前編からの続き
10月14日
この日は、栃原の祭りの日。
呉の祭りシーズンにおいて、例大祭が行われるのが1神社のみというのは、この日を含めて2日しかなく、腰を据えて撮影できるという点で貴重な日です。
今年も昨年と同様、13時頃に栃原の自治会館を訪ね、そこから祭礼一行に付いて歩き、14時頃に宮入。
その後、浜の宮で神幸祭が始まるまでの間、じっくりと撮影を続けました。
栃原の祭り
竹内神社
栃原の祭りと言えば、やはり何といっても地上高さ20mにも及ぶ巨大な絵幟*1が見どころの一つです。
栃原の絵幟
2016年撮影
また単に壮観なだけでなく、さすが「幟祭り」の異名を取るだけあって、その歴史も古く、江戸末期や明治初期の幟も現存しています。
江戸末期や明治期の幟
右の幟に描かれている蔓延元(1860)年は、桜田門外の変があった年。
一方、左の幟に書かれた明治10(1877)年は、西南戦争があった年です。
まさに幕末維新の始まりと終わりを象徴するような年代で、そんな動乱の時代にあってもこの栃原の地では、今と変わりなく東谷と西谷の絵幟がはためいていたと想像すると、民衆のたくましさのようなものを感じます。
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10月20日
この日、足を運んだのは、警固屋の貴船神社、焼山の高尾神社、押込の向日原神社、そして阿戸の亀山八幡神社の祭りの計4箇所。
このうち、高尾神社については、前日のよごろの日も13時半頃から丸々5時間、撮影を行いました。
例大祭当日は、朝11時頃に警固屋入りし、午前中の町回りの様子を撮影。
その後、13時半過ぎに阿戸へ到着し、約1時間滞在した後、15時頃には押込へ移動。
最後に16時前に焼山へ戻るという、移動距離という点では今秋最も長い一日になりました。
警固屋の祭り
貴船神社
警固屋地区というのは、大まかには北区、中央区、西区、警固屋、見晴に分けられます。
このうち、警固屋のやぶと言えば、エンマ、ダンゴ、ニグロ。
これら伝統的な三種のやぶがいつから祭りに出るようになったのかは不明ですが、今年、エンマの写った白黒写真が1枚見つかりました。
エンマ
昭和37(1962)年撮影
提供:松井裕司氏
抱かれているのは、この写真の提供者でもある生後7か月の松井さんご本人。
これによって、少なくとも昭和37(1962)年の時点ではエンマが存在していたことが分かりました。
なお、昭和25(1950)年と昭和26(1951)年の写真にも現在のエンマとよく似たやぶが写っていますが、以前、当地の祭り関係者に鑑定を依頼した際、いずれの面も現在のものではないとのことでした*2。
そのため、当時、それらをエンマと呼んでいたかどうかは定かではありません。
また、ダンゴとニグロについては、その起源を伺い知る手がかりが全くなく、依然として謎のままです。
引き続き、写真の発掘が待たれます。
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焼山の祭り
高尾神社
午前中で学校が終わると恐る恐る下校。
午後はやぶを見つけては口汚く大声でからかい、全力で逃げる。
ときには追いつかれ、先の割れた竹や綿の詰まった重い紐でしばかれることもしばしば。
一年で一番楽しかった子ども時代の思い出です。
ところがそんな焼山の風物詩も時代の推移とともに、逃げない子どもや追いかけもしないやぶが増え、焼山らしさが失われつつありました。
往時を知る昭和の焼山人としては、寂しい限りですが、そんな中、変化の兆しが見られ始めたのが数年前。
少しずつではありますが、やぶをからかい、逃げる子どもの姿が戻り始めたのです。
もちろん、時節柄、昭和のやぶのような振る舞いはもうできませんが、それでも逃げる子どもと追いかけるやぶというのは「焼山の原風景」でもあり、その回復傾向を喜んでいました。
そこへさらに確かな手応えを感じたのが今年の秋。
単に追いかけ、逃げるという視覚で感じる原風景の回復に留まらず、子どもたちの「悲鳴」までもが戻ってきたのです。
とりわけ、16時以降は圧巻でした。
あの時間帯のやぶはまさに技能賞、敢闘賞もの。
「怖いけど面白い」ではなく、「怖いから面白い」という焼山のよごろの楽しみ方が、令和の子どもたちにも受け継がれることを願っています。
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押込の祭り
向日原神社
押込のやぶと言えば、アカ、シャク、ガッソー。
ところが、年配の方に聞くと「ガッソーなんて聞いたことない。あれはクロじゃ」と口を揃えて言います*3。
確かに数年前に現役の祭り関係者の方に取材を行った際は、紛れもなく「ガッソー」と呼んでいただけに、どうして世代間で呼称が違っているのか、いつ頃、変わってしまったのか、不思議でなりません。
ともあれ、本ブログでは、古きを尊び、今後は呼び名をクロで統一します。
さて、そのクロ。
お話を伺った70代のお三方によると、クロは被ると頬が痛く、煙草臭く、酒臭い、と。
臭いのは、アカやシャクと違って口閉じの面で、臭気が逃げないからだそうです。
ところが、昔は痛かろうが臭かろうが、クロが被り手の中で一番人気。
「断トツでかっこいい」と言います。
そのため、当時はよごろの前夜に青年会館*4で就寝していたそうですが、その際、クロを自分が被りたいがために、面を抱いて寝ていたとのこと。
ところが、朝、起きてみると、他の面にすり替えられていたということもしばしば。
まさにクロの争奪戦だったようです。
下記の写真は、祭りの前の「虫干し」を写した貴重な一枚。
虫干し
昭和37(1962)年撮影
左:アカ 中央:クロ 右:シャク
提供:梶山哲彦氏
真ん中にクロが置かれているのもあながち偶然ではないのかもしれません。
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阿戸の祭り
亀山八幡神社
阿戸とはかつての熊野跡村。
旧養隈郷に隣接する鬼文化の地です。
養隅というのは、平安期の和名類聚抄に記された郷名で、安芸国安芸郡十一郷の一つとされています。
読み方は「やくま」ではなく、「やの」。
現在の焼山、苗代、栃原、押込、天応、坂町、矢野、熊野町のあたりであったと言われています。
旧養隈郷のやぶや鬼は互いに類似点が多く、既稿「養隈の祭り」では、「養隈の祭り文化圏」といった枠組みのもと試論的考察を行いました。
その旧養隈郷と現在の熊野町を境に接しているのが阿戸というわけです。
阿戸には、上庭、中庭、下庭と呼ばれる3つの地区があり、各地区から鬼が2匹ずつ出ます。
地区ごとに違った風貌の鬼が出る点や、襷をし、竹を持つといった様式面でも、旧養隈郷のやぶや鬼と似通っており、今後、その歴史や起源が分かれば、面白い発見に繋がるかもしれません。
少なくとも、昨年塗り替えられたという中庭の従前の古面の写真を見る限り、呉のやぶにも勝るとも劣らない古い歴史が伺え、調査のしがいがありそうです。
塗り替え前の中庭地区の鬼面
2004年撮影
提供:眞藤誠氏
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10月27日
この日も10月14日と同じく、祭りが行われるのは、森土恵神社の1社のみ。
そのため、余裕を持って撮影に臨むことができる数少ない日の一つです。
今年も13時頃に舞々尻川の河口付近から上流の山側方面に向かって坂道を登っていくと、すぐに祭礼一行に追いつくことができました。
そこから神社まで付いて歩き、奉納が終わる15時過ぎまで撮影を続けました。
舞々尻の祭り
森土恵神社
宇佐神社の祭りで西区から出されているニグロは、森土恵神社の祭りにも出ています。
ニグロ
撮影時期不明
提供:下中家
そのニグロの本面を彫ったのは、明治43(1910)年生まれの北島覚氏。
旧後側(現北区)の大工職人でした。
これまでの取材で、その製作年は昭和27(1952)年から昭和29(1954)年の間であると推定されています。
北島氏が彫った面は、ニグロの本面2面以外にも現存します。
その一つが下記の面。
北島氏作の面
これは、同氏が三女に嫁入り道具の一つとして持たせた飾り面です*5。
実はこれとほぼ同種同型の白木の面もあります。
北島氏作の白木面*6
こちらは、弟子に贈ったもので、現在は別の所有者の手に渡っています。
息女によると、「父は(自分が彫った面の)塗りはいつも廿日市の方に頼んでいた」とのこと*7。
弟子には敢えての白木面だったのかもしれません。
北島氏作の面は、他にも複数その所在が明らかになっており、どのようなプロセスを経て、あの「ニグロ」が創られるに至ったのか、現在、調査を行なっています。
大工として身を立てる前は、神社仏閣などの建築彫刻を手がける、堂宮彫刻師になるのが夢だったという北島氏。
満たされなかった思いの一部を埋め合わせようと、やぶの面を彫り続けていたのかもしれませんが、遺したものはあまりにも大きく、没後約30年が経った今もその名は語り継がれています。
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後編に続く