呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

昔の祭り(八咫烏神社編):エピローグ

昭和34年の祭りを最後に忽然と姿を消した、八咫烏の旧一番と旧二番*1

「彼ら」は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

現在、坪之内青年団で団長を務める大林鉄兵さんは、小学生の頃から昔の写真を見て育ち、いつ見つかるとも分からないこれら両面を仲間の黒田哲仙さんや古参の青年団メンバーとともにずっと探し続けてきたそうです。

なにしろ約60年もの間、行方知れず。

唯一の手がかりは、いずれも竹中家の面であったという言い伝えのみです。

しかし、宮原に竹中姓は多く、一体どこの竹中家だったのか、今や知る人もいないため、勘だけを頼りに訪ねて回ったとのこと。

その甲斐もなく、面はついぞ見つからず、「おそらくもう出てこないだろう」と半ば諦めていた中、奇跡のような出来事が起こりました。

その舞台となったのが、今秋、筆者が行った「呉のやぶ」展*2

やぶの今や昔を伝える写真展の初日、一人の男性が訪ねて来ました。

名前は岩井鉄也さん(仮名)。

岩井さん曰く、「うちにも古い面がある。持ってくるから見てもらえないか」と。

「呉のやぶ」展では、写真のほかにも、古くから祭りを賑わした古面15枚の展示も行っていました。

それを見た岩井さんが、ギャラリー内で筆者に声をかけてきたのです。

詳細は不明でしたが、とにもかくにもその日の夕方、その面を拝見させていただく約束をし、一旦、会場を後にしました。

その数時間後、再度、岩井さんとお会いし、問題の面を見せてもらったものの、筆者自身は、「古い面である」という以上の感想を抱くことができず、ひとまず写真だけ撮らせてもらい、「何か分かれば、後日、連絡します」とだけ伝え、その日は別れました。

帰宅後、特に深い考えもなく、撮った写真を坪之内青年団の大林さんに送信。

八咫烏神社に限らず、旧呉市や警固屋地区のやぶ全般に詳しい大林さんと黒田さんには、昔の写真などが手に入る都度、鑑定を依頼することが多く、この度もそんなつもりで送ったに過ぎませんでした。

その一分後です。

大林さんの驚愕ぶりが伝わってくるような返信があったのは。

大林さんによると、岩井さんがお持ちの面は、「八咫烏の消えた旧二番に酷似している」と言うのです。

そこで、その真偽を確かめるべく、改めて岩井さんと面談し、大林さんと黒田さんに実物を見てもらいました*3

その結果、まさにこれが探し続けていた一枚であることが判明したのです。決め手は、旧二番が写った昔の写真との比較で両者が一致したこと。

 

比較検証(1)

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さらに決定的だったのは、面の裏に「竹中」と彫られていたことでした。

大林さんたちにとっては、長年、白黒写真の中でしか目にしたことのなかった旧二番との、突然、降って湧いたような「対面」です。

奇跡としか言いようがありません。

そして、もう一つ思いがけない発見がありました。

その面の裏に、「竹中」に加えて、「大坂西川作」とも彫られていたのです。

 

旧二番面の裏

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実はこの「大坂西川作」。

これは、平原神社の鹿田迫奉賛会の古面の一枚である三番面にも、そう刻印されているのです。

 

鹿田迫奉賛会の三番

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鹿田迫奉賛会の三番面の裏

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提供:鹿田迫奉賛会

 

つまり、八咫烏の旧二番と鹿田の三番は、彫った人が同じ「兄弟面」であることが分かったのです。

想像するに、おそらく大坂出身の西川さんという方が彫られたのでしょう。

面の実物を手に取って見ることができたからこそ、明らかになった事実です。

さて、旧二番との驚きの対面を果たした後は、なぜこれが岩井さんの手元にあったのかという疑問と向き合うこととなりました。

その答えは意外と単純で、岩井さんは今春、天応にある「悠」という屋号の古美術商からこの面を購入したと言うのです。

「今春」というと、ごく最近の話です。

では、一体いつ誰が古美術「悠」に持ち込んだのでしょうか。

岩井さんの協力を得て、その「悠」を経営する森本茂さんにお会いしてみました*4

森本さんのお話では、旧二番の面が持ち込まれたのは、今春とのこと。

正確に言うと、持ち込まれたのは全部で二枚。

内、一枚が旧二番だったというわけです。

そして、持ち込まれたその日に、以前からやぶの古面を欲していたという岩井さんともう一人の別の男性に連絡したところ、すぐにお二人が来られ、その場で双方、一枚ずつ買われていったそうです。

一方、森本さんのところに当該面二枚を持ち込まれた方というのは、女性であった、と。

幸いにもその女性に付き添って来られた男性の連絡先が分かると聞き、事前に先方の了解を得て、電話をかけてみたところ*5、以下のような事実が判明しました。

まず、その男性は女性が住む町の自治会長さんでした。

そして何よりも驚きだったのは、その女性は竹中家の方であったこと。

転居を繰り返し、また約60年の歳月の間、世代も変わる中で、この面が元々、どこでどう使われていたのかが全く分からなくなっていたそうです。

一時は正月に亀山神社へ持って行って、お焚き上げをしてもらうことも考えたそうですが、自治会長さんからの助言もあり、古美術商に持ち込むことに決めた、と。

面はおそらく亡くなられたご主人の祖父の代に作られたものであるとのお話しでした*6

ちなみに、ご主人の父親は明治末期の生まれとのことなので、祖父となると明治の中頃以前の生まれであると推察されます。

その祖父が「大坂出身の西川さん」に依頼して彫ってもらったわけです。

ここで注目したいのは、大阪ではなく大坂である点です。

大坂が大阪という表記に正式に改まったのは、大阪府が設置された明治元年で、以降は混用されながら、明治10年代に「大阪」が一般的になったと言われています*7

このことから、一つの可能性として、明治10年代以前に大坂で生まれた西川さんが、明治中期以前に呉で生まれた竹中さんに依頼されて、明治末期以降に製作したのではないかということが考えられます。

そして鹿田の三番も同時代に作られたというわけです。

今から100年以上前のことです。

話を「今」に戻します。

古美術「悠」に面二枚を持ち込んだのが竹中家の方で、内、一枚が旧二番だったとなると、もう一枚の面は、旧一番であった可能性が俄然、高くなります。

そこで、再度、「悠」の森本さんを頼り、もう一枚の面の購入者である、川渕義雄さん(仮名)とお会いすることになりました*8

結論から言うと、予想通り、それは旧一番でした。

但し、川渕さんは購入後、面を自ら上塗りしていたため、旧二番と違って、昔のままの状態というわけではありませんでした。

とは言うものの、目や歯には一切、手が加えられておらず、長年の年月が醸し出す風合いは、当該箇所には残っています。

 

比較検証(2)

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なお、面の裏には旧二番と同様、「竹中」と彫られていましたが、「大坂西川作」の文字は見当たりませんでした。

 

旧一番面の裏

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確かに旧一番と旧二番では、顔立ちがかなり異なっており、製作者が違っていたとしても不思議ではありません。

ともあれ、約60年もの間、行方の分からなかった旧一番と旧二番が、この日、坪内の人たちのもとに「ひょっこり帰って」きました。

もっとも、対面を果たしたのは、彼らだけではありません。

現在の一番は、昭和34年までは三番でした。

この三者が「再会」したのも実に約60年ぶりです。

 

昭和34年当時の一番、二番、三番*9

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不思議なことはさらに続きます。

その翌日、ギャラリーにまた一人の男性が訪ねて来ました。

写真展に展示してあった昭和20年代の白黒写真に伯父と兄が写っているというのです。

また、その男性ご自身も昭和16年生まれで、「昔の八咫烏の一番と二番、あれは本当にかっこよかった」としみじみ語るのです。

そこで、前日に撮った両面揃いの写真を見てもらったところ、「おっ、これこれ」とまるで昨年の祭りでも見ていたかのような軽い口ぶりで、懐かしんでいました。

実は今の坪内に当時の一番、二番を鮮明に記憶している人はもういないと言われており、そうした中、期せずして現れた生き証人でした。

あたかも一番、二番が招き寄せたかのように。

まさしく面に意志があるとしか思えません。

およそ60年もの間、息を潜めていた両面が、亀山神社でお焚き上げされる危険を察したのか、古美術「悠」の森本さんを介して、岩井さん、川渕さんという新たな所有者に身を移し、さらに岩井さんにギャラリーへと足を運ばせることで、八咫烏神社の祭りに帰還する。

そんな壮大な計画だったのかもしれません。

幸い、新たに面を保有することとなった岩井さんも川渕さんも一連の事情を知って、秋祭りの間、これらの面を坪之内青年団に貸し出すことを快諾してくださっています。

また、元々の所有者であった竹中家の方も面の里帰りを喜ばれています。

一番、二番の目論見の実現は、もう目の前まで来ています。

それが叶えば、坪内の人たちにとっても、「呉のやぶ」史においても特別な一日になることでしょう。

今を生きる多くの人も、また白黒写真に写る今は亡きかつての祭り人も天上から、固唾を呑んでそのときを見守っています。

さあ、出番はもうすぐです。

*1:本稿は既稿「昔の祭り(八咫烏神社編)」(2016年6月26日初版発行)に「エピローグ」として加筆したものです。

*2:2018年8月29日から同年10月8日まで街かど市民ギャラリー90にて開催。

*3:2018年9月1日、取材。

*4:2018年9月8日、取材。

*5:2018年9月10日、取材。

*6:亡くなった主人も、その父親も祭りへの関心が薄く、逆に祖父は祭り好きであったと聞かされていたため。

*7:下記を参考に記述。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000039969

*8:2018年10月3日、取材。

*9:中央が旧一番、左が旧二番、右が旧三番(現在の一番)。