はじめに
かつて、音戸、倉橋から呉海軍工廠へ通う人たちの乗降で賑わった警固屋の鍋桟橋。
今はもう当時の桟橋係留チェーンと岸壁の石垣が記念の石碑の傍らに残るだけですが、昭和の初期には島嶼部から毎朝、1,700人余りの通勤者がこの場所で降船するなど、まさに交通の要地となっていました。
その様子たるや「人祭り」と呼ばれる亀山神社の祭りさながらの人波であったといいます*1。
鍋桟橋跡
桟橋名の由来にもなった「鍋」というのは、このあたりの昔の地名で、今でも鍋峠や鍋山団地というバス停があるように、地元の人たちの日常に溶け込んでいます*2。
そのせいか、当地に鎮座する宇佐神社の祭りは、決して「警固屋の祭り」と呼ばれることはなく、「鍋の祭り」として親しまれています*3。
さて、この「鍋の祭り」。
現在は、北区、中央区、西区の3地区が囃子を出しています。
面白いのは、各々の地区で独自の歴史が紡がれている点で、これらが相互に絡み合っているのが、「鍋の祭り」史です。
本稿では、その「鍋の祭り」史において一大事といっても過言ではない、歴史に埋もれた70年前の「大事件」を明らかにし、鍋のやぶのルーツに迫ります。
また、以降の歴史も追跡し、「昔の祭り」と「今の祭り」がどう連なっているのかについても確認します。
明治期から戦前の祭り
言うまでもなく、「昔の祭り」を記録化する上で欠かせないのは、往時を知る証言者です。
とりわけ、戦前から戦後すぐの時代を青年の目で見ていた昭和一桁世代の証言は貴重です。
その一人が、昭和5年2月生まれの北区の長老、山崎一十さん*4。
今回の主題、70年前の出来事については、その山崎さんの証言が全容を知る足がかりとなりました。
ただ、その話に入る前に、現在87歳の山崎さんは、明治期から鍋の祭りに深く関わっていた父親の話も正確に記憶していることから、まずはこの時代の「伝聞の歴史」から紹介します。
山崎さんの実父、仁太郎さんが生まれたのは、明治15年。
町村制の施行によって警固屋村が誕生したのが明治22年なので、その7年も前のことです。
警固屋村は、明治39年に警固屋町となり、昭和3年には呉市に編入され、現在、行政が定める「警固屋地区」*5の元となった地域ですが、その中身は実に多様です。
具体的には、後側、前側、舞々尻、警固屋、林山、鳥ヶ平、長迫の7地区から成り、このうち、後側と前側を合わせた地区がいわゆる「鍋」と呼ばれている地域で*6、林山、鳥ヶ平、長迫は現在の見晴地区に当たります。
また、鍋の祭りは、現在、北区、中央区、西区の3地区が主体となって行われていますが、それぞれ後側、前側、舞々尻がその原型となっています。
仁太郎さんの時代も今と同様、後側、前側、舞々尻の青年が祭りの担い手になっていたのですが、そこに至るまでの間、村を二分するような出来事がありました。
仁太郎さんによると、鍋の祭りは、元々は後側に住む人たちによって始められたとのこと。
もちろん、それを裏付ける史料はなく、またどのくらい遡って「元々」なのかも分かりませんが、少なくとも明治15年生まれの仁太郎さんはそう聞かされて育ったそうです。
ところが、その後、周辺地区の人たちも後側の人たちに混じって祭りに出るようになり、次第にその人数も増えたことから、後側、前側、舞々尻の3地区に分かれて、各々が囃子を出すことになりました。
ここで生じた大問題が、どの地区が神輿付き*7の役を担うかです。
後側は、「そもそも祭りを始めたのは我々だ」と主張し、前側は「宇佐神社は前側に鎮座しており、我々は宮守りだ」と反論。
揉めに揉めたこの「神輿付き」問題は、なんと裁判にまで持ち込まれ、最終的に大審院*8で前側が勝訴を収めたと言います。
実際に「大審院」にまで争いの舞台が移ったかどうか、史料で確認することはできませんでしたが、この問題が明治24年に前側の勝訴という形で、裁判で結審したという事実は史実として記録が残っています*9。
これを境に舞々尻が露払い役で神輿を先導し、前側が神輿付き、後側は囃子の最後尾を歩くことになりました。
ちなみに裁判そのものは後側と前側の争いでしたが、警固屋と見晴の人たちは後側を応援したため、文字通り、警固屋村を二分する騒動であったと言えます。
また、裁判で負けはしたものの、後側の立場を支持してくれた警固屋と見晴への恩義から、「前側とは喧嘩しても、警固屋と見晴とは絶対に喧嘩したらダメじゃ」というのが、仁太郎さんの口癖だったそうです。
ところで、この当時のやぶは一体どんなものだったのでしょうか。
仁太郎さんによると、後側のやぶの始まりは、当地に住む空岡家に飾ってあった白木の鬼面2枚だったそうです。
正確な年代は特定できませんが、それを目にした当時の青年団が空岡家の許可を得て、白木の面に墨を塗り、祭りに出すようになったとのこと。
その後、漆を塗り直し、いわゆるやぶの面としての完成を見ました。
これが北区のカッパの起源です。
あくまで空岡家の所有物でしたが、実際は年間を通して青年団で管理し、祭りで使うときだけ、使用の断りを入れていたそうです。
戦時中の祭り
そんな仁太郎さんの話を聞いて育った山崎さんが12歳の誕生日を2ヶ月後に控えた昭和16年12月、アメリカとの戦争が始まりました。
ところが、そんな最中にあっても昭和17年、18年ともに鍋の祭りは変わらず行われています。
当時、国民学校高等科*10に通っていた山崎さんは、その頃の祭りを実にはっきりと覚えています。
山崎さんによると、海軍工廠で働いていた鍋の人は、よごろの前日は仕事をさぼり、祭りの準備に勤しむ人が少なくなったとのこと。
あの当時、警固屋地区の住民の多くは海軍工廠の従業員で、「職工の町」と呼ばれていただけに*11、その影響は無視し難く、工廠から補導班が出動し、彼らを連れて帰っていたそうです。
一方、彼らとてそう易々と捕まるわけにもいかず、補導班に見つかると一斉に逃げ散っていたとか。
戦時下にあって何とも牧歌的な光景です。
一方、やぶはというと、よごろの前日から早くも出没*12。
現在の鍋山団地バス停あたりに「カッパ、ヨダレ、スイカが集まっては、海軍工廠で働く女工たちを怖がらせていた」そうです。
いずれもつがいの面だったとのこと。
さて、ここで聞き慣れない言葉が「スイカ」。
今だと北区のカッパ、中央区のヨダレと来れば、次は西区のニグロと続くはずが、ニグロではなく、スイカとは一体どういうことなのでしょうか。
北区のカッパ
中央区のヨダレ
西区のニグロ
実は、西区の伝統的な面、ニグロは戦後、後側出身の大工、北島覚氏がオリジナルで彫ったものだそうです。
実際、昭和26年から昭和29年までの間、西区*13の青年団長を務めた院去健三さん*14(昭和4年1月生まれ)も「ニグロは北島氏が彫ったもの」と記憶しており、具体的な時期については、複数の方の証言から昭和27年から昭和29年の間に絞り込まれています*15。
つまり、それ以前はニグロとは全く異なる別の種の面が出ていたということです。
そして、山崎さんは子どもの頃から、それをスイカと呼んでいた、と。
なぜ、スイカの面は出されなくなり、代わりにニグロが新しく作られたのでしょうか。
山崎さんは、「割れたから」、「水害にあったから」といった諸説を耳にしたことがあるそうですが、「元々、第3分団の面なので、実際の事情については分からない」と言います。
なお、ここで言う「第3分団」とは舞々尻の青年団のこと。
いつから始まった呼称なのかは不明ですが、この頃、既に後側の青年団は第1分団(現・北区)、前側は第2分団(現・中央区)、舞々尻は第3分団(現・西区)、警固屋は第4分団、見晴は第5分団と呼ばれており*16、今とは違って警固屋、見晴を含む警固屋地区全てが鍋の祭りに参加していたのです。
宇佐神社が警固屋村氏神として広く崇拝されていた*17というのも頷けます。
しかし、そんな賑やかな祭りも戦局の悪化に伴い、様相が変わってきました。
生活が窮乏し、祭りに精を出すだけの余裕が失われていったこともさることながら、青年団員の多くが戦地へ赴き、肝心の祭りの担い手がいなくなってしまったからです。
そのため、昭和19年は、地理的に「宮守り」の役目を担っていた第2分団だけが辛うじて参加するに止まりました。
翌昭和20年になると、日本各地への空爆が本格化し、呉も3月から7月にかけて計6回に亘って行われたアメリカ軍による空襲によって壊滅的被害を受けました*18。
このうち、6月22日に行われた呉海軍工廠への空爆では、主目標となった造兵部が壊滅し、工廠関係者に多数の死傷者が出た一方、工廠に隣接する鍋地区の民家も戦禍に巻き込まれました。
また、7月24日と7月28日の呉沖海空戦では、もはや燃料もなく呉軍港内外に防空砲台として停泊していた海軍の残存艦船15隻が攻撃の対象となりました。
その際、鍋沖に繫留されていた巡洋艦青葉に対する熾烈な銃爆撃と青葉乗組員による必死の反撃によって、警固屋地区の海岸そのものが戦場と化し、とりわけ舞々尻以南は甚大な被害を受けました*19。
殉国の塔*20や巡洋艦青葉終焉之地碑はそうした悲劇がこの地で現実に起きたことを伝えています。
殉国の塔
巡洋艦青葉終焉之地碑
そして迎えた8月15日。
長きに亘る戦争は、日本の敗戦という形でようやく終結しました。
しかし、悲劇は続きます。
翌月、9月17日、戦禍の傷跡が癒える間もなく、昭和の三大台風*21の一つとされる枕崎台風が呉地方を襲ったのです。
この台風による呉市内の被害は、死者1,154人、負傷者440人、流失家屋1,162戸、半壊家屋792戸*22。
死者1,949人を出した7月1日夜半から2日の未明にかけてのアメリカ軍による市街地空襲に次ぐ被害の大きさで、呉市民は大きな打撃を受けました。
警固屋地区も山裾の住宅地を中心に未曾有の被害に見舞われました。
こうした状況下ではさすがに祭りどころではないと思われますが、驚くべきことにこの年も第2分団だけは祭りを行っているのです。
もちろん、神輿が回るコースは通常より短かったようですが、それでも参加そのものを決して見送らなかったのは、明治24年の判決によって認められた神輿付きの意地と責任感の高さゆえだったのかもしれません。
戦後すぐの祭り
終戦翌年の昭和21年秋、鍋の祭りにようやくいつもの風景が戻ってきました。
この年、3年ぶりに全地区が祭りに参加したのです。
山崎さんも稚児として囃子に加わりました。
写真1
提供:山崎一十氏
昔は、国民学校高等科*23を卒業すると、皆、青年団に入るのがごくごく当たり前だったそうです。
修了学年は今の中学2年に相当するので、14歳から15歳にかけて入団するケースがほとんどであった、と。
山崎さんの場合、卒業年は昭和19年だったのですが、この年と翌年は、第1分団は祭りに出ていなかったので、16歳だった昭和21年の秋が青年団として臨む初めての祭りになりました。
ちなみに鍋の祭りは通常は9月23日の秋分の日*24ですが、この年に限っては10月6日の日曜日に祭りが行われています。
戦後の混乱期でもあり、何か特別な事情があったのでしょう。
下の写真2はそのときの集合写真。
写真2
提供:山崎一十氏
場所は、的場2丁目の旧家の近く。
そこに太鼓が保管されており、第1分団の出発地になっていたそうです。
写真にやぶが写っていないのは、段取りに手違いがあったことによるもので、実際はやぶは出ていたのですが、撮影時は他の場所にいたとのこと。
この年、山崎さんは初めてやぶの面を被りました。
下の写真については、撮影年ははっきりと記憶していないそうですが、いずれにしても昭和21年、もしくは昭和22年に撮られたものと思われます*25。
写真3
提供:山崎一十氏
左の面長の面が雄、右が雌です。
おそらく右が山崎さんではないか、と。
なお、昭和21年以降、青年団在籍中は毎年やぶの面を被り続けていたという山崎さんも、被るのはあくまでよごろの日のみで、祭礼当日に面を被れるのは「中老」と呼ばれる一部の青年団OBに限られていたそうです。
昔は、青年団は25歳くらいで引退するのが一般的で、引退後は中老となり、相談役のような役目を担っていたとのこと。
よごろの前日に遊び半分で面を被るにも事前に中老の許可を得ておく必要があったというので、絶対的な存在だったように思われますが、上には上がいます。
さらに歳を重ねた「長老」がヒエラルキーの最上位です。
ちょうどこの当時の山崎さんの親世代が長老にあたるそうなので、年齢としては還暦を過ぎた頃でしょうか。
続いて、下の写真4は昭和22年の例大祭当日に撮られたもの。
最前列右手で学生帽を被ってしゃがんでいるのが、山崎さんです。
当時17歳。
写真4
提供:山崎一十氏
前年の稚児のときと違って、表情も凛々しく、手甲も着用しているせいか、より青年団らしくなっています。
やぶは向かって右が雄、左が雌です。
事件
さて、この年の祭りが終わってしばらくしてから、ある大きな出来事がありました。
11月3日、文化の日は昔から「小祭り」と呼ばれ、旧呉市内各所で祭りが行われています。
具体的には、亀山神社の宮司が神職を兼務する小宮9社*26の祭りで、三条地区に鎮座する大歳神社もその一つです。
その大歳神社の祭り関係者に第1分団のカッパの面、2枚が貸し出され、なんとそれがいずれも割れてしまったのです。
貸したのは、第1分団の平沼健史氏(仮名)で、貸した直接の相手は市川正夫氏(仮名)。
その市川氏を介して大歳の青年団に貸し出され、結果、思いもかけない災難に遇ってしまったのです。
この事実は、その年のうちに第1分団関係者の知るところとなりました。
ところが、その後、割れた面の返却など、具体的な動きに至らず、その一方で翌昭和23年の祭りも間近に迫り、いよいよ焦り始めていた最中、ようやく事態に進展がありました。
この年の9月のある日、第1分団の青年団が、市川氏の義兄弟、坂井鉄也氏(仮名)の実家が営む下駄屋店に呼ばれたのです。
訪ねたのは、当時の分団長、副分団長、幹事数名。
幹事だった山崎さんもその一人でした。
着くとそこで待っていたのは坂井氏で、同氏から面が割れた経緯について、丁寧な説明がなされた後、(1)お詫びとして新しく面を2枚、製作したこと、(2)その新面2枚か、割れて修復した旧面2枚のいずれかを受け取ってもらいたいという話があったそうです。
その結果、青年団側は一度割れて傷物になってしまった面を持って帰ることに抵抗を覚え、新面の方を選びました。
代わりに、割れた旧面2枚は、以降も大歳神社の祭りで使うということで、坂井氏が引き取ったとのこと。
ところが、上で述べた通り、割れた旧面は元々は空岡家所有の面であり、それを青年団が借り受けて使っていたものです。
実態として借りっ放しになっていたため、当時の青年団が第1分団のものと思い込んでいたに過ぎず、その後、一連の対応について長老から「お前らの面ではないだろうが」と叱責を受けたと言います。
ともあれ、この日を境に坂井氏から受け取った新面2枚が、第1分団の新たな面になりました。
下の写真5は、その新面で臨んだ昭和23年の祭りです。
写真5
提供:山崎一十氏
昭和22年の写真4と比べてみると、面が黒一色に塗り潰されているかのように見えますが、稲田写場(呉市中通3丁目)の稲田整一さんによると、これは必ずしも実物がそうなっているというわけではなく、光の強さや周辺の色、印画紙の種類などによって「シャドーが潰れる」ことは一般的によくある現象で、とりわけ赤系の色はそうしたことが起こりやすいとのこと*27。
それを念頭に再度、両者を比較してみると、確かに同じカッパではあるものの、顔立ちが少し異なっているように見えます。
ここで、もっとはっきりと確認できる写真で見比べてみましょう。
下の写真6は、山崎さんがよごろの日にやぶの面を被ったもう一枚の写真です。
写真6
提供:山崎一十氏
向かって左の雌のカッパが山崎さんで、右が雄*28。
これを、昭和21年、もしくは昭和22年に撮影されたと思われる、前記の写真3と比較したものがこちら。
比較検証(1)
比較検証(2)
上が雄で、下が雌です。
いずれも系統は同じですが、面そのものは同一のものでないことは明らかです*29。
言うまでもなく、この新面2枚は、続く昭和24年、昭和25年も祭りに出され(写真7、及び写真8参照)、以降、今日に至るまでの約70年間、北区を象徴する大切な面として使われ続けています。
写真7
提供:山崎一十氏
写真8
提供:山崎一十氏
ところで、坂井氏が持ち帰った旧面2枚は、その後どうなったのでしょうか。
これについては、同氏が話した通り、実際、大歳神社の祭りで使われ続けました。
具体的にどう使われ、どのような歴史を辿ったのかについては、前作、「昔の祭り(大歳神社編)」を参照いただくとして、そこでも紹介した通り、当時、出されていた面は今でも大歳神社の蔵に大事に保管されています。
それがこちら。
大歳神社に保管されている面(1)
旧面の表情が比較的はっきりと確認できる写真3と比較してみましょう。
比較検証(3)
上の緑の点線は、大歳神社で鑑定を行った際に確認された割れた跡です*30。
左の雄は、ほぼ同一のものと判断して間違いないと思われます。
一方、右の雌については、一見したところ同一のものには見えません。
実は雌の方は、上から塗り直されているような痕跡も見られるため*31、元の表情とは変わってしまっている可能性があります。
そのため、当該面については表情そのものではなく、彫りや骨格を頼りに見比べてみることにしました。
すると、人間で言うところの頬骨と目のくぼみの部分に共通する特徴が見られる反面、口の開き加減については異なっているようにも見受けられます。
したがって、少なくともこの写真からは同一のものと判定するのは難しいと言わざるを得ません。
しかし、前記の証言や割れた跡などを踏まえると、状況的には大歳に貸し出された面であることに疑問の余地はなく、だとすると貸し出されたのは、写真3に写っている雌の面とは別の面であったという可能性も考えられます。
実際にそのような面が存在していたかどうかは不明ですが、論理的帰結としてそのような仮説が導かれます。
ところで、大歳神社の蔵には他にも気になる面が2枚ほどあります。
それがこちら。
大歳神社に保管されている面(2)
この特徴的な顎の模様は、紛れもなく中央区のヨダレです。
左が雄、右が雌。
緑の点線は、先ほどと同様、鑑定時に確認された割れた跡です。
これは一体、どういうことなのでしょうか。
確かに山崎さんは、昭和22年に当時の第1分団のカッパ2面が大歳神社に貸し出された結果、割れてしまい、代わりに別の新面を受け取って帰ったことをまさに当事者の一人として証言しています。
但し、それはあくまで第1分団に限っての話であり、第2分団でも同じようなことがあったという話は、今日に至るまで一度も聞いたことがないと言います。
しかし、現実にはヨダレそのものと言っても過言でない「割れた痕のある面」が2枚、大歳神社の蔵に収められていたのです。
その謎を解く鍵を提供してくれたのが、長年に亘って中央区の祭りに携わってきた清水満成さん*32の証言です。
昭和28年4月生まれの清水さんは、第2分団の面が大歳に貸し出された後、割れてしまい、別の新しい面の返却を受けたという話を、小学生の頃、父親から聞いていたのです。
あいにく子どもだっただけに、それ以上の詳しい状況は分からず、具体的な時期についてもはっきりと特定できないまま、今に至っているのですが、清水さんのお父さん(写真9の後列右)は、少年期に稚児をして以来ずっと第2分団の祭りとの関わりが深かったため、証言そのものの信憑性は高いと思われます。
写真9
提供:清水満成氏
そこで、同種の証言が残っていないか、各方面を取材した結果、北区の青年団OBである盛川一雄さん*33から次のような話を聞くことができました。
昭和17年8月生まれの盛川さんには、大正14年生まれの年の離れた兄がいました。
お兄さんは戦前からの第1分団の青年団で、引退後も自宅に青年団関係者がよく集まっていたそうです。
そこに物心ついた盛川さんもいて、「第1分団の2面と第2分団の2面が同時期に大歳に貸し出されていた」という話を何度も聞いていたのです。
貸し出されたという話もさることながら、「同時期に」という点が前記の清水さんのお話では確認できなかった新たな証言です。
証言はこれだけに留まりません。
下の写真10をご覧ください。
写真10
提供:清水満成氏
この写真は、昭和25年に撮影された第2分団の集合写真です。
ここに写っている人の多くは既に故人となっていますが、最前列中央でしゃがむ男性の肩に両手を置いた、2列目に立つ「青年」、山下政人さん*34に会うことができました。
昭和7年5月生まれの山下さんは、当時18歳。
その山下さんによると、「子どもの頃は第2分団の面は2枚とも古い面だったのが、自分が青年団で祭りに出ていた頃は、いずれも新しい面だった」とのこと。
青年団の一員として祭りに出た最初の年がいつだったのかについては、記憶がはっきりしないそうですが、少なくとも上記の写真9が撮られた昭和25年は紛れもなく「青年団で祭りに出ていた頃」であり、そこに写っているヨダレの2面は、まさに「新しい面」であったことを山下さんは証言しているのです。
このことは、盛川さんの証言で確認された「同時期に貸し出されていた」という時系列とも整合しています。
そこで、大歳保管のヨダレ2面の写真を山下さんに見てもらったところ、これについては「どことなく見覚えはあるけど、あやふやではっきりしない」、と。
盛川さんの証言にあるように、第2分団のヨダレの2面が大歳に貸し出された年が、第1分団と同時期だとすると昭和22年の秋。
このとき山下さんは15歳です。
15歳以前の少年の頃の記憶を写真1枚で思い出してもらうというのは、さすがに無理があるのかもしれません。
そこで、探し求めたのが昭和22年以前に撮影された第2分団の写真です。
いかんせん70年以上も前の写真で、捜索は難航を極めましたが、幸いにもそれを見つけることができました。
それがこちら。
写真11
提供:小藤和夫氏
写真の提供者、小藤和夫さん*35は、昭和24年1月生まれ。
かつては、西区からニグロの面を被って祭りに出ていたこともありますが、元々は中央区育ちです。
写真11は大正8年生まれの父親が残したもので、あまりにも保存状態が悪かったため、現物の写真をコピーし、それにラミネート加工を施し、持ち続けていたそうです。
あいにく元の写真の所在については、分からないとのこと。
撮影年は不明ですが、右の方に軍人、もしくは帰還兵のような姿が写っていることから、戦時中か戦後すぐに撮影されたものではないかと思われます。
「父は若い頃、第2分団の祭りに出ていたので、当時の写真を残していたのだろう」、と。
ここで注目いただきたいのは、右手前に写っているやぶです。
画像は不鮮明ですが、見比べてみると、一目で分かります。
そう、まさしく大歳保管のヨダレの雄です。
比較検証(4)
もう決定的と言っても良いでしょう。
しかし、これはあくまで雄。
雌はどうなのでしょうか。
ここで下の写真2枚をご覧ください。
写真12
提供:中本幸一氏
写真13
提供:中本幸一氏
いずれも写真の提供者は中本幸一さん*36で、大正末期生まれで第2分団の祭りに所縁の深かった父親、堤京二さんが残していたものです。
写真12に写っている幟に「祈武運」という文字が見えます。
その下の文字は青年団の背後に隠れてしまっていますが、間違いなく「長久」という漢字が続いているでしょう。
武運長久とは、出征した兵士の無事がいつまで続くことという意味の四字熟語です。
それを「祈」と書いた幟です。
言うまでもなく、戦地に赴いた青年団の仲間の無事を祈念したもので、戦時中ならではの祭りの写真です。
それとおそらく同じ年に撮影されていると思われるのが、写真13です*37。
「前側組」と書かれた幟とともにここに写っている2匹のやぶは、紛れもなくヨダレです。
拡大して、大歳保管の2面と比較してみましょう。
まずは問題の雌。
比較検証(5)
一致すると言ってほぼ間違いないでしょう。
続いて、雄。
比較検証(6)
こちらも同様、一致は確定的です。
ここで大歳側の関係者の証言も振り返ってみたいと思います。
前作、「大歳神社編」でも記した通り、現在、大歳神社の総代長を務める荒谷一さん(昭和9年10月生まれ)は、当時13歳だった昭和22年11月3日の小祭りの日に、ある現場を目撃し、次のように証言しています。
「大歳神社のやぶと鯛乃宮神社のやぶとの間で起きた激しい喧嘩で、大歳側のやぶの面が何枚も割れてしまった」、と。
そして、その証言を裏付けるように大歳神社に保管されている7枚の面のうち4枚に、はっきりと割れた跡が確認でき、丁寧に修正が施されていることが判明したのです。
ものの見事に割れた痕は、まさに昭和22年のあの日の傷跡だった可能性が極めて高いと言えます。
実は荒谷さんの証言はこれだけに留まりません。
あの出来事の後、大歳の青年団が「割れた面の弁償金を工面するのが大変だ」と溢していたのを直接聞いており、そのこともあってあの日の印象が今なお強く残っていると言うのです。
大歳側の証言者は他にもいます。
かつての大歳の祭り関係者の一人、岡田美鶴さん*38です。
昭和30年11月生まれの岡田さんが初めて祭りに参加したのは、昭和40年の小学4年生のとき。
以降、昭和63年までの24年間、大歳の祭りに携わってきました。
その間、年輩の青年団OBから、昭和22年に「警固屋から借りた面」が鯛乃宮との喧嘩で割れたこと、そして、その代償として新面を作って返したことを聞いていたのです。
まさに証言と証拠が出揃った感があります。
ここで、これまでの検証結果を小括しておきます。
- 昭和22年秋、カッパとヨダレの計4枚が仲介者を経由して大歳に貸し出された
- それら全ての面が大歳の祭りで割れた
- 大歳の青年団はその弁償金を仲介者に支払った
- その弁償金で仲介者が新面を製作した
- 仲介者から割れた旧面の補償として新面が提供された
4. については、直接の証言はありませんが、前後の状況からしてその可能性が高いと考えられます。
以上が冒頭述べた、「鍋の祭り」史において一大事といっても過言ではない、歴史に埋もれた70年前の「大事件」です。
ただ、ここで一つ気になることがあります。
大歳保管の7面のうち、長年、一番、二番として使われていた2枚は、面の作りからして大歳オリジナルの面と考えてほぼ間違いないと思われます。
残る5枚のうち、4枚が前記のカッパとヨダレです。
「気になる」というのは、最後の1枚です。
それがこちら。
大歳神社に保管されている面(3)
面の顔立ちがあまりも旧呉市内のそれとは異なっています。
また、前作、「大歳神社編」でも記した通り、鑑定の結果、大歳保管の7枚の中では、一番、二番が最も製作時期が新しいように見え、上記の「気になる」面については、カッパ、ヨダレと同程度に古いことが確認されています。
つまり、割れた痕こそないものの、明らかに旧市内の系統とは違った面構えをした古面がもう1枚あるということです。
これは一体何なのでしょうか。
この疑問を頭の片隅に置きながら、次に紹介したい写真がこちら。
写真14
提供:中石真喜雄氏
昭和23年の祭りで撮影された第3分団、現在の西区の集合写真です。
写真提供者の中石真喜雄さんは昭和6年生まれ。
向かって右の稚児が17歳当時の中石さんです。
この写真を見て一目瞭然なのは、2匹並びのやぶのうち、右側に立っているは第2分団、現在の中央区のムシクイだということです。
ムシクイは、よごろの日に限って出ると言われる第2分団固有のやぶです。
それがどうして第3分団の集合写真に写っているのでしょうか。
全くもって不可解です。
そして、その左側の見慣れない面。
これは、一体何なのでしょうか。
ここで思い返していただきたいのが、北区の長老、山崎さんの証言です。
既述の通り、ニグロの面の作成時期については、複数の方の証言から昭和27年から昭和29年の間に絞り込まれています。
だとすると、この写真が撮られた昭和23年はまだニグロはこの世に存在していない時代なので、ムシクイの隣に立つ謎のやぶは、山崎さんの言うスイカである可能性が考えられます。
第3分団の写真はもう1枚あります。
写真15
提供:院去寿治氏
この写真も同じくニグロが作られる前の時代、昭和25年に撮られたもので、やはり右側に第2分団のムシクイが写っています。
そして、左側に立っているのが、昭和23年の写真にも写っていた謎の面です。
もちろんこれがスイカであると断定することはできませんが、状況からしてその可能性は十分あります。
もしそうだとすると次なる疑問は、どうして1匹しかいないのかという点です。
山崎さんは、スイカには、カッパ、ヨダレと同じく「つがいがいた」と証言しています。
本来であれば、つがいが揃って写っているはずです。
それが片方のみしか写っておらず、代わりにいたのは、第2分団のムシクイです。
明らかに不自然です。
そこで考えられるのは、本来はスイカのつがいが写るべきところではあるものの、何らかの事情でその片方の面が祭りに出せなくなり、その穴埋めとして第2分団からムシクイを借りたという可能性です。
あいにくそれを裏付ける証言はありませんが、状況的に大いにあり得ます。
ここから先は、大胆な仮説に過ぎませんが、その何らかの事情で出せなくなったと思われるもう片方のスイカというのは、もしかすると上で述べた大歳保管の「気にある」1枚なのではないでしょうか。
そう考える最大の理由は、面の系統がよく似ているからです。
とりわけ、歯の特徴は酷似しています。
比較検証(7)
また、そう考えるとあの面がカッパ、ヨダレと同程度に古いという点も頷けます。
時系列の点でも整合的です。
カッパ、ヨダレの古面4枚が大歳の青年団に貸し出されたのは、昭和22年の秋です。
実際はこれにもしスイカの1面も含まれていたのだとすると、昭和23年の第3分団の集合写真(写真14)に本来写っているべきつがいがいないのも納得できます。
もちろん、これについては推論の域を出ない上、カッパ、ヨダレと違って面そのものは割れていなかったのになぜ、大歳の祭りで使われ続けたのかという疑問も残ります。
しかし、上記の仮説が正しいとしたら、歴史に埋もれた70年前の「大事件」というのは、上で検証された以上にその輪郭は大きかったことになります。
なお、余談になりますが、第4分団(警固屋)の写真にも「スイカ系」の面が写っています。
写真16
この写真の元々の所有者は、中央に写っているやぶの面を被っていた方(故人)で、そのご家族から提供いただきました。
写真は、鍋の祭りではなく、昭和25年10月17日に行われた貴船神社(警固屋8丁目)の祭りです。
第4分団は、かつては鍋の祭りにも参加する傍ら、地元、警固屋の祭りにも出ており、そのとき貴船神社の前で撮られたものです。
3匹写っているやぶのうち、右端のやぶはエンマと呼ばれる当地区の伝統的なやぶによく似ています。
一方、左端と真ん中のやぶは、明らかにそれとは系統が異なっており*39、むしろ昭和23年と昭和25年の第3分団の集合写真(写真14、及び写真15)に写っていたスイカと思しき面と同じような顔立ちをしています。
舞々尻(第3分団)と警固屋(第4分団)は、境界を接する隣同士の地区なので、もしかすると昔は両地区にまたがる形で「スイカ文化圏」が形成されていたのかもしれません。
ポスト戦後の祭り
本稿の主題は、前節で検証、考察した70年前の「大事件」ではありますが、冒頭で述べたように、以降の歴史も追跡し、「昔の祭り」と「今の祭り」の連なりについても確認の作業を行うため、ここで再び山崎さんの話に戻します。
既述の通り、明治24年の判決以降、一貫して第2分団が神輿付きの役目を担ってきましたが、およそ60年の歳月を経て、ようやく変化の時が訪れました。
そのきっかけは玉替えでした。
玉替えというのは、祭りにおける昔の娯楽で、簡単に言うと、土で作ったダンゴの中に1等賞、2等賞といった福紙が入っており、主として若い男女がそれを買い、互いに声を掛け合い、玉を替え、福を交換し合うという遊びです。
遊びとは言っても本当の目的は、普段、話せない男女が自然な形で言葉を交わすきっかけ作りであり、そうした目的ゆえ、鍋の祭りでも飛ぶように売れたと言います*40。
その玉替えダンゴを作り、境内で売っていたのが第1分団だったのですが、昭和27年のある日、第2分団、第3分団の関係者からそれを合同でやらせてもらえないかと相談があり、検討の結果、神輿付きを交代制に改めることを条件に承諾したのです。
当時、第1分団は、宮入り、宮下りに際して第4分団(警固屋)、第5分団(見晴)とともに囃子の最後尾の位置を歩いていたのですが*41、それがついに改まり、神輿付きの役を担えることになったわけです。
下の写真17に写っている、白地の布に「神輿附」と書かれた旗は、それを機に作成したものとのこと。
写真17
提供:山崎一十氏
続いての写真は、昭和30年に撮られたもの。
写真18
提供:山崎一十氏
このとき、山崎さんは25歳。
既に青年団を引退し、中老になっていたとか。
そんな年から2年が経った昭和32年。
この年は、第5分団の見晴が鍋の祭りに参加する最後の年になりました。
下の写真19は、鍋に向かう前の集合写真です。
写真19
提供:高本佐次氏
写真を提供してくださったのは昭和9年4月生まれの高本佐次さん*42で、前列右端に写っています。
当時23歳。
見晴は、旧地名でいうところの林山、鳥ヶ平、長迫の3つの迫から成り、それぞれ現在の見晴1丁目、2丁目、3丁目となっています。
その昔は、これら全ての迫から太鼓も稚児も出し、鍋の祭りに参加していたのですが、距離も遠く、負担が大きかったため、ある時期から毎年、各迫が交代で稚児と太鼓を出すようになったと言います。
その具体的な年は不明ですが、高本さんによると大正時代か、もしくは昭和初期の頃ではないか、と。
実際、昭和5年3月生まれの見晴の長老、中迫文雄さん*43も「明治30年生まれの親父の時代は、3地区が揃って鍋の祭りに出ていたと聞いている」と証言しており、高本さんの推測を傍証しています*44。
中でも鍋入りが困難だったのは地理的に一番遠い長迫で、太鼓を担いで山を越えるのは容易でなく、また警固屋渡船場から冠崎(阿賀南9丁目)までの道路が竣工したのは昭和13年で*45、それ以前は海岸沿いの道もありませんでした。
そのため、第5分団の中でも長迫だけは、約80年前までは船に乗って鍋に移動していたそうです。
船上の祭礼一行とは、想像するだけでなんとも壮観な眺めです。
一方、やぶはと言うと、稚児や太鼓と違って交代制の対象外で、鳥ヶ平と長迫にあった何枚かの面の中から適当に2枚を選び、それが鍋の祭りに出ていたとのこと*46。
上の写真19に写っている2匹がまさにそれ。
このうち右のやぶの面は、今でも見晴3丁目(旧長迫)の竈神社の蔵に保管されています。
見せてもらったのがこちら。
竈神社に保管されている面(1)
ちなみに、竈神社の前・氏子代表の中迫さんと現・代表の花岡哲男さん*47(昭和14年7月生まれ)によると、この面よりもずっと古い面がこちら。
竈神社に保管されている面(2)
同じく、鍋の祭りにも出されていましたが、昭和32年の鍋の祭り(写真19)では、たまたま使われていなかったようです。
但し、第5分団も第4分団(警固屋)と同様、鍋の祭りにも参加する傍ら、地元、見晴の祭りにも出ており、そのときの写真にはこの古面が写っています。
写真20
提供:高本佐次氏
撮影年は昭和30年で場所は、若宮神社の前。
見晴には、若宮神社(見晴1丁目)、地神社(見晴2丁目)、竈神社(見晴3丁目)と3つの神社があり、各地区が10月17日の神嘗祭の日にそれぞれの神社の祭りを行っていたそうです*48。
見晴3丁目(旧長迫)の竈神社に保管されている面を見晴1丁目(旧林山)の若宮神社の祭りに使うというのは、一見、奇異に聞こえますが、高本さんによると、「各迫の面」というよりもどれもが「第5分団の面」として扱われていたため、こうした使われ方がごく普通に行われていたそうです。
さて、そんな第5分団も昭和20年代の半ばまでは毎年、鍋の祭りに参加していたものの、その後、しばらく中断。
高本さんによると、写真19の昭和32年は、久々に鍋の祭りに出た年だったそうです*49。
しかし、この年、拝殿上で見晴の太鼓が不良グループに破られるという残念な出来事があり、それを機に鍋の祭りへの参加を取りやめたと言います*50。
そんな出来事があった翌年、昭和33年5月、第1分団の中老、山崎さんは仕事で呉を離れることになりました。
当時28歳。
一人の青年、一つの時代の節目です。
「もはや戦後ではない」というのは、昭和31年の経済白書に記された、あまりにも有名な言葉です。
山崎さんが呉を去った時期は、まさにそんな時代でした。
世の中全体がそうであったように、鍋の祭りも「戦後の時代」から「ポスト戦後の時代」へと移ろうとしていたのです。
そんな新たな時代の担い手となった一人が、昭和17年8月生まれの盛川一雄*51さんです。
昭和30年の集合写真(写真18)で、幟を持って左端に立っている少年が盛川さんです。
翌昭和31年は、稚児として祭りに参加。
写真21
提供:盛川一雄氏
当時14歳です。
少年はやがて青年になり、北区の祭りの一時代を築きました。
祭りとの本格的な関わりは、昭和39年、22歳のとき
実は稚児をやって以降、しばらくして数年間、北区は祭りを出していなかったと言います。
正確な時期については不明ですが、少なくとも昭和33年までは祭りを行っていたことが下の写真22で確認できることから、最大で昭和34年から昭和38年までの5年間が空白の時代であったと考えられます。
写真22
提供:盛川一雄氏
実は昭和30年代というのは、「呉の祭り」史における冬の時代で、旧市内の他の神社においても様々な事情で祭りが行えなかったり、あるいは子どものやぶしか祭りに出せなかったりといった時期と重なります。
鍋の祭りにもそんな時代があったということです。
一方、その間も中央区と西区は変わらず祭りを行っています。
下の写真23(中央区)と写真24(西区)はいずれも昭和34年に撮られたものです。
写真23
提供:平岡正臣氏*52
写真24
提供:船木芳郎氏
中央区のヨダレも西区の大太鼓も健在です。
ただ、そこに北区のカッパがいないとなると、「鍋の祭り」好きにとっては寂しいことこの上ないでしょう。
昭和39年という年は、そうした冬の時代が終わり、待ちわびた復活の年になったわけです。
但し、簡単に「復活」と言っても、空白の歳月は短いようで長く、祭りの準備をしようにもやぶの髪やたすきがなかったと言います。
そのため、盛川さんらは、昔の記憶を頼りに試行錯誤しながらこれらを製作。
北区のカッパのことを「ダスキン」と呼ぶ人もいますが、その由来となる髪はこのとき誕生したのです。
下の写真25は、昭和39年のよごろの日に撮られたもので、ここに「ダスキン」の起源を確認することができます。
写真25
提供:盛川一雄氏
盛川さんが初めてやぶの面を被ったのは中学生のときですが、そのときはかつての山崎さんがそうであったように、あくまでよごろの日限定。
復活の年となった昭和39年に初めて祭礼日当日に被ったそうです。
以降、約10年間、青年団長を務めた1年*53を除いて毎年、例大祭の日に面を被り続けました。
下の写真26もその間の一枚。
右が盛川さんです。
写真26
提供:盛川一雄氏
盛川さんの時代に始まり、今も受け継がれているものは、「ダスキン」の髪以外にもあります。
その一つがとんぼ(俵みこし)です。
盛川さん曰く、「北区は意外と範囲が広く、ご祝儀を集めて回るのが大変」、と。
そこで、昭和40年代の前半にとんぼを作り、やぶ、神輿、とんぼで手分けして回るようになったそうです。
宇佐神社の石段で行われる北区の俵もみは、今では鍋の祭りの見所の一つとなっていますが、盛川さんによると、昔はそういったことは行っておらず、そもそもとんぼ自体が存在していなかったというわけです。
また、とんぼが作られてからも担ぎ手はあくまで子どもで、それをカッパ2匹で道中、揉む程度であったと言います。
やぶが3匹以上になったのは、昭和45年前後になってからのことで、俵の前後に付けるためというのが増やした理由とのこと。
約半世紀前のことですが、山崎さんのお父さんの時代からここまで時代を駆け上ってようやく「昔の祭り」と「今の祭り」の連なりが見えてきます。
もちろん、そんな盛川さんもやがて青年期を過ぎ、引退が訪れています。
下の写真27は、その日から数十年が経った平成14年の鍋の祭りの一コマです。
写真27
提供:盛川一雄氏
左の笑顔の男性が還暦を迎えた盛川さん。
昔で言えば、「長老」です。
そしてその横に写っているのが、なんとあの山崎さん。
当時72歳。
「長老」がヒエラルキーの最上位かと思いきや、山崎さんの話では実は「元老」と呼ばれる人もいたそうなので、このときの山崎さんはさしずめ「元老」といったところでしょうか。
時代が変わり、祭りの形が少しずつ変われど、祭りの匂いは、青年だったあの頃と何ら変わっていないことでしょう。
残された課題
本稿では、「鍋の祭り」史において一大事といっても過言ではない、歴史に埋もれた70年前の「大事件」を明らかにし、鍋のやぶのルーツに迫ることを主として試みました。
幸い、貴重な写真や証言が多く得られたことで、一定の分析、検証を行うことができましたが、必ずしも十分とは言えない部分も多く残っています。
以下、本稿で達成できなかった点をいくつか示し、今後の課題とします。
第一に北区については、具体的な証言に基づき、昭和22年以前の写真と大歳保管のカッパの2面を比較検証したところ、雄については両者の一致を確認できた反面、雌については同一のものとは言い難い判定結果となりました。
そこで、一連の証言や割れた跡などを踏まえると、状況的には大歳に貸し出された面であることに疑問の余地はないことを指摘した上で、貸し出されたのは当該写真に写っていたものとは別の面であったという可能性を示しました。
しかし、それはあくまで論理的帰結として導かれた一つの仮説に過ぎず、今後は実際にそのような面が当時存在していたことを示す写真や証言を集めるなどして、裏づけを取る必要があります。
第二に中央区については、幸い、戦時中に撮影されたと思われる写真に雄と雌のヨダレが写っていたため、大歳保管の面がそれらと一致することを確認することができましたが、北区のケースと違って貸した経緯や返却を受けたときの状況については、具体的かつ詳細な証言が何ら残っていません。
今後は、物的証拠を補完する様々な証言を集め、一体、あのとき何が起きたのかをより細やかに明らかにする必要があります。
第三に西区については、ニグロが昭和20年代後半に作成されたものであることを複数の証言によって明らかにした上で、それ以前はスイカと呼ばれる古面が存在していたことを示しましたが、「スイカ」という具体的な呼称については、現状では山崎さん一人の証言に負っています。
その存在をより確かなものにするためには、さらなる証言の収集が求められます。
また、仮にそれが実際にスイカだったとして、つがいの一方が大歳に貸し出され、今もそれが大歳の蔵に保管されているという仮説は文字通り、「仮説」に過ぎません。
今後は、そうした出来事が実際にあったことを裏付ける証言を集めるほか、例えば昭和22年の集合写真を入手するなどして、そこに当該面が写っていることを確認する必要があります。
最後に、本稿では70年前の「事件」を主題として取り上げる一方、「昔の祭り」と「今の祭り」の連なりを確認するために、当該事件後の鍋の祭りについても一定の期間、追跡し、記述を試みました。
しかし、その多くは北区の歴史に割かれており、中央区と西区については十分な確認を行うことができませんでした。
とりわけ、西区のニグロについては、その製作時期がほぼ特定できたにもかかわらず、それを裏付ける写真を収集できなかった点は痛恨の極みであり、一刻も早い発見が期待されます。
結び
きっかけは大歳神社の蔵から出てきた「謎の古面」でした。
元々は、大歳神社の「昔の祭り」を調べる目的で、総代長の荒谷一さんへの取材を申し入れたのですが、その過程で偶然、蔵の中の古面を写した写真を目にしたのです*54。
それを八咫烏神社の祭り関係者で、やぶの面に造詣の深い大林鉄兵さん、黒田哲仙さんに見てもらったところ、「これはもしかするとカッパ、ヨダレの昔の面ではないか」との思いもよらない指摘を受けたため、その真偽を明らかにすべく、大歳神社と宇佐神社、双方の「昔の祭り」を本格的に調べることにしました。
なにぶん70年前の出来事を明らかにしようという試みだったため、証言や写真を集めるのも容易でなく、取材はおよそ11ヶ月に及びました。
結果、これまでの中で最も大がかりな調査となりましたが、多くの方の協力を得て、何とかその成果を本稿にまとめることができました。
これだけ広範囲に亘って、貴重な証言・写真を収集できたのもひとえに警固屋地区の地縁が豊かで強固であったからに他ならないでしょう。
そして、その豊かで強固な地縁の形成に鍋の祭りが少なからず影響していたことを感じずにはいられない11ヶ月にもなりました。
改めて振り返ってみると、「事件」そのものは、「鍋の祭り」史において不幸な出来事であったと言わざるを得ませんが、起きた年代が混沌とした戦後間もない時代であったことを考えると、今の価値観では起こり得ないことが起きたとしても不思議ではないのかもしれません。
ただ、そんな歴史を経ながらも、かつての鍋の古面が暗闇に眠ることなく、戦後昭和の「大歳の祭り」において輝きを放ち続けたのは、せめてもの救いであったと思われます。
実際、活躍の舞台を移したあの古面が大歳の「不動の7面」の一角を担い、昭和の両城・三条地区を大いに沸かしたことは歴史的事実であり、それを一連の取材を通じて明らかにできたことは、単に起きた「事件」をつまびらかにするだけに終わるよりも、はるかに有意義であったと言えます。
しかし、そんな時代も昭和とともに終わりました。
以降、30年近くに亘って大歳の蔵に収められ続けているのは、何とも惜しい気がしてなりません。
本来、一部外者でしかない筆者の立場で軽率に「期待」を述べるのは厳に慎まなくてはなりませんが、それでも「鍋の祭り」好きの一人としてこう声に出さずにはいられません。
願わくば、一度でもいい、70年ぶりにあの古面が鍋の祭りに出る「夢」を見てみたい、と。
謝辞
本稿を作成するにあたり、山崎一十氏には、長時間に亘るインタビューにご協力いただきました。盛川一雄氏、山下政人氏、平岡正臣氏、小藤和夫氏、中本幸一氏、清水満成氏、殿垣内保彦氏、院去健三氏、佐々木逸雄氏、中迫文雄氏、花岡哲男氏、高本佐次氏、荒谷一氏、岡田美鶴氏にも貴重な証言や写真を提供いただきました。大林鉄兵氏、黒田哲仙氏には、写真の鑑定に多大な協力をいただいたばかりか、新たな情報を得る度に何度となく貴重なご意見をお聞かせいただきました。船木芳郎氏にはご自身の人脈を駆使し、各方面の取材先をご紹介いただく一方、古写真の収集にも多大な力添えをいただきました。とりわけ7月以降は、「共同作業」と言っても過言ではない献身的な調査活動を行っていただきました。ここに記して感謝の意を表します。
この他にも多くの方に取材のご協力をいただいています。匿名を希望されている方も一部含んでいるため、ここで具体的なお名前を挙げることは控えますが、特段の見返りがないにもかかわらず、筆者の煩雑な質問に対し、丁寧に答えてくださった全ての方、また紹介の労をとってくださった方々に、この場を借りて心から感謝を申し上げます。
なお、本稿の記述における誤謬の責は筆者にあります。
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*1:鍋桟橋については、下記を参考に記述。
警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*2:2009年3月に廃校になった鍋小学校もその最たる一つ。
*3:「警固屋の祭り」は、どちらかというと貴船神社(警固屋8丁目)の祭りを指す。
*4:2017年1月13日、2017年2月1日、2017年9月4日、取材。
*5:以降、本稿で「警固屋地区」と表記する場合は、行政の定める当該地区のことを指す。
*6:法正寺を境とし、呉市に近い側が後側、音戸に近い側が前側。
*7:宮入り、宮下りの道中、神輿を前後に挟むようにして歩く役目。
*9:警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*10:現在の中学1年から2年。
*11:警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*12:当時、やぶが出ていたのは、よごろの前日、よごろ、祭礼、祭礼翌日の計4日間。
*13:当時は第3分団と呼ばれていた。具体的には後述。
*14:2017年3月14日、2017年7月22日、取材。
*15:盛川一雄氏(昭和17年生まれ)が小学生の頃(昭和24年〜29年)、かつ船木芳郎氏(昭和20年生まれ)が小学生の頃(昭和27年〜昭和32年)なので、重なる時期は昭和27年から昭和29年の3年間。
*16:現在の北区は警固屋第1区~4区、中央区は警固屋第5区~7区、西区は警固屋第8区~10区。但し、警固屋第8区については、元々は第3分団ではなく、第2分団から祭りに出ていた。
*17:警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*18:中でも7月1日夜半から2日の未明にかけての焼夷弾攻撃は、最も大きな被害をもたらし、死者1,949名、負傷者2,138名、全焼全壊住宅22,954戸、半焼半壊住宅735戸と記録されている。
*19:空襲による警固屋の被害状況については、下記を参考に記述。
警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*20:昭和20年6月22日の呉海軍工廠空襲により亡くなった476名の動員学徒、並びに女子挺身隊の慰霊碑。
*21:室戸台風(昭和9年9月21日)、枕崎台風(昭和20年9月17日)、伊勢湾台風(昭和34年9月26日)。
https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/106/kurehistory.html
*23:昭和16年の国民学校令によって始まり、昭和22年の学制改革まで続く。それ以前は、高等小学校。
*24:9月22日の年もある。
*25:その根拠については、昭和23年以降、今日まで使われているやぶの面とは明らかに異なっていることが写真によって確認できるため。詳しくは、次節「事件」にて記述。
*27:但し、デジタル写真であれば、事後的に調整可能。
*28:竹が短いのは当時の警察の指導によるもので、よごろの日に限ってこれを使用。
*29:以上の写真検証と前記の証言をもとにすれば、写真6は昭和23年以降に撮られたものと思われる。
*30:2017年2月4日、大林鉄兵氏、黒田哲仙氏の協力を得て、鑑定を実施。
*31:一部剥げかけている塗装の下に別の塗装が見られる。
*32:2017年2月10日、取材。
*33:2017年3月5日、取材。
*34:2017年8月30日、取材。
*35:2017年8月30日、取材。
*36:2017年9月11日、取材。
*37:アルバムに写真が収められていた状態からそう判断。
*38:2017年1月22日、取材。
*39:他にも当地区にはダンゴ、ニグロと呼ばれる伝統的なやぶがいるが、それらとも明らかに異なっている。
*40:玉替えについては、下記を参考に記述。
- 警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
- 亀山神社ホームページ
http://www.kameyama-jinja.com/rekisimaturi.html
*41:最後尾グループにおいてもどの順番に連なって歩くかが重要で、これについては毎年交替する慣わしになっていたと言う。
*42:2017年8月24日、取材。
*43:2017年8月19日、取材。
*44:仮に当時の第5分団も第1分団と同様、高等学校を卒業してからすぐ青年団に入り、25歳で引退していたとしたら、明治30年生まれの故・中迫氏の青年団在籍期間は、大正元年から大正11年になる。
*45:警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
*46:林山(見晴1丁目)については、平成の時代になって初めて面を作成。
*47:2017年8月19日、取材。
*48:現在は、10月第2日曜日。但し、少子高齢化が著しく、近年はやぶ、太鼓、稚児ともに出していない。
*49:中迫氏と花岡氏も同様の証言をしている。
*50:貴船神社の祭り関係者によると、警固屋(旧第4分団)は、昭和50年頃まで鍋の祭りに参加していた。
*51:2017年3月5日、取材。
*52:2017年8月28日、取材。
*53:昭和40年、もしくは昭和41年。
*54:2016年10月24日。