呉のやぶ

呉の秋祭りのシンボル的存在、「やぶ」の今と昔をお伝えします。

2023年 祭り紀行

一般には馴染みが薄いかもしれませんが、学術雑誌に投稿した論文が掲載されるには、レフェリーと呼ばれる匿名・複数の査読者から査読(審査)を受ける必要があります。

拙稿「呉のやぶの多様性と経時的変化」の場合、「日本民俗学」に掲載されるまで二度、要修正(revision)の査読結果を受け、三度目の投稿で採択(accept)されました。

ここで紹介したいのは、一回目の投稿時にレフェリーから受けたコメントの一部です。

 

2019年10月28日付 査読結果通知書からの一部抜粋

本論の現地調査では、やぶの多様性が示されているが、各地の秋の祭礼の中でのやぶ位置付けや、秋の祭礼自体の全体像に関する記述が希薄である。それはおそらく、執筆者(投稿者)の関心がやぶにあり、祭礼にはないことから生じたものであろう。(中略)やぶは祭礼の中で意味を持ち、祭礼は社会のなかで意味を持っている。(中略)祭礼が地域社会の中でどのような位置にあり、構造や意味、さらに課題を持っているのか、人々の大切なアイデンテイティと関わりを持っているのか。(中略)他の地域の祭礼に関わる先行研究(論文)を読んでいくことで、より広域にやぶという存在の考察を深めてもらいたいと考える。

 

『執筆者(投稿者)の関心が(中略)祭礼にはない』との言われようには反論したい気持ちもありましたが、査読者からの指摘の通り、当時の筆者の主たる関心は「やぶとその歴史」で、祭礼におけるやぶ以外の事物や事象への興味が相対的に薄かったのは正直否定できません。

ただ本音のところ、やぶ一点に焦点を当てる調査スタイルにどこかしら限界を感じ始めていた時期でもあったため、上記のコメントを受けた頃を境に次第に「やぶは呉の祭りにおける重要な構成要素ではあるものの、あくまで祭礼の中の一要素に過ぎない」と考えるようになりました。

それに伴い関心の対象は「やぶを含む祭礼全体とそのあり方」へと移り、以降、やぶだけにとらわれない取材を行うようになりました。

それが最も顕著に表れたのが今年の活動で、⑴初の県外調査として2月に愛媛を訪ねたのも、また⑵呉市内にありながら伝統的な「やぶ文化圏」*1ではなかったためこれまで正味一度も取材したことのなかった横路、広の祭りに足を運んだのも、前記の関心の変化によるものです。

このうち前者については、既稿「愛媛取材記 東予の鬼文化」*2に調査結果をまとめています。

その後、実際の祭りを見るべく、10月にも西条市を再訪し、伊曽乃神社の祭礼取材を行いました*3

詳細な報告は別の機会に譲りますが、下記のスケジュールにある通り、なにせ最大の見所(朱書き箇所)が深夜や早朝という祭りです。

 

伊曽乃神社祭礼運行スケジュール

出所:西条市HP、令和5年度 西条まつりスケジュール・運行コース*4

 

ホテルを出たのが10月16日の午前2時半で、夜の9時半に宿に戻るまで、歩いた歩数は2万7千歩、距離にして約20kmでした。

以下はその道中で目にした光景です。

 

御旅所に向けて出発(西条校区)

午前3:09撮影

 

御旅所での奉納の練り⑴

午前4:18撮影

 

御旅所での奉納の練り⑵

午前4:50撮影

 

統一運行(御旅所から御殿前へ)

午前6:24撮影

 

御殿前での練り⑴

午前7:07撮影

 

御殿前での練り⑵

午前9:45撮影

 

年番校区の舁夫に担がれる御神輿

午前10:23撮影

 

統一運行を先導する鬼頭

午後3:12撮影

 

鬼頭の腰に据え付けられた烏天狗

午後3:32撮影

 

加茂川でのお宮入り(川入り)

午後6:18撮影

 

最後の御神楽

午後7:05撮影

 

御神輿の還御(宮入り)

午後7:41撮影

 

最後の町回り

午後9:06撮影

 

終始、豪華絢爛なだんじりに目を奪われるながらも、案内をしてくださった当地の祭礼研究者、佐藤秀之さんによれば「御神輿が御神楽をしながら二日かけて巡幸し、(約80台の)だんじりがそれに供奉する」というのが江戸期から変わりない伊曽乃祭礼の本質とのこと。

その御神楽が行われる神楽所も全部で36箇所もあるというのだから驚きです*5

これだけの規模でありながら、巷にあふれるイベントやフェス化した「祭り」とは一線を画す、祭り本来の匂いに満ちた神社祭礼である点に最も魅了されました。

祭りのフィナーレとして注目されがちな「川入り」も素人眼には、御神輿が加茂川を渡ろうとしているのをだんじり*6が阻んでいるように見えますが、実際はそうではなく、『神様がお帰りになるとお祭りが終わるので、もう少しお留まり願いたいとの練り』*7です。

またその「川入り」自体もあくまで御神輿が加茂川を渡ってお宮へ還るのを東岸地区のだんじり*8が川堤から見送る「お宮入り」*9行事の一要素に過ぎないと聞くと*10、同じ光景でも祭礼色が一層増して見えます。

次回は初日のお宮出し(深夜2時)から見てみたいと早くも気持ちは来秋へと向かっています。

 

一方、呉市内における伝統的な「やぶ文化圏」以外の祭りについては、既述の通り、横路(初崎神社)と広(船津神社・大歳神社)を訪ねました*11

 

初崎神社の祭り

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船津神社の祭り

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大歳神社の祭り

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印象深かったのは初崎神社で目にした「神移り」で、宮司が神殿(本殿)から御神体を御神輿に移すまでの儀式です。

 

神移り

 

この間、宮司の状況に応じてお囃子の音色が細やかに変化します。

具体的には、宮司が⑴拝殿から石段を下りる間(1種類)、⑵中庭を移動する間(1種類)、⑶神殿の石段を上がる間(1種類)、⑷神殿に入って御神体の入った箱を持ち出すまでの間(4種類)、⑸神殿の石段を下りる間(1種類)、⑹中庭を移動する間(1種類)、⑺拝殿の石段を上がる間(1種類)、⑻拝殿に戻って御神体を御神輿に移す間(4種類)の計8つのプロセスにおいて7種類(延べ14種類)のお囃子が奏でられます。

それもお囃子の位置は宮司の動きが全く見えないところにあるため、一人が手の合図で状況を知らせることでこの雅な芸当が行われているのです。

昔から横路は笛と太鼓のバリエーションが豊かな祭礼とは聞いていましたが、想像を遥かに上回っていました*12

加えて興味深かったのは、長年「弁天の祭り」と親しまれている大歳神社(別名、弁天神社)の本祭りで、地元の方の話では同社には「普段は神様がいない」とのこと。

"神様不在"でどうやって祭りを行うのかというと、前夜祭の日に船津神社に祀られている主祭神が御神輿に遷られ、大歳神社まで渡御された後、本祭りの日(今年は10月22日)に船津神社に還御されるという流れになっています。

言うなれば大歳神社は船津神社の御旅所になっているのです。

祭礼一行が船津神社の200段階段を上がり、御神輿が還御する一連の場面はこれまで訪ねていなかったのを後悔するほど美しい眺めでした。

 

祭礼一行が200段階段を上がる様子

 

但し、船津神社の例祭自体は別日(今年は10月1日)に行われているので、筆者の目には船津神社では二回祭りが行われているかのようにも見えました。

一体どういうことなのか、それを紐解く鍵が「地誌 廣町」(田村信三著)の下記のくだりにあります。

 

当時祭礼が行われる度に白石と石内が交替で御輿の先供に当っていた事が古老の口碑によって伝えられているのである。その後幾年かを経たある年、白石と石内の部落連中の間に、先供の問題(明かならず)に端を発して争いが起り、石内部落の連中が、白石部落の太鼓を土手下に放り落としたことが問題になり、裁判沙汰に及んだのである。その結果石内が敗訴になり、今更両迫が祭礼を一緒に行うことを好まず、敗訴のこともあるので、祭を二つに分け、白石の方は従来通り、現行暦の九月、石内の方は一ヶ月遅れて十月として、大歳神社に於て行うこととされたが、丁度気候的に十月は好適であって、白石、両谷以外の部落は之に従って行ったものである。以後九月祭を礼祭といい、十月祭を大祭というようになった。

出所:田村信三(1967)『地誌 廣町』広郷土史研究会, pp. 262-263.

 

文中にある『石内部落の連中が、白石部落の太鼓を土手下に放り落とした』のは、明治23(1890)年以降、明治38(1905)年以前のことです*13

この間に当該「事件」が起き、それを機に船津神社の祭りは、⑴白石・両谷の二地区によって行われる9月の「例祭」(礼祭)と、⑵石内をはじめとするその他の迫によって行われる10月の「大祭」に分かれたということが上記に記されています。

実際、今年見た船津神社の"例祭"も祭りに参加していていたのは、白石と両谷の二地区のみでした。

 

船津神社の祭り

(赤法被が白石地区、青法被が両谷地区)

 

さらに面白いことに前記の「地誌 廣町」には、⑴明治38(1905)年10月の"大祭"には「西部」の初崎神社からも御神輿が一体、渡御されていたこと、⑵帰路では船津神社の御神輿二体とともに広大川の川原で三体が揃って舞う神賑が行われていたことも書かれています*14

今年見た弁天の祭りでは御神輿は船津神社の二体のみでしたが、本来は初崎神社の御神輿も含む三体であったというわけです。

 

弁天の本祭りにおける二体の御神輿

 

なお、弁天の祭りに初崎神社の御神輿が巡幸していたのは、今から70年前の昭和28(1953)年が最後で、翌昭和29(1954)年以降は横路・大広・古新開の「西三郷」は弁天の祭りに参加していません*15

かつて広大川の川原で行われていたという御神輿三体による三舞の儀が再び、行われる日があるのか、それは誰にも分かりませんが、今なおそれを懐かしむ声もあります。

ともあれ初崎神社、船津神社、大歳神社の祭礼はその歴史的変遷が大変興味深く、今後、さらに調査を行い、改めて別稿にまとめて報告したいと考えています。

 

以上のようにかつてやぶ一点に焦点を当てる調査を行っていた筆者が今年、愛媛の伊曽乃祭礼や旧広村各所の祭りに魅了されたのは、4年前の査読者からの指摘を機に自身の関心領域が「祭礼全体とそのあり方」へと広がったからに他なりません。

その結果、従前からフィールド調査を行っていた「やぶ文化圏」を中心とした各地の祭礼についても新たな視座を通して見るようになり、感銘を受けるポイントがそれ以前とは変わってきました。

下記はその一例で、苗代(多賀雄神社)の祭りにおける神幸祭での一幕です。

 

苗代の祭り

 

それまで笛や太鼓を囃し、祭りならではの賑わいが鎮守の森に鳴り響いていたのが、神幸祭が始まって間もないこの瞬間、辺り一帯が静寂に包まれました。

「静謐」という言葉はこの場にこそ相応しいと思える静けさで、まさに「祭りは祀り」であることが苗代の人たちのごく自然な所作によって象徴的に体現されているシーンでした。

今後はこうした自身の琴線に触れる一コマも可能な限り紹介し、祀る対象である神様が意識されないエンタメ化された「祭り」との対照性を際立たせると同時に、「祀りとしての祭りのあり方」についても様々な取材を通じて考えを深めていければと思っています。

最後に今年巡った各所の祭り(前掲を除く)を掲載します。

やぶに限らずこうした「文化の生態系」ともいうべき個性豊かな各地の民俗がこれからも脈々と守られ続けることを切に願っています。

 

各所の祭り*16

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*1:戦前からやぶが祭りに出ていた旧呉市、警固屋地区、昭和地区。

*2:下記参照。

https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2023/07/29/061743

*3:2023年10月17日、新居浜の太鼓祭りも取材。

*4:下記にて公開。

https://www.city.saijo.ehime.jp/uploaded/attachment/66197.pdf

*5:神楽所は初日の10月15日が20箇所、2日目の10月16日が16箇所で、このうち、だんじりが御神輿に供奉するのは統一運行が行われる2日目。初日は伊曽乃神社での「お宮出し」の後、自由運行となる。

*6:伊曽乃神社が鎮座する神戸校区のだんじり11台。

*7:2023年11月5日付、佐藤秀之氏によるSNS投稿からの引用。

*8:西条校区、神拝校区、玉津校区、大町校区のだんじり66台。

*9:還御祭を表す「宮入り」とは別の意で、御神輿を見送る東岸地区の町衆の視点に基づく概念。

*10:2023年12月2日、佐藤秀之氏よりオンラインにて聞き取り。

*11:他にも宵宮祭りの日のみではあったが、川尻の大歳神社も訪問、取材。

*12:全体では、「下(お)り」、「社切り」、「豊後下(さが)り」、「三(みつ)拍子」、「シャーシャラベーボ」(入波(いりは))、「歩み」、「上(あが)り」、「宮めぐり」、「神移り」、「巣篭」、「獅子舞」、「囃子」の12種類のお囃子があり、場面に応じて打ち鳴らされる。

*13:既掲の文中に『裁判沙汰に及んだ』とあるが、日本において近代的司法制度が整ったのは明治23(1890)年なので、それ以降。一方、「地誌 廣町」によれば、少なくも明治38(1905)年には既に10月に"大祭"が行われるようになっていたことが記されているので、それ以前。

*14:田村信三(1967)『地誌 廣町』広郷土史研究会, pp. 263-264.

*15:下記を参考に記述。

若狭浩編(2001)「横路風土記」, p. 40.

*16:宇佐神社、田中八幡神社、吉浦八幡神社、亀山神社、多賀雄神社、竹内神社、高尾神社、大歳神社(川尻)、向日原神社、鯛乃宮神社、伏原神社、平原神社、大歳神社(三条)、八咫烏神社、赤崎神社、龍王神社。