1箇所は呉ではなく、広島市安芸区阿戸町の亀山八幡神社の祭りです。
阿戸の祭りに出るのは「やぶ」ではなく「鬼」ですが、旧養隈郷に隣接する地域とあって、以前から関心があり、今年、初めて訪ねてみました。
また、呉市内の祭り24箇所についても、全てが「やぶ」ではなく、「鬼」の地区も3箇所ほど含まれています。
具体的には、阿賀(神田神社)、落走(城神社)、苗代(多賀雄神社)です。
以上を簡単にまとめたのが下記の表1。
表12019年に訪ねた祭りの内訳
今回は、昨年以降の取材で分かったことも一部織り交ぜながら、2019年シーズンの祭りを写真とともに振り返ります。
但し、いかんせん25箇所と数が多いので、便宜上、今秋の祭りを、前期、中期、後期の3期に分けました。
前期は、9月23日(秋分の日)から10月第2日日曜日までで、計9箇所。
中期は、10月14日(体育の日)から10月第4日日曜日までで、計6箇所。
後期は、11月3日(文化の日)で、計10箇所。
以上を日別にそれぞれ、よごろも含めてどう回ったのか、具体的な行程なども交えながら、今秋の振り返りとしてご紹介します。
なお、写真の多寡は、訪問地での滞在時間に依るところが大なので、「うちのやぶ(または鬼)が少ない」と思われる方は何卒ご容赦ください。
9月23日
この日の撮影地は、阿賀の神田神社と、鍋の宇佐神社の祭り。
まずは13時頃に阿賀入りし、その後、13時半過ぎに鍋に移動しました。
阿賀の祭り
神田神社
阿賀の祭りを訪ねるのは4年ぶり。
今回はあれこれ欲張らずに撮影の対象を東延崎の古面一本に絞りました。
阿賀の鬼面の中でも最も古い部類の一つと見込んでおり、以前から注目していた面です。
事前の取材で、既に神田神社での神幸祭を終えて、延崎住吉神社に向かって神輿行列が出発していることが分かっていたので、想定されるルートを目指すと、運よく祭礼一行に遭遇。
お目当の鬼を撮ることができました。
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鍋の祭り
宇佐神社
鍋の祭りで唯一、俵もみを行っている北区。
かつては、俵みこしでなく、樽みこしで行われていた時期もあります。
樽みこしが初めて使われたのは昭和39(1964)年です。
ご当地の蔵元、水野商店の千恵盛の酒樽でした。
北区の集合写真
昭和39(1964)年撮影
提供:盛川一雄氏
これを子どもが担いで道中や鳥居前の階段で揉んでいたのです。
平成以降は、大人も樽みこしを担いで本格的な俵もみを行うようになり、これが2000年代半ば頃まで続きました*1。
樽みこしによる俵もみ
2000年代前半から半ばにかけて撮影
提供:松井裕司氏
しかし、酒樽は米俵に比べて壊れやすく、またこの当時、やぶも担ぎ手も以前に比べて増えていたため、俵みこしで揉む現在のスタイルに改まったと言います*2。
今年は、担ぎ手に中央区、西区も加わり、これまでにない俵もみが行われていました。
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10月6日
この日の訪問地は、天応の田中八幡神社、落走の城神社、仁方の八岩華神社の3箇所です。
大まかには、朝10時過ぎに天応へ行き、11時半頃に落走へ移動。
正午前に再び天応に戻り、その後、14時前に仁方入りしました。
天応の祭り
田中八幡神社
天応は、昨夏の西日本豪雨災害で甚大な被害を受け、昨年は復興祈願祭の名目で神事のみが執り行われました。
そのため、例大祭は2年ぶり。
今年は7地区が奉納を行いました。
はじめに伝十原、続いて大浜、三葉、本町。
ここまで見届けてから、一旦、落走へ移動し、再度戻ってきたときには大西が奉納を行うところでした。
大西のやぶは、3年前に見たときと異なり、面も衣装も襷も一新されていました。
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落走の祭り
城神社
城神社を訪ねたのは、3年ぶり。
今回のお目当は、下記の写真に写った鬼(左端)です。
落走の鬼
昭和38(1963)年頃撮影
提供:森本茂氏
落走の祭りは、かつては海側と山側の2地区がそれぞれ奉納を行っていたと言います*3。
上記の集合写真は、海側の地区。
その後、当地区が祭りに出なくなり、現在は落走郷土芸能愛好会がこれら鬼面の管理を行っているそうです。
あいにく当該鬼面*4は痛みが激しかったことから、上塗り補修されたとのこと。
そのため、年月の経過が醸し出す古面特有の雰囲気を感じ取ることは難しくなっていましたが、現地では一目でそれが当該面であると分かりました。
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仁方の祭り
八岩華神社
4年ぶりに訪ねた仁方の祭り。
今回の主目的は、各地区から出されている自治会のやぶではなく、お宮のやぶの撮影です。
このブログでも繰り返し述べてきたように、戦前からやぶ文化が根付いていたのは、旧呉市内、警固屋地区、昭和地区に限られます。
一方、現在では、これら3地区以外からもやぶが出ています。
具体的には、仁方、横路、音戸です。
これらの地区でやぶが出るようになったのは、全て平成以降ですが、一つだけ例外があります。
それは仁方の西町です。
当地区では昭和52(1977)年からやぶを2匹出すようになり、それが仁方のやぶの始まりでした*5。
但し、それは「自治会のやぶ」の話であって、正確には昭和46年に「お宮のやぶ」が祭りに出ています*6。
これこそが仁方における1匹目のやぶです。
仁方のやぶ
昭和50年代撮影
右端がお宮のやぶ、左端と中央が西町のやぶ
提供:西町自治会
当該面は、西町の高間家の面で、呉出身力士として名高い貴羽山(本名、高間義之)のお父様が、当時、髙日神社の祭り関係者でもあった和庄の染物屋さんを通じて製作してもらったものです。
以来2年おきに「お宮のやぶ」として祭りに出され*7、八岩華神社の祭り地区全域*8を神輿に付いて歩くのがこの40年余りの習わしになっています。
また、衣装については、面の製作を手配してくれた染物屋さんに作ってもらい、旧呉市内のやぶのしきたりなどについてもその方に教わったそうです。
そのせいか、当該面はかつて和庄4丁から祭りに出されていた一番やぶに酷似しており、また頭に巻く綿布の巻き方もかつての和庄スタイルが今なお息づいています。
和庄4丁の一番やぶとの比較
左が和庄4丁の一番、右が仁方のお宮のやぶ
ちなみに昭和52(1977)年から祭りに出るようになった西町の2匹のやぶも、お宮のやぶと同様、和庄の染物屋さんを頼って、面、衣装とも作られたそうです。
そうした経緯を知り、また奇しくも今年は、高間家の面が出される年ということもあり、久々に仁方の祭りを訪ねてみました。
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10月13日
この日は、旧呉市の総氏神である亀山神社、神山の神山神社、見晴の若宮・地・竃神社、苗代の多賀雄神社の祭りが行われた日です。
前日の宵宮祭では、夕刻に亀山神社を、20時過ぎに神山神社を訪ねました*9。
例大祭当日は、早朝8時に亀山神社を再訪。
その後、10時頃に見晴に行き、12時半過ぎに四ツ道路界隈で再び亀山神社祭礼氏子奉賛会と合流。
宮入後は一行と別れ、14時過ぎに苗代に到着。
約1時間半、滞在した後、16時過ぎに神山へ移動しました。
亀山の祭り
亀山神社
呉の祭りで時々耳にする「はまんど」という言葉。
文字で目にするときは、平仮名で書かれていることもあれば、カタカナ表記のときもあります。
言葉の使い方としては、「はまんどが行われる」といった用法が多く、その場合の「はまんど」は、文脈上、「浜の宮で行われる奉納行事や奉納神事」を意味しているように受け取れます。
なお、「浜の宮」とは、いわゆる御旅所のことで、渡御に際して神様を仮に奉安する場所のことを指し、また「渡御」とは、普段は神社の本殿に鎮座している神様に御神輿に乗っていただき、民衆の生活の場にお出ましいただくことを意味します。
亀山神社の祭りでは、元・銀座デパート前が浜の宮になっており、そこでやぶ踊りや、稚児と獅子の舞いなどが行われています。
もちろん、「浜の宮で行われる奉納行事や奉納儀式」は神社によって様々なので、「やぶ踊り」や「稚児と獅子の舞い」だけが、呉の祭りにおいて見られる「はまんど」というわけではありません。
但し、その中身が何であれ、「はまんど」とは浜の宮で行われる奉納にまつわる「行為」を表している点では共通しています。
ところが、こうした理解を根本から覆す資料が亀山神社にありました。
第31代宮司を務めた故・太刀掛親白氏が、郷土史研究家の久保田利數氏の助言・監修のもと、大正、昭和と二度の「懸社昇格」の願いの書類に添付された 「由来伝」、「縁起」の写しなどをもとに著したものです
御旅所と濱ん殿(1)
右:表紙 左:p. 115
提供:亀山神社
御旅所と濱ん殿(2)
右:p. 121 左:p. 122
提供:亀山神社
まず上記の赤線を引いた箇所から次の三点が分かります。
第一に、「はまんど」の漢字は、「濱ん殿」であること。
第二に、「濱ん殿」とは、御旅所に向かう途中で神様が休憩される「場所」のこと。
第三に、「濱ん殿」と「浜の宮」は同義であること。
但し、二点目のポイントについては、亀山神社が現在の入船山記念館の場所に鎮座していた頃の話です。
御旅所と濱ん殿(3)
右:p. 118 左:p. 112
提供:亀山神社
明治22(1889)年の呉鎮守府開庁に伴って、現在地へ遷座されて以降は、御旅所と濱ん殿は同じ意味を指す言葉になったことが、上記の傍線部に書かれています。
実際、亀山神社氏子祭礼保存会では、「はまんど」という言葉は、浜の宮(御旅所)で行われる奉納にまつわる「行為」としてだけなく、浜の宮という「場所」そのものの意味でも使われています。
しかし、元々、「場所」を表す言葉でしかなかった濱ん殿が、一体いつ頃からそこで行われる「行為」までをも表す言葉に拡張したのかは不明です。
その経緯が解明されれば、現在、各所で行われている「はまんど」の理解がより深まるかもしれません。
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神山の祭り
神山神社
神山の祭りについては、現在、南ハイツ、神山、三ツ石の3地区合同で奉納が行われています。
但し、今日に至る歴史に関しては、これまで昔の白黒写真が1枚も見つかっていないということもあって、長らく不明でした。
それが判明したのが、今年の祭りの約1週間前。
簡潔に述べると、元々、神山神社の祭りを行っていたのは神山地区だけでした*10。
それもそのはず、三ツ石は昭和50年代に、南ハイツは昭和60年代に造成されてできた新興団地だったからです。
当地に神山しか集落がなかった時代は、やぶは計3匹で、いずれも始まりは戦後間もない頃だったそうです。
そのうちの1枚は、神山の青山家に飾られていた面で、それを祭りに出して使い始めたのが発端でした。
隣接する苗代の鬼と顔立ちが似ているのも偶然ではないのかもしれません。
苗代の鬼面との比較
左が神山のやぶ、右が苗代の鬼
他の2面についても、同じく他家所蔵の面で、やぶを出すために新作したものではないとのこと。
また、現在3地区合同で行われている俵もみについては、神山からやぶを出すようになった昭和20年代初頭に辰川の祭りを参考に始めたと言います*11。
衣装の柄も現在のそれと同種の和柄で、当時と変わったのは、大きくは次の3点です。
第一に、かつては剥き出しの青竹を持っていたのが、警察の指導で昭和40年代半ばから布を巻くようになったこと。
第二に、襷に関しては、昔は他の昭和地区のやぶと同様、綿の詰まった布製だったのが、南ハイツと合同で行うようになってから、現在の綱に改めたこと。
第三に、かつては草履を履いていたのが、その後、地下足袋になったこと。
三ツ石、南ハイツの両地区については、団地が造成され、当地の自治会が発足してから、順次、神山地区と合同という形で神山神社の祭りに参加するようになったそうです*12。
歴史のあらましが分かった今、これまでにも増して昔の写真の発見が待ち望まれます。
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見晴の祭り
若宮・地・竃神社
見晴の祭りについては、ここでは若宮・地・竃神社と表記していますが、正しくは、若宮神社(見晴1丁目/旧林山)、地神社(見晴2丁目/旧鳥ヶ平)、竃神社(見晴3丁目/旧長迫)の3神社の祭りを指します。
古くから同じ日に祭りを行っており、また、例えば、竃神社で保管しているやぶの面を若宮神社や地神社の祭りに出すなど*13、やぶに関してはその境界が曖昧ということもあって、上記のように簡略化した表記を行いました*14。
境界が曖昧な一要因としては、かつては見晴1丁目、2丁目、3丁目が「第5分団」という形で、警固屋地区の総氏神である宇佐神社の祭りにおいて合同で奉納を行っていたという事実があります。
そのため、やぶの面についても、どこの神社で保管されていようと、あくまで「第5分団の面である」という認識が当時は一般的でした*15。
実際、今年の祭りもやぶそのものは、見晴2丁目から2匹ほど出て、それが竃神社、地神社、若宮神社の順に神事に参列して回るという形式が取られていました。
そんな見晴の祭りも、近年は少子高齢化の傾向が著しく、実はここ数年、やぶは1匹も出ていませんでした。
そうした中、昨年、見晴2丁目に住む高校生が、当地の面を被って久々に祭りに出たという経緯があり、また幸いにも今年も出るという情報を得たため、撮影に出かけました。
面そのものは、新しいもののように見えましたが、地元の人の話では、「本当は100年以上前の面で、残念なことに色が塗り替えられてしまった」とのこと。
塗り替え前の面
撮影時期不明
提供:地元関係者
前記の落走の鬼面と同様、長い年月の積み重ねがもたらす古面独特の風合いが霧消してしまったのは「悲劇」としか言いようがありませんが、それを嘆くよりも、見晴においてやぶが復活したという事実を今は喜ぶべきなのかもしれません。
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苗代の祭り
多賀雄神社
苗代の祭りが呉の祭りの中でも一際ユニークなのは、「住民全員が祭り関係者」という点です。
詳細は、昨年のブログ記事で紹介しましたが、苗代では、上条、岡条、原条、下条、西条の5地区が毎年順番に祭りの準備を担当し、担当地区から選出される「頭家総代」のもと、当該地区の住民総出で連日連夜、準備に勤しみます。
その様は、呉の貴重かつ奇跡的な無形文化遺産と言っても過言ではなく、これだけ壮大な仕組みを今なお回し続けている地域は、呉ではおそらく苗代以外にはないでしょう。
そのせいか、苗代の祭りには、郷愁を誘う空気が満ちているように感じられ、深緑の豊かさとも相まって、ここを訪ねるといつも癒されます。
...
中編へ続く